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第9話:悪意のない夫の提案
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アッシュフォード邸の執務室は、ヴィクトリアにとって城であり、砦だった。
分厚いオーク材の扉一枚隔てた向こう側がどんなに騒がしかろうと、ここには静謐な時間と秩序がある。
机の上には、鉱山から届いたばかりの最新の成分分析表が広げられていた。
ヴィクトリアは無言で数値を追い、羽ペンを走らせる。
インクの匂い、紙の擦れる音。
この部屋にあるのは、感情ではなく論理だ。
曖昧な可哀想や、なんとなくではなく、明確な正解と誤りだけの世界。
(……鉄鉱石の純度が安定しない。南側の坑道の湿度が影響しているのかもしれないわね)
ヴィクトリアは眉間に微かな皺を寄せ、図面を引き寄せた。
この問題を解決すれば、生産効率はさらに三パーセント向上する。
それはアッシュフォード家の収益に直結し、引いては領民の生活を豊かにする。
彼女の頭脳は、常にこの領地の心臓部として機能していた。
コンコン、とノックの音がした。
ヴィクトリアの集中力が途切れる。
返事をする間もなく、扉が無遠慮に開かれた。
「やあ、ヴィクトリア。仕事中かい?」
ギルバートだ。
その後ろに、縮こまるようにしてシルヴィアが立っていた。
ヴィクトリアは音もなくペンを置き、椅子の背もたれに体を預けた。
「……ギルバート様。ノックの後に返事をお待ちいただくよう、何度かお願いしたはずですが」
「ごめんごめん。急用というわけじゃないんだけど、素晴らしい提案があってね」
ギルバートは悪びれる様子もなく、部屋の中へと足を踏み入れた。
シルヴィアも恐る恐るついてくる。
彼女の視線が、部屋中に積み上げられた書物や図面にキョロキョロと泳いだ。
「すごい……。本がいっぱい……」
「ヴィクトリア、聞いてくれ。シルヴィアが『ただ居候しているのは申し訳ない』と言い出してね。何か家の手伝いをしたいと言うんだ」
ギルバートの声は明るかった。
まるで「迷子の仔猫に飼い主が見つかった」と報告する少年のようだ。
ヴィクトリアは静かにシルヴィアを見た。
彼女はヴィクトリアと目が合うと、ビクッと肩を震わせ、上目遣いで訴えかけてきた。
「あ、あの……、私、お掃除もお料理も苦手で……、でも、何かお役に立ちたくて……。その、文字を書くことなら、少しは……」
語尾が消え入るように小さくなる。
要約すれば、「肉体労働はしたくないが、何かやったという既成事実は欲しい」ということだろうか。
ヴィクトリアは内心で溜息をつき、冷静に返答した。
「お気持ちはありがたいですが、屋敷の管理はマーサたち使用人で足りています。お客様であるシルヴィア様に労働を強いるわけにはいきません」
「いやいや、そう堅苦しく考えないでくれよ」
ギルバートが割って入った。
「彼女は君の仕事を手伝いたいと言っているんだ。君はいつも忙しそうだろう? ちょうどいいじゃないか。簡単な書類整理とか、清書とか、彼女に任せれば君も楽になる」
ヴィクトリアの表情が凍りついた。
「……ギルバート様。私の扱っている書類がどういうものか、ご存じですか?」
彼女は机の上の分析表を指し示した。
「これは鉱石の成分表です。こちらにあるのは精錬工程の温度管理記録。どれも専門的な知識がなければ、分類することさえ不可能です。単なる文字の羅列ではありません」
「そんなに難しいことなのかい?」
ギルバートはきょとんとした顔で、ヴィクトリアの手元を覗き込んだ。
「ただ数字を書き写したり、古い紙をまとめたりするだけだろう? シルヴィアだって読み書きはできる。彼女はこれでもローズベリー男爵家の令嬢だぞ?」
「……専門用語や計算式が含まれます。一つの書き間違いが、現場の事故や数千枚の金貨の損失に繋がるのです」
「大袈裟だなあ、ヴィクトリアは」
ギルバートは笑った。
それは、ヴィクトリアのプロフェッショナルとしての矜持を、「また神経質なことを言っている」と一蹴する笑いだった。
分厚いオーク材の扉一枚隔てた向こう側がどんなに騒がしかろうと、ここには静謐な時間と秩序がある。
机の上には、鉱山から届いたばかりの最新の成分分析表が広げられていた。
ヴィクトリアは無言で数値を追い、羽ペンを走らせる。
インクの匂い、紙の擦れる音。
この部屋にあるのは、感情ではなく論理だ。
曖昧な可哀想や、なんとなくではなく、明確な正解と誤りだけの世界。
(……鉄鉱石の純度が安定しない。南側の坑道の湿度が影響しているのかもしれないわね)
ヴィクトリアは眉間に微かな皺を寄せ、図面を引き寄せた。
この問題を解決すれば、生産効率はさらに三パーセント向上する。
それはアッシュフォード家の収益に直結し、引いては領民の生活を豊かにする。
彼女の頭脳は、常にこの領地の心臓部として機能していた。
コンコン、とノックの音がした。
ヴィクトリアの集中力が途切れる。
返事をする間もなく、扉が無遠慮に開かれた。
「やあ、ヴィクトリア。仕事中かい?」
ギルバートだ。
その後ろに、縮こまるようにしてシルヴィアが立っていた。
ヴィクトリアは音もなくペンを置き、椅子の背もたれに体を預けた。
「……ギルバート様。ノックの後に返事をお待ちいただくよう、何度かお願いしたはずですが」
「ごめんごめん。急用というわけじゃないんだけど、素晴らしい提案があってね」
ギルバートは悪びれる様子もなく、部屋の中へと足を踏み入れた。
シルヴィアも恐る恐るついてくる。
彼女の視線が、部屋中に積み上げられた書物や図面にキョロキョロと泳いだ。
「すごい……。本がいっぱい……」
「ヴィクトリア、聞いてくれ。シルヴィアが『ただ居候しているのは申し訳ない』と言い出してね。何か家の手伝いをしたいと言うんだ」
ギルバートの声は明るかった。
まるで「迷子の仔猫に飼い主が見つかった」と報告する少年のようだ。
ヴィクトリアは静かにシルヴィアを見た。
彼女はヴィクトリアと目が合うと、ビクッと肩を震わせ、上目遣いで訴えかけてきた。
「あ、あの……、私、お掃除もお料理も苦手で……、でも、何かお役に立ちたくて……。その、文字を書くことなら、少しは……」
語尾が消え入るように小さくなる。
要約すれば、「肉体労働はしたくないが、何かやったという既成事実は欲しい」ということだろうか。
ヴィクトリアは内心で溜息をつき、冷静に返答した。
「お気持ちはありがたいですが、屋敷の管理はマーサたち使用人で足りています。お客様であるシルヴィア様に労働を強いるわけにはいきません」
「いやいや、そう堅苦しく考えないでくれよ」
ギルバートが割って入った。
「彼女は君の仕事を手伝いたいと言っているんだ。君はいつも忙しそうだろう? ちょうどいいじゃないか。簡単な書類整理とか、清書とか、彼女に任せれば君も楽になる」
ヴィクトリアの表情が凍りついた。
「……ギルバート様。私の扱っている書類がどういうものか、ご存じですか?」
彼女は机の上の分析表を指し示した。
「これは鉱石の成分表です。こちらにあるのは精錬工程の温度管理記録。どれも専門的な知識がなければ、分類することさえ不可能です。単なる文字の羅列ではありません」
「そんなに難しいことなのかい?」
ギルバートはきょとんとした顔で、ヴィクトリアの手元を覗き込んだ。
「ただ数字を書き写したり、古い紙をまとめたりするだけだろう? シルヴィアだって読み書きはできる。彼女はこれでもローズベリー男爵家の令嬢だぞ?」
「……専門用語や計算式が含まれます。一つの書き間違いが、現場の事故や数千枚の金貨の損失に繋がるのです」
「大袈裟だなあ、ヴィクトリアは」
ギルバートは笑った。
それは、ヴィクトリアのプロフェッショナルとしての矜持を、「また神経質なことを言っている」と一蹴する笑いだった。
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