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ノアとノアール
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真帆との婚約が成立し、少しずつ生家へ戻るための準備を始めた。
ここに来てまだ間もない真帆は、わたしよりも持ち物が多い。
早く準備をするよう伝えているのに、遅々として進まない。
あれもこれもと、真帆は欲張り過ぎるのだ。
誰かに何かを引き継ぐことも、今のわたしには特にない。
シオンにノア様のことをお伝えしようか迷ったが、余計な世話のように思え、結局何も伝えないまま今に至る。
シオンにはシオンのやり方があるだろう。
ノア様とシオンはうまくやっているようだ。
これでいい。
ここでのわたしの役割はもうない。
…ノア様は、変わりなく過ごされているだろうか。
何かに集中していると食事さえ忘れてしまうが、きちんと食事を取れているだろうか。
夜は眠れているだろうか…。
有り余る時間のせいで、つい余計なことばかり考えてしまう。
ユリウスと呼ぶノア様の声が、いつも頭から離れない。
「ユリウス!」
野太く響く声は、ルドルフ様のものだ。
血相を変えて駆け込んで来たルドルフ様は、あの部屋まで今すぐ来るように命じた。
理由を尋ねてもとにかくついて来いと、それしか言われない。
ノア様不在のあの部屋に、一体何があるのだろうか。
通い慣れた道を、ルドルフ様の後を追って急ぎ足で進む。
重い扉を開けば、すでに主人は居ないはずなのに、今でも懐かしく甘い香りが漂っている。
「来たか…。何とか間に合ったな。」
部屋の中には、すでに十人の妃が勢揃いしていた。
「…ご無沙汰しております。ここに揃われて、今日は何か…」
歓迎されるような出迎えではない。妃らの顔は皆深刻そうだ。
「時間がないのじゃ。ユリウス、早うこちらへ。」
ナターシャ様が早く行けと促すのは寝室だ。
寝相が悪く、ノア様は毎朝ぐちゃぐちゃになった掛け布に包まれて寝ていた。
『ユリウス、おはよう。』
一房だけ跳ねた髪を気にしながら、そう言うノア様はもう、ここにはいない。
…筈だった。
寝台に横たわり、ぐったりとしたまま苦しそうに悶え苦しんでいるのは、ノア様だ。
「…ノア様?」
わたしが来たことにも気がついていないようだ。
「ノア様!」
思わず駆け寄ってその頬に触れると、閉じられていた瞼がゆっくりと開き始める。
「ノア様!聞こえますか!一体、どうされたのです!」
数回瞬きをすると、薄紫色の瞳はわたしの姿をとらえ、触れた手に何度も頬を擦り寄せてくる。
触れてはいけないことなど忘れ、擦り寄せられる頬を両手で包み込むと、ふわっと嬉しそうに顔が綻んだ。
「遅かったじゃないか、ユリウス。一体何処に行っていたんだ?こんなに俺を待たせるなんて。」
「……ノア、様?」
「ずっと具合が悪かったけど、お前が来てくれたら楽になった気がする。だから今回のことは特別に許してやるぞ。」
ノア様の様子がおかしい。
わたしが婚約したことを、ノア様は知っているはずだ。すでに別れの挨拶も済ませてある。
「喉が渇いたな。水をくれるか?」
ニイナ様が水を差し出すと、ノア様はぐいっと一気に飲み干した。
「今日は何かあるのか?皆んな揃って、そんなドレスなんて着て。」
集まった妃らを見回し、不思議そうに首を傾げる。
「おい、お前は誰だ?どうしてここにいる?父上が許可したのか?」
声を掛けられたルドルフ様は、様子がおかしいノア様にどう対応していいのか戸惑っている。
「ルドルフ様がユリウスを連れてきてくれたのです。」
この状況に上手く対応できているのは、ニイナ様だけだ。
他の妃たちも、戸惑いを隠せない。
「なんだ、そうなのか。ご苦労だったな。ありがとう。」
ノア様の姿をしているが、いつものノア様とは明らかに異なる。
「ユリウス、驚くなよ。お前がいなくなってから、ずっと毎日教会に通い続けていたんだ。そうしたら…」
「……ノアール、様」
懐かしい名前を呼ぶ。
ずっと長い間、忘れては思い出す、それの繰り返しだった。思い出していられるのは、僅かな時間だけだ。
ここにいるのは、ノア様だ。
ノアール様ではないと分かっているのに、もう一度その名を呼ぶ。
「ノアール様、なのですか?」
「どうしたんだ?離れている間に、俺の名前すら忘れてしまったのか?」
にまっと笑うその顔は、ノア様のものでもあり、ノアール様のそれとも違いない。
もう一度お会いすることができたのなら、伝えるべき言葉は決まっていた。それなのに、胸が詰まって上手く言葉が出てこない。
「…申し訳、ございませんでした。申し訳…ございませ、ん…」
あの方の足元に跪き、何度もその言葉だけを口にする。
「何を謝っているんだ?今日の俺は機嫌が良いからな。もう、いいよ。全部許してやる。」
許してもらえるとは思ってもいなかった。
許されざることをしたのだ。
あの方のことをずっと覚えたままでいられないことも、記憶を残したまま何度も生まれ変わることも、これはきっとわたしへと課せられた罰なのだ。
ここに来てまだ間もない真帆は、わたしよりも持ち物が多い。
早く準備をするよう伝えているのに、遅々として進まない。
あれもこれもと、真帆は欲張り過ぎるのだ。
誰かに何かを引き継ぐことも、今のわたしには特にない。
シオンにノア様のことをお伝えしようか迷ったが、余計な世話のように思え、結局何も伝えないまま今に至る。
シオンにはシオンのやり方があるだろう。
ノア様とシオンはうまくやっているようだ。
これでいい。
ここでのわたしの役割はもうない。
…ノア様は、変わりなく過ごされているだろうか。
何かに集中していると食事さえ忘れてしまうが、きちんと食事を取れているだろうか。
夜は眠れているだろうか…。
有り余る時間のせいで、つい余計なことばかり考えてしまう。
ユリウスと呼ぶノア様の声が、いつも頭から離れない。
「ユリウス!」
野太く響く声は、ルドルフ様のものだ。
血相を変えて駆け込んで来たルドルフ様は、あの部屋まで今すぐ来るように命じた。
理由を尋ねてもとにかくついて来いと、それしか言われない。
ノア様不在のあの部屋に、一体何があるのだろうか。
通い慣れた道を、ルドルフ様の後を追って急ぎ足で進む。
重い扉を開けば、すでに主人は居ないはずなのに、今でも懐かしく甘い香りが漂っている。
「来たか…。何とか間に合ったな。」
部屋の中には、すでに十人の妃が勢揃いしていた。
「…ご無沙汰しております。ここに揃われて、今日は何か…」
歓迎されるような出迎えではない。妃らの顔は皆深刻そうだ。
「時間がないのじゃ。ユリウス、早うこちらへ。」
ナターシャ様が早く行けと促すのは寝室だ。
寝相が悪く、ノア様は毎朝ぐちゃぐちゃになった掛け布に包まれて寝ていた。
『ユリウス、おはよう。』
一房だけ跳ねた髪を気にしながら、そう言うノア様はもう、ここにはいない。
…筈だった。
寝台に横たわり、ぐったりとしたまま苦しそうに悶え苦しんでいるのは、ノア様だ。
「…ノア様?」
わたしが来たことにも気がついていないようだ。
「ノア様!」
思わず駆け寄ってその頬に触れると、閉じられていた瞼がゆっくりと開き始める。
「ノア様!聞こえますか!一体、どうされたのです!」
数回瞬きをすると、薄紫色の瞳はわたしの姿をとらえ、触れた手に何度も頬を擦り寄せてくる。
触れてはいけないことなど忘れ、擦り寄せられる頬を両手で包み込むと、ふわっと嬉しそうに顔が綻んだ。
「遅かったじゃないか、ユリウス。一体何処に行っていたんだ?こんなに俺を待たせるなんて。」
「……ノア、様?」
「ずっと具合が悪かったけど、お前が来てくれたら楽になった気がする。だから今回のことは特別に許してやるぞ。」
ノア様の様子がおかしい。
わたしが婚約したことを、ノア様は知っているはずだ。すでに別れの挨拶も済ませてある。
「喉が渇いたな。水をくれるか?」
ニイナ様が水を差し出すと、ノア様はぐいっと一気に飲み干した。
「今日は何かあるのか?皆んな揃って、そんなドレスなんて着て。」
集まった妃らを見回し、不思議そうに首を傾げる。
「おい、お前は誰だ?どうしてここにいる?父上が許可したのか?」
声を掛けられたルドルフ様は、様子がおかしいノア様にどう対応していいのか戸惑っている。
「ルドルフ様がユリウスを連れてきてくれたのです。」
この状況に上手く対応できているのは、ニイナ様だけだ。
他の妃たちも、戸惑いを隠せない。
「なんだ、そうなのか。ご苦労だったな。ありがとう。」
ノア様の姿をしているが、いつものノア様とは明らかに異なる。
「ユリウス、驚くなよ。お前がいなくなってから、ずっと毎日教会に通い続けていたんだ。そうしたら…」
「……ノアール、様」
懐かしい名前を呼ぶ。
ずっと長い間、忘れては思い出す、それの繰り返しだった。思い出していられるのは、僅かな時間だけだ。
ここにいるのは、ノア様だ。
ノアール様ではないと分かっているのに、もう一度その名を呼ぶ。
「ノアール様、なのですか?」
「どうしたんだ?離れている間に、俺の名前すら忘れてしまったのか?」
にまっと笑うその顔は、ノア様のものでもあり、ノアール様のそれとも違いない。
もう一度お会いすることができたのなら、伝えるべき言葉は決まっていた。それなのに、胸が詰まって上手く言葉が出てこない。
「…申し訳、ございませんでした。申し訳…ございませ、ん…」
あの方の足元に跪き、何度もその言葉だけを口にする。
「何を謝っているんだ?今日の俺は機嫌が良いからな。もう、いいよ。全部許してやる。」
許してもらえるとは思ってもいなかった。
許されざることをしたのだ。
あの方のことをずっと覚えたままでいられないことも、記憶を残したまま何度も生まれ変わることも、これはきっとわたしへと課せられた罰なのだ。
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