「君は大丈夫だろ?」と可哀想な元恋人を選択した夫。~今さら復縁を迫っても、愛は既に錆び付いています~

水上

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第4話:雨の日の侵略者

 その夜、アッシュフォード領は激しい雷雨に見舞われていた。

 窓を叩く雨粒の音は、まるで何者かが屋敷への侵入を求めてノックし続けているかのように、不穏なリズムを刻んでいた。

 ヴィクトリアは暖炉の前で、輸入された専門書を膝に広げていた。
 夫のギルバートは、夕方から「少し出かけてくる」と言って馬車を出していた。

 行き先は告げられなかったが、ヴィクトリアは深く追求しなかった。
 彼には彼の交友関係があるし、経営が安定した今、多少の息抜きは必要だろうと判断したからだ。

 しかし、時計の針が深夜一時を回っても、彼は戻らない。
 ページをめくる手が止まる。

 雷鳴が轟き、一瞬、部屋の中が青白く照らし出された。

(……遅いですね)

 心配というのもあるが、明日予定されている商談に夫が寝不足で現れることへの懸念が先に立った。

 その時だった。
 玄関ホールの方が騒がしくなったのは。

「誰か! 誰かいないか! 湯だ! タオルをありったけ持ってきてくれ!」

 ギルバートの声だ。
 だが、いつもの穏やかなバリトンではない。

 何かに怯え、同時に何かに酔いしれているような、切迫した響きがあった。

 ヴィクトリアは本を閉じ、静かに立ち上がった。
 廊下に出ると、執事やメイドたちが慌てて走り回っている。

 彼女は乱れることのない足取りで、玄関ホールへと向かった。

「……ギルバート様? 一体どうなさいましたの」

 階段を降りきったところで、ヴィクトリアの足が止まった。
 目の前の光景に、思考が一瞬、空白になる。

 重厚な扉が開け放たれ、激しい雨風が吹き込んでいた。
 高価な絨毯の上に、泥水が滴り落ちている。

 そこに立っていたのは、ずぶ濡れになったギルバートだった。
 その上質なコートは泥に汚れ、髪も肌も濡れそぼっている。

 だが、問題は彼ではなかった。

 彼が、その腕の中に、今にも壊れそうなほど華奢な女性を抱きかかえていたことだ。

 女性は震えていた。
 濡れた金茶色の髪が顔に張り付き、薄いドレスは雨を吸って肌にまとわりついている。

 唇は紫色になり、ギルバートの胸に顔を埋めて啜り泣いていた。

「ヴィクトリア!」

 妻の姿を認めたギルバートは、安堵と焦燥が混じった表情で叫んだ。

「大変なんだ。彼女が……、シルヴィアが、街外れの街道で倒れていたんだ!」

 シルヴィア。
 その名を聞いた瞬間、ヴィクトリアの脳裏に古い記憶が展開される。

 シルヴィア・ローズベリー。
 ローズベリー男爵家の令嬢。

 そして――ギルバートがヴィクトリアと結婚する前に交際していた、かつての恋人。

 彼女は隣国の貴族に嫁いだはずだ。
 なぜ、こんな嵐の夜に、この領地にいるのか。

「……シルヴィア様、でいらっしゃいますか?」

 ヴィクトリアの声は、雨音に負けないほど凛としていた。
 しかし、温度は限りなく低い。

 腕の中の女性が、びくりと肩を震わせて顔を上げた。
 大きな垂れ目、庇護欲をそそる小動物のような顔立ち。

 記憶の中の姿と変わらないが、今は見る影もなく憔悴しきっている。

「……う、うう……、ヴィクトリア、様……」

「可哀想に……、まずは彼女を暖めないと」

 ギルバートはヴィクトリアの困惑など目に入らないかのように、階段を上ろうとする。

 ヴィクトリアは無言でその前に立ちふさがったわけではないが、冷ややかな視線で彼を制した。

「ギルバート様。状況が飲み込めません。なぜ、隣国にいらっしゃるはずの彼女がここに? それに、医師を呼ぶならまだしも、なぜ屋敷に連れ帰られたのですか」

 正論だった。
 宿屋もあるし、病院もある。

 元恋人を、しかも深夜に、妻のいる屋敷に連れ込むなど、貴族の常識以前に人としての配慮に欠けている。

 ギルバートは痛ましげな顔でシルヴィアをさらに強く抱きしめた。

「聞いてくれ、ヴィクトリア。彼女は……、離縁されたんだ」

「離縁?」

「ああ。子供ができないという理由で、一方的に追い出されたそうだ。実家のローズベリー家も世間体を気にして彼女を受け入れなかった。行くあてもなく、この雨の中を彷徨っていたんだよ!」

 ギルバートの声は熱を帯びていた。
 彼は今、自分が悲劇のヒロインを救う騎士であることに陶酔している。

 ヴィクトリアにはそれが痛いほど分かった。

「……それはお気の毒なことです。ですが、だからといって我が家にお連れするのは順序が違います。まずは彼女のご実家に連絡を入れ、しかるべき手順で――」

「そんな冷たいことを言わないでくれ!」

 ギルバートが叫んだ。
 その大声に、使用人たちが息を飲む。

 彼はヴィクトリアを、まるで血も涙もない怪物を見るような目で見つめた。

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