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第6話:王都で嘔吐
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その夜、王宮では隣国との友好を記念する重要な夜会が開かれていた。
主役はもちろん、フレデリック王太子と、その新しい婚約者であるアリス・メルヴィル男爵令嬢だ。
「見て、フレデリック様! 今日の私のドレス、素敵でしょう?」
「ああ、アリス。君はいつだって最高に可愛いよ」
この日のために特注した真紅のドレス。
そして、唇には鮮やかな赤のルージュをたっぷりと引いていた。
だが、彼女は知らなかった。
王都の夏場における室温の上昇と、化粧品に求められるチキソトロピーの重要性を。
かつてヴィオラは、季節ごとに化粧品の油脂配合を調整していた。
唇に塗る時は摩擦熱と圧力で滑らかに伸び、塗った後は体温でも垂れずにその場に留まる。
その絶妙なバランスを計算していたのだ。
しかし、今の王宮にそんな知識を持つ者はいない。
安価な材料で作られたルージュは、熱気溢れる会場の温度に耐えられなかった。
「……あら? アリス様、口元が……」
挨拶に来た伯爵夫人が、ギョッとして声を詰まらせた。
「え? 何ですか?」
アリスが愛想笑いを浮かべた、その瞬間だった。
唇に乗っていた赤い油脂が、構造を維持できずに液状化し、重力に従って顎へと垂れ落ちたのだ。
「ひっ……!」
それはまるで、口から大量の血を吐いているか、あるいは肉が溶け出したかのようなホラー映像だった。
さらに悪いことに、ファンデーションも汗と脂で分離し、ドロドロの泥のように崩れ始めていた。
「キャアアアアッ! 化け物!?」
「顔が! 顔が溶けているぞ!」
会場に悲鳴が響き渡る。
フレデリック王太子は、隣にいる赤いドロドロの何かを見て、腰を抜かした。
「ア、アリス……!? なんだその顔は!」
「え? いやああああっ! 鏡! 鏡をちょうだい!」
アリスが叫びながら顔を手で覆うと、手についた赤いルージュがさらに頬やドレスに広がり、惨劇の様相を呈していく。
美しいはずの次期王太子妃の姿は、完全に崩壊していた。
しかし、悲劇は夜会だけで終わらなかった。
翌日、外交問題が発生する。
隣国の大使を乗せ、王宮から迎賓館へと向かう儀礼用馬車の中でのことだ。
「……フレデリック殿下。この国の馬車は、随分と活発な動きをするのだな」
皮肉たっぷりに言ったのは、隣国の大使だった。
彼の顔色は青白い。
馬車は先ほどから、舗装された道を走っているにもかかわらず、激しく上下に跳ね続けていた。
「も、申し訳ありません! 御者! もっと静かに走れんのか!」
フレデリックが小窓を開けて怒鳴る。
「無理です殿下! これ以上速度を落とすと止まってしまいます!」
原因はサスペンションの不全だった。
バネの振動を減衰させるためのダンパー。
その中に封入されているオイルが、メンテナンス不足で劣化し、スカスカになっていたのだ。
これでは一度受けた衝撃を吸収できず、いつまでも振動が収束しない。
車輪が小さな石を乗り上げた瞬間、増幅された衝撃が車内を襲った。
「うぷっ……!」
限界を迎えていた大使が、口元を押さえた。
そして次の瞬間、堪えきれずに盛大に嘔吐した。
「うわああああっ!?」
吐瀉物は、正面に座っていたフレデリック王太子の自慢の衣装に直撃した。
狭い車内に充満する酸っぱい臭い。
揺れ続ける馬車。
地獄絵図である。
このゲロまみれ外交事件は、瞬く間に諸外国へ知れ渡り、王国の権威は地に落ちた。
フレデリック王太子の管理能力が問われることとなり、王宮内での彼の立場は、アリスの化粧と同様にドロドロに崩れ去っていったのだった。
*
私はアレクセイ様と共に、領地の丘の上に立っていた。
眼下に広がるのは、かつて土砂崩れが頻発していた荒地だ。
しかし今は違う。
私の計算に基づいて地形が整えられ、美しい段々畑と、水をスムーズに流すための水路が整備されている。
夕日が水路の水面を反射させ、キラキラと輝いていた。
「……壮観だな」
アレクセイ様が、感慨深げに呟いた。
風が彼の黒髪を揺らす。
「お前の頭の中はどうなってるんだ。……あの荒地を、これほど美しい流線形に整えるとはな」
流線形。
流体抵抗を最小限に抑える、最も効率的で美しい形状。
「今年の作物は豊作確定です。水路の勾配も計算通り、流速は侵食を起こさない限界値に収まりました」
王都では、見栄と虚飾が剥がれ落ちている頃だろう。
けれど、ここでは違う。
泥にまみれ、計算と労働によって積み上げた実体のある成果だけが、確かな輝きを放っている。
私はアレクセイ様の肩に頭を預けた。
この安定した平衡状態が、いつまでも続けばいい。
いや、私が計算し続ける限り、この幸せは物理的に揺るがないはずだ。
そう確信していた私だったが――。
安定を乱す外乱は、最後の最後で、なりふり構わず押し寄せてくるものらしい。
数日後。
領地の境界に、ボロボロになった王家の馬車が現れたとの急報が入った。
主役はもちろん、フレデリック王太子と、その新しい婚約者であるアリス・メルヴィル男爵令嬢だ。
「見て、フレデリック様! 今日の私のドレス、素敵でしょう?」
「ああ、アリス。君はいつだって最高に可愛いよ」
この日のために特注した真紅のドレス。
そして、唇には鮮やかな赤のルージュをたっぷりと引いていた。
だが、彼女は知らなかった。
王都の夏場における室温の上昇と、化粧品に求められるチキソトロピーの重要性を。
かつてヴィオラは、季節ごとに化粧品の油脂配合を調整していた。
唇に塗る時は摩擦熱と圧力で滑らかに伸び、塗った後は体温でも垂れずにその場に留まる。
その絶妙なバランスを計算していたのだ。
しかし、今の王宮にそんな知識を持つ者はいない。
安価な材料で作られたルージュは、熱気溢れる会場の温度に耐えられなかった。
「……あら? アリス様、口元が……」
挨拶に来た伯爵夫人が、ギョッとして声を詰まらせた。
「え? 何ですか?」
アリスが愛想笑いを浮かべた、その瞬間だった。
唇に乗っていた赤い油脂が、構造を維持できずに液状化し、重力に従って顎へと垂れ落ちたのだ。
「ひっ……!」
それはまるで、口から大量の血を吐いているか、あるいは肉が溶け出したかのようなホラー映像だった。
さらに悪いことに、ファンデーションも汗と脂で分離し、ドロドロの泥のように崩れ始めていた。
「キャアアアアッ! 化け物!?」
「顔が! 顔が溶けているぞ!」
会場に悲鳴が響き渡る。
フレデリック王太子は、隣にいる赤いドロドロの何かを見て、腰を抜かした。
「ア、アリス……!? なんだその顔は!」
「え? いやああああっ! 鏡! 鏡をちょうだい!」
アリスが叫びながら顔を手で覆うと、手についた赤いルージュがさらに頬やドレスに広がり、惨劇の様相を呈していく。
美しいはずの次期王太子妃の姿は、完全に崩壊していた。
しかし、悲劇は夜会だけで終わらなかった。
翌日、外交問題が発生する。
隣国の大使を乗せ、王宮から迎賓館へと向かう儀礼用馬車の中でのことだ。
「……フレデリック殿下。この国の馬車は、随分と活発な動きをするのだな」
皮肉たっぷりに言ったのは、隣国の大使だった。
彼の顔色は青白い。
馬車は先ほどから、舗装された道を走っているにもかかわらず、激しく上下に跳ね続けていた。
「も、申し訳ありません! 御者! もっと静かに走れんのか!」
フレデリックが小窓を開けて怒鳴る。
「無理です殿下! これ以上速度を落とすと止まってしまいます!」
原因はサスペンションの不全だった。
バネの振動を減衰させるためのダンパー。
その中に封入されているオイルが、メンテナンス不足で劣化し、スカスカになっていたのだ。
これでは一度受けた衝撃を吸収できず、いつまでも振動が収束しない。
車輪が小さな石を乗り上げた瞬間、増幅された衝撃が車内を襲った。
「うぷっ……!」
限界を迎えていた大使が、口元を押さえた。
そして次の瞬間、堪えきれずに盛大に嘔吐した。
「うわああああっ!?」
吐瀉物は、正面に座っていたフレデリック王太子の自慢の衣装に直撃した。
狭い車内に充満する酸っぱい臭い。
揺れ続ける馬車。
地獄絵図である。
このゲロまみれ外交事件は、瞬く間に諸外国へ知れ渡り、王国の権威は地に落ちた。
フレデリック王太子の管理能力が問われることとなり、王宮内での彼の立場は、アリスの化粧と同様にドロドロに崩れ去っていったのだった。
*
私はアレクセイ様と共に、領地の丘の上に立っていた。
眼下に広がるのは、かつて土砂崩れが頻発していた荒地だ。
しかし今は違う。
私の計算に基づいて地形が整えられ、美しい段々畑と、水をスムーズに流すための水路が整備されている。
夕日が水路の水面を反射させ、キラキラと輝いていた。
「……壮観だな」
アレクセイ様が、感慨深げに呟いた。
風が彼の黒髪を揺らす。
「お前の頭の中はどうなってるんだ。……あの荒地を、これほど美しい流線形に整えるとはな」
流線形。
流体抵抗を最小限に抑える、最も効率的で美しい形状。
「今年の作物は豊作確定です。水路の勾配も計算通り、流速は侵食を起こさない限界値に収まりました」
王都では、見栄と虚飾が剥がれ落ちている頃だろう。
けれど、ここでは違う。
泥にまみれ、計算と労働によって積み上げた実体のある成果だけが、確かな輝きを放っている。
私はアレクセイ様の肩に頭を預けた。
この安定した平衡状態が、いつまでも続けばいい。
いや、私が計算し続ける限り、この幸せは物理的に揺るがないはずだ。
そう確信していた私だったが――。
安定を乱す外乱は、最後の最後で、なりふり構わず押し寄せてくるものらしい。
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領地の境界に、ボロボロになった王家の馬車が現れたとの急報が入った。
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