「君は大丈夫だろ?」と可哀想な元恋人を選択した夫。~今さら復縁を迫っても、愛は既に錆び付いています~

水上

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第5話:微塵もない罪悪感

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「彼女は傷ついているんだ。心も体もボロボロなんだよ。そんな彼女を、宿屋のような他人の目に晒される場所に追いやれと言うのか? 僕にはそんな残酷なことはできない!」

「残酷、ですか」

 ヴィクトリアは静かに鸚鵡返しにした。

 自分のテリトリーに、何の前触れもなく異分子を持ち込まれ、それを拒めば残酷呼ばわりされる。
 残酷なのはどちらだろうか。

「それに、ヴィクトリア」

 ギルバートの声が、急に甘く、懇願するような響きに変わる。

「君なら分かってくれると思ったんだ。君は強くて、賢くて、僕なんかよりずっと立派な女性だ。こんな嵐の夜に、か弱い女性を見捨てるような人じゃないだろう?」

 ――君は強いから。

 その言葉が、ヴィクトリアの胸に小さな楔のように打ち込まれた。
 それは呪いの言葉だ。

 強いから、我慢できるだろう。
 強いから、傷つかないだろう。
 強いから、この理不尽を受け入れろ。

 彼はヴィクトリアの強さを、自分の都合の良いように消費している。
 ヴィクトリアは視線を下げ、ギルバートの腕の中にいるシルヴィアを見た。

 彼女はヴィクトリアと目が合うと、サッと視線を逸らし、さらに小さくなってギルバートのコートを握りしめた。 

 その仕草は、「私をいじめないで」と訴えているようであり、同時に「この人は私の味方だ」と主張しているようにも見えた。

 無力という名の武器。
 ヴィクトリアが持っていない、そして持ちたいとも思わない武器だ。

「……分かりました」

 ヴィクトリアは、表情筋一つ動かさずに言った。
 ここで拒絶すれば、ギルバートは逆上し、ヴィクトリアを悪者に仕立て上げるだろう。

 そして何より、ずぶ濡れの人間を玄関に放置し続けるのは、衛生上も屋敷の品位に関してもマイナスだ。

「客用寝室を一室、用意させます。医師も呼びましょう。ですがギルバート様、これはあくまで一時的な保護です。明日以降、彼女の処遇については改めて話し合います」

「ありがとう、ヴィクトリア! やっぱり君は優しいな!」

 ギルバートは満面の笑みを浮かべた。

 自分の要求が通ったことへの満足感。
 妻が理解を示したことへの安堵。

 そこには、元恋人を妻の前に連れてきたことへの罪悪感など微塵もなかった。

「さあ、シルヴィア。もう大丈夫だよ。ヴィクトリアが良いと言ってくれた」

 ギルバートは足早に階段を駆け上がっていく。
 泥水が、磨き上げられた階段を汚していく。

 ヴィクトリアはその背中を見上げながら、完璧な姿勢で立ち尽くしていた。

「奥様……」

 古参のメイド長が、心配そうに声をかけてくる。
 ヴィクトリアは振り返り、いつも通りの静かな声で指示を出した。

「泥を拭いてちょうだい。……染みにならないうちに」

「かしこまりました」

 メイドたちが動き出す。
 ヴィクトリアは、自分の指先が冷たくなっていることに気づいた。

 雨のせいではない。
 これは、予感だ。

 秩序と論理で守られてきたこのアッシュフォード邸に、制御不能な感情という名の泥水が流れ込んできたことへの、生理的な拒絶反応だった。

 嵐はまだ止まない。
 むしろ、屋敷の中こそが、これから本当の嵐に見舞われようとしていた。

 ヴィクトリアはもう一度、汚れた階段を見つめた後、無言で執務室へと戻っていった。

 彼女の聖域だった場所にも、夫が他の女性を気遣う甘い声が、遠くから微かに響いてくるような気がした。
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