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しおりを挟むなんでこの人助けたんだろ、俺――下りのエレベーターを待っている間に天辺に上っていた血液が降りていく。それと同時に、匡史はそんなことを思っていた。
匡史にとって池上はどうでもいい人の最たるもので、これをきっかけに退社なんかしてくれたら、きっと前の環境も戻ってきて、めでたしめでたし、なはずだった。けれど、見てみぬふりは出来なかった。倫理的にもどうだとは思ったが、池上は昔の自分と重なる部分があって、放っておけないのだ。ルックスも性別も望んで生まれたわけではないのに、それによって僻まれたり、傷つけられたり――信用できないと言われたり。そして何よりの理由は、衝動だ。理由ともいえないそれが、一番の理由だった。
けれど冷静になるともしかしたら池上は、仕事が取れるならあの部長を抱いてもいいと思っていたのかもしれない。そう考えると、ちょっと不安ではあった。
「あの……やっぱりまずかったですか?」
エレベーターの扉が開き、中に乗り込むと匡史はそっと隣の横顔を見やった。
「いや……正直、君が乗り込んでくるまで、状況が呑み込めてなかった」
「それならよかった。俺は、性別や見た目であんなふうに扱われるのすごく嫌で……」
「僕は自分から自分の性別を告げたことがないし、金丸くんのように見た目がいいわけでもないからなあ」
のんびりとしたいつもの口調で微笑む池上に、匡史はため息を吐いた。たった今、自分が大変な状況におかれていたことなど、忘れているような口調に唖然とする。
「……俺だって自分からアルファです、なんて言ったことないですよ。カッコよくありたいとは思ってますけど……でも、課長は自分がイケメンアルファだって自覚した方がいいと思います」
匡史が言うと、イケメンアルファって、と池上が笑う。その顔は整っているのにどこか可愛らしくて、訳もなく匡史の心臓がドキリと跳ねた。今までどんなアルファに会ってもこんなふうに感じたことはないのに、本当に池上に対してはイレギュラーなことが多い。
「……僕は、自分の性別が嫌いなんだ。だから、あまり意識しないようにしてるんだよ。運命とかセオリーとかそういうのは考えたくないんだ」
池上の言葉に匡史は驚きを隠せなかった。匡史の考えとはほぼ真逆だった。やはり自分は安藤に言われたように過去の恋愛に捕らわれて、運命を過剰に信じ、崇高なものにしてしまっているのだろうか。
池上の考えに俄然興味が湧いたが、そんな考えでいるから、先ほどのようなことに巻き込まれることもあるだろう。
「そういう考えもありますけど……それだと危ないこともあるし、そんなんじゃ昨日の電話の彼に言われませんか?」
「電話の彼……ああ。瑛蒔には、ぼけっとしすぎ、ってよく怒られるな」
向こうはホントしっかりしてるから、と笑う池上の顔が本当に幸せそうで、匡史は嫌な感情がみぞおち辺りからせり上がってくるのを覚えた。胸まで持ち上がってきたその感情が何か分からない。自分の感情もつかめないまま池上を見つめていると、その視線を感じたのだろう池上がこちらを見やった。その途端、匡史を鈴蘭のような儚くて、でも瑞々しい香りが包み込んだ。その香りが体中を巡る感覚と同時に、気づけば池上の胸倉を乱暴に掴んで体を壁際に押さえつけ、深く唇を合わせていた。
突然の衝動に、やった本人さえ驚いているのだから池上が驚くのも当然で、唇を離した後も、じっと見開いたままの目でこちらを見つめていた。
「か、なまる、くん……? これは一体……」
自分でも処理しきれないこの突飛な行動の理由を聞かれても匡史に答えることは出来なかった。
「課長から、香りが、して……すみません」
池上にキスをした瞬間から、花が一斉に開いたように香りが強くなった。眩暈がする。訳の分からないこの衝動の理由が自分でも分からなくてただ謝るしか出来なかった。
「いや……きっと、エレベーター内に誰かの香りが残ってたんだろう。これは事故だ」
「……すみません、でした」
誰かの残り香と池上は言うが、それが池上の香りだということに匡史は気づいていた。けれどどうしてこの人の香りを自分が感じるのか、どうしてこんなにも自我が保てなくなるのか、それはわからなくて、結局池上の言葉に合わせて頷くしか出来なかった。
呆然となる匡史の背後でエレベーターの扉が静かに開き始める。匡史は池上から手を引き剥がし扉に向かい合った。
「俺、まだ廻るところがあるので、これで」
池上に背を向けたまま伝えると後ろから、わかった、と反応が返った。
歩き出す匡史に、気をつけて、と言葉が掛かったが、聞こえなかった風を装いそのまま池上と別れた。
――言えなかった。キスをしたのは香りを嗅いだせいだけではなくて、池上の彼氏を想像して妙な苛立ちを覚えたから、なんて。
池上に最愛の人がいてやっかむのなら分かる。けれど、相手に嫉妬してあんなことをしてしまうなんて、自分でも分からなかった。
相手はアルファ。自分が惹かれることなど決してないのだ。
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