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第5話:流動食の優しさ
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ヴォルガード領の春は、爆発的な生命力とともにやってくる。
雪解け水が大地を潤し、果樹園では果実がたわわに実り始めていた。
しかし、豊作は新たな課題を連れてくる。
「ヴィオラ様! 収穫した果物が多すぎて、このままだと腐らせてしまいます!」
「加工場から報告! ジャムの瓶詰めラインが追いつきません! 輸送中の振動でゲルが崩れ、離水しています!」
執務室に次々と飛び込んでくる報告に、私は眼鏡を押し上げながら指示を飛ばした。
「輸送用のジャムは、ペクチンの配合率を〇・五パーセント上げて! ゲル強度を高めて共振を防ぐのです。ただし、口溶けを損なわないようpHは三・二を厳守して」
さらに、領内の老人ホームからも相談が来ていた。
歯が悪く、固いパンや肉が食べられずに弱っていく高齢者が多いという。
「……食材をミキサーにかけてペースト状にし、ゲル化剤で再成形しましょう。単に刻むだけでは表面積が増えて水分が分離し、かえって誤嚥のリスクが高まります。目指すのは、喉をスッと通る均一な凝集性です」
私は実験室と執務室、そして加工場を往復する日々を送っていた。
充実していた。
私の知識が、そのまま領民の利益となり、命を救う技術になる。
王都にいた頃のような、空虚な書類仕事とは違う。
――けれど、物理法則は冷徹だ。
私の体という有機体にも、弾性限界が存在する。
「……あれ?」
ある日の午後。
加工場でジャムの粘度計を覗き込んでいた時、視界がぐらりと歪んだ。
地面が液状化したのかと思ったが、違う。
私の平衡感覚がエラーを起こしているのだ。
「ヴィオラ様!?」
周囲の悲鳴が遠くなる。
意識がブラックアウトする直前、私は「倒れる角度と衝撃を計算して受け身を……」と考えたが、体が従う前に、温かく巨大な何かに受け止められたのを感じた。
「……気がついたか」
ベッドの脇に、アレクセイ様が座っていた。
いつもの威圧感はなく、眉間に深い皺を寄せて、心配そうに私を見下ろしている。
「アレクセイ、様……。私、倒れて……」
私は起き上がろうとしたが、頭が重く、喉が焼けつくように痛かった。
風邪も併発しているらしい。
「す、みません……、ジャムの納品期限が……」
「仕事の話は禁止だ。今は寝てろ」
アレクセイ様は強引に私を寝かせると、サイドテーブルから湯気の立つボウルを取り上げた。
「腹が減ってるだろう。だが、喉が腫れて固形物は通らんはずだ」
「……ええ。摩擦係数が高すぎて、嚥下困難です」
「だろうな。だから、これを作った」
彼がスプーンですくったのは、キラキラと透き通る、琥珀色のゼリー状のものだった。
スープ?
いや、お粥だろうか?
「口を開けろ」
「じ、自分で……」
「手が震えてるぞ。こぼしたらシーツの洗濯が増える。非効率だろ?」
……痛いところを突く。
私は大人しく口を開けた。
スプーンが口に運ばれる。
舌の上に乗ったそれは、体温でほろりと崩れた。
とろみのあるスープが、痛む喉を優しくコーティングしながら、重力に従ってスルスルと食道へ流れ落ちていく。
まったく痛くない。
それどころか、喉が潤う感覚が心地よい。
「……これは?」
「野菜と鶏肉を煮込んで裏ごしし、果物から抽出したペクチンで固めた。ゲル化スープだ」
アレクセイ様が、少し照れくさそうに言った。
「お前が老人たちのために指導していた理論だ。『誤嚥を防ぐには、液体と固体の間の適切な粘弾性が必要』……そう言ってたからな」
彼は私の講義を、ただ聞いていただけでなく、完全に理解し、料理として実践してみせたのだ。
しかも、私の体調に合わせて、カロリーと栄養価を凝縮した形で。
「……完璧です」
「ん?」
「味も、粘度も、そして……、その配慮も。完璧な流動食です」
胸の奥が、熱いもので満たされていく。
これは風邪の熱だろうか?
いや、違う。
脳内物質――ドーパミンやオキシトシンが過剰分泌されているのだ。
原因は明確。
目の前の、この不器用な男性だ。
「……なら、全部食え。早く治してもらわないと、俺が困る」
「領地経営に支障が出るからですか?」
「違う」
アレクセイ様は、次の一口を私の口に運びながら、ぶっきらぼうに言った。
「お前の講釈を聞かないと、調子が狂うんだ。……静かすぎて、落ち着かん」
それは遠回しな、けれどこれ以上ないほどの「必要としている」という宣言だった。
私は口の中のスープと一緒に、甘い感情を飲み込んだ。
「……ふふ。変な方ですね」
「うるさい。食え」
その日、私はアレクセイ様にスプーンで食事をさせてもらうという、人生で最も非効率的で、かつ幸福な時間を過ごした。
数日後。
私が復帰すると、加工場からは嬉しい報告が届いた。
私の計算通りに作られたゲル強度最適化ジャムは、王都への輸送にも耐え、その美しい見た目と口溶けの良さで爆発的なヒット商品となっていた。
さらにアレクセイ・ヴォルガード辺境伯領の特産品として、その名は他国にまで広まりつつあった。
一方で。
私の元には、王都の知人(かつてこっそり技術支援していた商会の娘など)から、手紙が届き始めていた。
『夜会でアリス様の化粧が崩れて大騒ぎになったとか』
『王宮の馬車が酷く揺れて、外交官が激怒したという噂も……』
手紙を読みながら、私は冷めた紅茶を一口飲んだ。
「……構造崩壊が始まったようですね」
私が去ったことで、王都を支えていた微細なバランスが失われたのだ。
それは、もう誰にも止められない。
雪解け水が大地を潤し、果樹園では果実がたわわに実り始めていた。
しかし、豊作は新たな課題を連れてくる。
「ヴィオラ様! 収穫した果物が多すぎて、このままだと腐らせてしまいます!」
「加工場から報告! ジャムの瓶詰めラインが追いつきません! 輸送中の振動でゲルが崩れ、離水しています!」
執務室に次々と飛び込んでくる報告に、私は眼鏡を押し上げながら指示を飛ばした。
「輸送用のジャムは、ペクチンの配合率を〇・五パーセント上げて! ゲル強度を高めて共振を防ぐのです。ただし、口溶けを損なわないようpHは三・二を厳守して」
さらに、領内の老人ホームからも相談が来ていた。
歯が悪く、固いパンや肉が食べられずに弱っていく高齢者が多いという。
「……食材をミキサーにかけてペースト状にし、ゲル化剤で再成形しましょう。単に刻むだけでは表面積が増えて水分が分離し、かえって誤嚥のリスクが高まります。目指すのは、喉をスッと通る均一な凝集性です」
私は実験室と執務室、そして加工場を往復する日々を送っていた。
充実していた。
私の知識が、そのまま領民の利益となり、命を救う技術になる。
王都にいた頃のような、空虚な書類仕事とは違う。
――けれど、物理法則は冷徹だ。
私の体という有機体にも、弾性限界が存在する。
「……あれ?」
ある日の午後。
加工場でジャムの粘度計を覗き込んでいた時、視界がぐらりと歪んだ。
地面が液状化したのかと思ったが、違う。
私の平衡感覚がエラーを起こしているのだ。
「ヴィオラ様!?」
周囲の悲鳴が遠くなる。
意識がブラックアウトする直前、私は「倒れる角度と衝撃を計算して受け身を……」と考えたが、体が従う前に、温かく巨大な何かに受け止められたのを感じた。
「……気がついたか」
ベッドの脇に、アレクセイ様が座っていた。
いつもの威圧感はなく、眉間に深い皺を寄せて、心配そうに私を見下ろしている。
「アレクセイ、様……。私、倒れて……」
私は起き上がろうとしたが、頭が重く、喉が焼けつくように痛かった。
風邪も併発しているらしい。
「す、みません……、ジャムの納品期限が……」
「仕事の話は禁止だ。今は寝てろ」
アレクセイ様は強引に私を寝かせると、サイドテーブルから湯気の立つボウルを取り上げた。
「腹が減ってるだろう。だが、喉が腫れて固形物は通らんはずだ」
「……ええ。摩擦係数が高すぎて、嚥下困難です」
「だろうな。だから、これを作った」
彼がスプーンですくったのは、キラキラと透き通る、琥珀色のゼリー状のものだった。
スープ?
いや、お粥だろうか?
「口を開けろ」
「じ、自分で……」
「手が震えてるぞ。こぼしたらシーツの洗濯が増える。非効率だろ?」
……痛いところを突く。
私は大人しく口を開けた。
スプーンが口に運ばれる。
舌の上に乗ったそれは、体温でほろりと崩れた。
とろみのあるスープが、痛む喉を優しくコーティングしながら、重力に従ってスルスルと食道へ流れ落ちていく。
まったく痛くない。
それどころか、喉が潤う感覚が心地よい。
「……これは?」
「野菜と鶏肉を煮込んで裏ごしし、果物から抽出したペクチンで固めた。ゲル化スープだ」
アレクセイ様が、少し照れくさそうに言った。
「お前が老人たちのために指導していた理論だ。『誤嚥を防ぐには、液体と固体の間の適切な粘弾性が必要』……そう言ってたからな」
彼は私の講義を、ただ聞いていただけでなく、完全に理解し、料理として実践してみせたのだ。
しかも、私の体調に合わせて、カロリーと栄養価を凝縮した形で。
「……完璧です」
「ん?」
「味も、粘度も、そして……、その配慮も。完璧な流動食です」
胸の奥が、熱いもので満たされていく。
これは風邪の熱だろうか?
いや、違う。
脳内物質――ドーパミンやオキシトシンが過剰分泌されているのだ。
原因は明確。
目の前の、この不器用な男性だ。
「……なら、全部食え。早く治してもらわないと、俺が困る」
「領地経営に支障が出るからですか?」
「違う」
アレクセイ様は、次の一口を私の口に運びながら、ぶっきらぼうに言った。
「お前の講釈を聞かないと、調子が狂うんだ。……静かすぎて、落ち着かん」
それは遠回しな、けれどこれ以上ないほどの「必要としている」という宣言だった。
私は口の中のスープと一緒に、甘い感情を飲み込んだ。
「……ふふ。変な方ですね」
「うるさい。食え」
その日、私はアレクセイ様にスプーンで食事をさせてもらうという、人生で最も非効率的で、かつ幸福な時間を過ごした。
数日後。
私が復帰すると、加工場からは嬉しい報告が届いた。
私の計算通りに作られたゲル強度最適化ジャムは、王都への輸送にも耐え、その美しい見た目と口溶けの良さで爆発的なヒット商品となっていた。
さらにアレクセイ・ヴォルガード辺境伯領の特産品として、その名は他国にまで広まりつつあった。
一方で。
私の元には、王都の知人(かつてこっそり技術支援していた商会の娘など)から、手紙が届き始めていた。
『夜会でアリス様の化粧が崩れて大騒ぎになったとか』
『王宮の馬車が酷く揺れて、外交官が激怒したという噂も……』
手紙を読みながら、私は冷めた紅茶を一口飲んだ。
「……構造崩壊が始まったようですね」
私が去ったことで、王都を支えていた微細なバランスが失われたのだ。
それは、もう誰にも止められない。
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