「君は大丈夫だろ?」と可哀想な元恋人を選択した夫。~今さら復縁を迫っても、愛は既に錆び付いています~

水上

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第10話:善意という名の暴力

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「君は優秀だけど、少し完璧主義すぎるよ。もっと人を頼ることを覚えないと。それに、シルヴィアは傷ついているんだ。社会の役に立っているという実感が必要なんだよ」

 ――まただ。

 シルヴィアのため。
 その言葉が、ヴィクトリアの仕事の重要性をいとも簡単に踏み潰していく。

「それに、助手がいれば君だってもっと、夫である僕との時間を作れるだろう? これは僕たちのためでもあるんだ」

 ギルバートはヴィクトリアの肩に手を置き、顔を覗き込んだ。
 その瞳には一点の曇りもない善意が宿っている。 

 彼は本気で信じているのだ。
 ヴィクトリアの仕事は誰にでもできる単純作業であり、シルヴィアを入れることは妻へのプレゼントになると。

 ヴィクトリアは、肩に置かれた夫の手がひどく重く感じられた。
 この手は、ヴィクトリアがどれほどの重圧と戦い、どれほどの知識を積み上げてきたか、何も知らない手だ。

「……私、頑張ります!」

 シルヴィアが一歩進み出て、両手を握りしめた。

「ヴィクトリア様のようにはできないかもしれませんが……、私なりに、精一杯お手伝いします! だから、どうかチャンスをください!」

 その瞳は潤んでいて、健気そのものだった。
 ここで「いいえ、迷惑です」と言えば、ヴィクトリアは健気な弱者の挑戦を踏みにじる冷酷な女になる。

 外堀は、とっくに埋められていた。

 ヴィクトリアは数秒間、沈黙した。
 頭の中で、今後のリスク計算を行う。 

 拒絶すれば夫との関係は悪化し、彼は隠れてシルヴィアに何かさせるかもしれない。
 それよりは、目の届く範囲で管理した方がマシか。

 あるいは――

(……いいえ。これも機会かもしれませんね)

 ヴィクトリアの中で、冷徹な思考回路がカチリと切り替わった。
 夫がここまで言うのなら、見せてやればいい。

 プロの仕事というものが、素人の「頑張ります」でどうにかなるものなのかどうかを。

「……分かりました」

 ヴィクトリアは完璧な微笑みを浮かべた。

「そこまで仰るなら、お願いしましょうか。ちょうど、人手が欲しいと思っていたところでしたの」

「本当!? ありがとう、ヴィクトリア!」

「ありがとうございます!」

 二人の顔がぱあっと輝く。
 ヴィクトリアは立ち上がり、部屋の隅にある小さな空き机を指した。

「では、あちらの席をお使いください。まずは……、そうですね、過去の取引台帳の整理からお願いしましょうか」

 それは、既に集計が終わり、保管するだけの書類の山だった。
 ミスをしても実害はなく、誰がやっても変わらない作業。

 つまり、子供のお使いレベルの仕事だ。

「はい! やらせてください!」

 シルヴィアは嬉々として机に向かった。
 ギルバートは満足そうに頷き、「じゃあ、仲良くね」と言い残して部屋を出て行った。

 扉が閉まると、部屋にはヴィクトリアとシルヴィア、二人きりになった。

 シルヴィアは張り切って台帳を開き、羽ペンを手に取る。
 カリカリ、という音が響き始めた。

 ヴィクトリアは自分の席に戻り、再び分析表に向き合った。
 だが、先ほどまでの静謐な空気はもう戻らない。

 視界の端に映るピンク色のドレス。
 時折聞こえる「あれ?」「んー?」という独り言、ため息。

 異物が混入した空間は、ヴィクトリアの集中力を削いでいく。

(……足枷、ですね)

 ヴィクトリアは心の中で呟いた。

 助手などではない。
 これは、ヴィクトリアの仕事の邪魔をするために送り込まれた、悪意なき妨害工作員だ。

「あ、あのう、ヴィクトリア様?」

 早速、シルヴィアが声をかけてきた。

「ここの数字、インクが滲んでいて読めないんですけどぉ……」

「……前後を確認すれば推測できます。計算してみてください」

「け、計算……、えっと……」

 シルヴィアは指を折って数え始めた。
 ヴィクトリアは音もなくペンを置いた。

 今日中に終わらせる予定だった分析は、明日に持ち越しになりそうだ。

 夫は言った。
 君のためだと。

 だが、その結果がこれだ。
 ヴィクトリアの負担は減るどころか、倍増した。

 窓の外を見る。
 空は晴れているのに、ヴィクトリアの心には重たい鉛色の雲が垂れ込めていた。

 彼女の聖域はこうして、善意という名の暴力によって、呆気なくこじ開けられたのだった。
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