「冷酷で理屈っぽい」と捨てられましたが、この国を影から支えていたの、実は私なんです

水上

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第7話:塑性変形

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 辺境伯邸の応接間に通されたその男は、かつての煌びやかなオーラを完全に失っていた。

 乱れた金髪、目の下の濃い隈、そして薄汚れた衣服。
 フレデリック殿下の姿は、見る影もなくやつれ果てていた。

「ヴィオラ……! ああ、やっと会えた!」

 私が部屋に入ると、殿下は椅子から転げ落ちんばかりの勢いで立ち上がり、私に駆け寄ろうとした。

 しかし、背後に控えていたアレクセイ様の鋭い咳払いで、彼はビクリと足を止めた。

「……何の用ですか、殿下。今はもう廃嫡の危機にあると伺いましたが」

 私は冷静に、汚れた実験着のまま(ジャムの粘度測定中だったのだ)彼を見据えた。
 フレデリック殿下は必死な形相で訴え始めた。

「聞いてくれ、ヴィオラ! 私が間違っていたんだ! アリスはとんでもない女だった!」

 外交での失敗、インク汚れによる書類の不備、そしてアリス嬢の浪費による王室予算の枯渇。

 さらに、アリス嬢が裏で商会と癒着し、王宮の備品を横流ししていたことまで発覚したという。

「あいつは私の愛を利用していただけだった! それに比べて、君は……、君はいつも陰で私を支えてくれていたんだな。インクの調整も、馬車の整備も、すべて君がやってくれていたことに、失って初めて気づいたんだ!」

 殿下は涙ながらに手を差し伸べた。

「戻ってきてくれ、ヴィオラ! 君が必要なんだ! 今ならまだ間に合う。父上にも掛け合って、婚約破棄を撤回させる。そうすれば、私は王太子の座を守れるし、君も王妃になれるんだぞ!」

 自分勝手な理屈。
 私はため息をつき、眼鏡のブリッジを押し上げた。
 
「……殿下。貴方は何もわかっておられませんね」

「え?」

「貴方は愛を、都合よく形状記憶合金のように元に戻るものだと思っているようですが……」

 私は一歩前に進み、冷徹な声で告げた。

「あなたの愛なんて、私にとっては塑性変形そのものです」

「そ、そせい……?」

 殿下が呆けたように繰り返す。

「物体に弾性限界を超える強い力が加わると、力を取り除いても歪みが残り、二度と元の形には戻らなくなる現象のことです」

 私は自分の胸に手を当てた。

「貴方の度重なる侮辱、理不尽な要求、そしてあの日、公衆の面前で私を切り捨てたこと。……それらは全て、私の心に不可逆的な歪みを与えました。私の心はもう、弾性限界を超えて破断してしまったのです」

「そ、そんな理屈っぽいことを言わないでくれ! 謝る! 謝るから! 昔のように笑ってくれよ!」

「無理です、物理的に」

 私はきっぱりと断言した。

「一度塑性変形を起こした金属を元に戻すには、一度溶かして鋳直すしかありません。ですが、私は貴方のためにもう一度溶けるつもりはありません。……今の私は、別の場所で、新しい形状として安定していますから」

 私が視線を横に向けると、そこには腕組みをして柱に寄りかかる、アレクセイ様の姿があった。

 彼は何も言わず、ただ静かに頷いてくれた。

「くっ……! どうしてだ! 辺境の野蛮な男より、王太子の私の方がいいに決まっているだろう!」

 殿下が逆上し、私に掴みかかろうとした。
 その瞬間。

 床が揺れるような踏み込みと共に、アレクセイ様が私の前に割って入った。
 殿下の腕を軽々と掴み上げ、万力のような力で締め上げる。

「……彼女に気安く触れるな」

 低く、地獄の底から響くような声。

「ひぃっ……!」

 殿下の顔から血の気が引いていく。

「この領地は今や、王都を凌ぐ生産力と技術力を持っている。ヴィオラはその心臓だ。……彼女を侮辱することは、ヴォルガード辺境伯領全軍を敵に回すことと同義だと思え」

「あ、あわ……、わかった、帰る! 帰るから離してくれ!」

 アレクセイ様が手を離すと、殿下は尻餅をつき、這うようにして逃げ出した。

 その後、彼は王都に戻る途中で捕縛され、廃嫡が決まったという。
 アリス嬢と共に修道院へ送られ、一生清貧な生活を送ることになるだろう。

 嵐が去った応接間。
 静寂が戻ると、私は大きく息を吐いた。

「……終わりましたね」

「ああ。騒がしい奴だった」

 アレクセイ様はいつものぶっきらぼうな調子に戻っていたが、その手は私の肩を優しく包んでいた。

「……塑性変形、か。上手いことを言うな」

「事実ですから。……でも、一つだけ訂正があります」

 私は彼を見上げた。

「私の心は、ただ壊れて歪んだだけではありません。貴方という熱源に出会って、より強く、しなやかな形に焼き入れされたのです」

「……焼き入れ、か。じゃあ、もう折れることはないな」

「ええ」

 アレクセイ様は嬉しそうに笑い、私の額に口づけた。

「ヴィオラ。俺は最初、お前を有能な技術者として求めた。だが今は違う」

「……では、今は?」

「俺の人生において、お前は安定化に不可欠な……、なんと言えばいいんだ」

 彼が言葉に詰まるのを見て、私はクスリと笑った。

「愛しているで、十分ですよ。脳内物質の分泌が確認できれば」

「……ああ、それだ。愛している、ヴィオラ」

 私たちは窓辺に立ち、領地を見下ろした。

 泥沼だった道は石畳になり、寒かった家々には暖かな煙突の煙が立ち上り、荒れ地だった丘は美しい流線形の畑になっている。

「泥水も清流も、物理法則に従えばただの流体に過ぎません」

 私は彼の手を握り返した。

「でも、どこをどう流れるかで価値が変わる。……私は、泥沼から抜け出して、やっと自分の流れるべき場所を見つけました」

 ここが、私の最適解。
 流れ着いた先は、無骨で不器用だけれど、世界で一番温かい場所だった。

 私は眼鏡を外し、彼に身を委ねた。
 もう計算はいらない。

 二人の心が溶け合うこの現象だけは、どんな複雑な方程式でも解き明かせない、素敵な魔法なのだから。
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