【完結】伯爵令嬢の25通の手紙 ~この手紙たちが、わたしを支えてくれますように~

朝日みらい

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第15章 氷が砕ける夜

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 あの夜会の騒動のあと、王都のざわめきが少しずつ落ち着いていきました。  
 けれどわたしの心には、まだ波が残っていました。  
 彼があのように声をあげたこと、あの場でわたしを守ったこと、それが夢のようで――  
 何度も思い出すたびに胸が熱くなるのです。

 その晩、宿舎の廊下を歩いていると、薄暗い灯がともる部屋の前で足が止まりました。  
 扉の隙間から見えるのは、ひとり静かに椅子に座るアルフォンス様の背中でした。

 窓辺のランプが彼の横顔を淡く照らし、眉間の影を深くしています。  
 その姿があまりに寂しげで、気づけば扉を叩いていました。

「……クラリッサか」

 低い声が返り、わたしは静かに扉を開けました。  
 部屋には香の薄い煙と、落とした書簡の束。机の上には弟君の肖像が立てかけられています。

「お疲れではありませんか?」

「いや。少し昔を、思い出していた」

 その声に、胸の奥がざわめきました。  
 机の上の写真に視線を向けると、鎧をまとった若い兵士が笑っています。  
 あの軍服をわたしが修繕したことを思い出し、自然に頷きました。

「……弟君、なのでしょう?」

 アルフォンス様はしばらく黙ってから、ゆっくりと頷きました。

「名はユリアン。俺とは正反対の男だった。  
 誰にでも笑顔を向け、民にも兵にも慕われた。あいつはいつも俺の前を歩いていた」

 声は穏やかでしたが、内側に押し殺した痛みが隠れていました。  
 わたしは静かに席を詰め、そっと彼の隣に座ります。

「戦が始まったとき、俺は司令官として、あいつを最前線に出した。……そして、戻ってこなかった」

 言葉が途中で途切れ、拳が震えます。  
 その震えが伝わるほど近くに座りながら、わたしは息も止めて彼を見つめました。

「俺は人を守る立場でありながら、最も大切な者を守れなかった。それ以来、愛も絆も、信じることに疲れた。  
 氷の侯爵と呼ばれるほうが、楽だった」

「……アルフォンス様」

 その名を呼ぶと、彼の肩がかすかに揺れました。  
 胸の奥で、張りつめていた氷が軋む音が聞こえた気がしました。

「あなたが氷で覆っていたのは、憎しみではなく、痛みだったのですね」  
「痛みなど、誰にも見せても仕方がない」

「いいえ。誰かに見せなければ凍えてしまいます。  
 わたしで良ければ、その痛みを……半分、分けてください」

 気づけば、わたしは彼の手を取っていました。  
 その手は硬くて冷たかったけれど、微かに震えているのが心地に感じられました。

 彼の瞳が、わたしの顔を真っ直ぐに見つめます。  
 長く、深く――凍った湖がようやくひび割れていくような静かさ。

「……寄り添うと言ったな。王都へ来る前に、お前が」

「はい。愛せなくても、寄り添いたい。あの言葉は、今も変わりません」

「……ふ、不思議な女だ」

 小さく漏らされた言葉のあと、彼の指がわたしの手の上に重なりました。  
 その手が動いて、わたしの髪をそっと撫でます。

「俺のような人間に、どうしてそんなことを」

「あなたは優しい方です。  
 戦の痛みを覚えている人は、誰よりも人の苦しみに敏いでしょう」

「優しい、か……」

 彼の唇がわずかに動き、次の瞬間、指先がわたしの頬に触れました。  
 冷たい指のはずなのに、心の奥が熱くなります。

「……クラリッサ。お前は、冬を怖れないのか」

「もう怖くありません。だって、あなたがいますから」

 その言葉を聞いた彼が、ほんの一瞬だけ笑いました。  
 深い森の奥で光を見つけたような、あたたかく、かすかな笑み。

「……ありがとう。  
 お前に会うまで、ずっと冬の中で立ち尽くしていた。  
 だが今は、ようやく春を信じてみたいと思う」

 彼の言葉が終わるより早く、わたしはその胸に抱き寄せられていました。  
 腕の力強さに、息が止まります。  
 鼓動が伝わり、互いの心が重なります。

 そのまま、彼の低い囁き。

「もう、離さない」

「……はい」

 静寂の夜。  
 外では雪がしんしんと降り続いていましたが、部屋の中に寒さはありませんでした。  
 ひとつの心が氷を溶かし、ひとつの愛が冬を終わらせたのです。



 夜更け、灯を落としたあと、机に置いた便箋を開きました。  
 ゆっくりと書き進めるペンの先が、いつもよりも穏やかに走ります。

『十五通目。  
 彼は、弟を守れなかった痛みを抱えていました。  
 けれど今、わたしの隣でその心の氷を溶かしてくれました。  
 わたしはもう彼の中の冬を恐れません。  
 むしろ、その冬の中で生まれた優しさを抱きしめたいと思います。』

 書き終えた手紙を閉じ、わたしは静かに目を閉じました。  
 長い夜がようやく明けていく気がしました。  
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