「君は大丈夫だろ?」と可哀想な元恋人を選択した夫。~今さら復縁を迫っても、愛は既に錆び付いています~

水上

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第11話:優しい助手と理解のある夫

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 アッシュフォード邸の執務室には、張り詰めた空気が漂っていた。

 時刻は午後三時。
 西日が窓から差し込み、部屋の中を琥珀色に染めている。

 ヴィクトリアは、机の上に広げられた羊皮紙と向き合っていた。
 これは単なる書類ではない。

 隣国の貿易商会と交わす、新規の鉄鋼輸出契約書だ。
 条項の一つ一つが、今後のアッシュフォード家の収益を左右する。

 ヴィクトリアはこの三日間、法務知識を総動員して、一言一句の不利もないよう修正を重ねてきた。

(……あと一行。ここの免責条項さえ書き終えれば、完成だわ)

 ペン先が紙の上を滑る。
 極度の集中状態にあるヴィクトリアの耳には、時計の針の音すら届いていない。

「……あの、ヴィクトリア様?」

 不意に、背後から遠慮がちな声がかかった。
 シルヴィアだ。

 彼女は昨日から助手としてこの部屋に居座っているが、実際のところ、彼女ができる仕事など何一つなかった。

 ヴィクトリアが与えた古新聞の整理も早々に飽き、今は部屋の隅で退屈そうにしていたはずだ。

 ヴィクトリアはペンを止めず、視線も動かさずに答えた。

「今、手が離せません。後になさってください」

「でも、ヴィクトリア様、ずっとお座りになったままで……。お疲れかと思って、コーヒーを淹れてきたんです」

 甘ったるい香りが漂ってきた。
 砂糖とミルクをたっぷりと入れた、子供が好むようなコーヒーの香りだ。

「……お気遣いなく」

「そんなこと仰らずに! 私、ヴィクトリア様のお役に立ちたくて……!」

 足音が近づいてくる。
 嫌な予感がした。

 ヴィクトリアが顔を上げ、「来ないで」と言おうとした、その瞬間だった。

「きゃっ!?」

 何もないカーペットの縁に、シルヴィアがつまずいた。
 彼女の手から、なみなみと注がれたコーヒーカップが離れる。

 物理法則に従い、液体は放物線を描いて――

 ヴィクトリアの目の前にある、完成直前の契約書へと降り注いだ。

 バシャッ、という湿った音が響く。
 羊皮紙が、瞬く間に茶色く汚れていく。

 丁寧に書き上げたインクの文字が、コーヒーの熱と水分で滲み、判読不能な黒い染みへと変わっていく。

 時間は止まったようだった。
 ヴィクトリアは、ただ呆然と、三日間の努力の結晶がゴミに変わる様を見つめていた。

「あ……、あ、あ……」

 シルヴィアが床にへたり込み、震える手で口元を覆う。

「ど、どうしよう……。私、私……!」

 ヴィクトリアはゆっくりと立ち上がった。
 怒鳴ることも、嘆くこともなかった。

 ただ静かに、汚れた羊皮紙の端をつまみ上げ、コーヒーが滴るのを避けるように机の脇へ置いた。

「……シルヴィア様」

 呼びかけた声は、自分でも驚くほど低かった。

「……ごめんなさい、ごめんなさいぃっ!」

 シルヴィアが悲鳴のように叫び出し、両手で顔を覆って泣きじゃくり始めた。

「わざとじゃないんです! 私、ただヴィクトリア様に休んでほしくて……、ううっ、ひっ、ぐすっ……!」

 その泣き声は、まるで虐げられた被害者のそれだった。

 ヴィクトリアが何か言う前に、執務室の扉が開いた。
 騒ぎを聞きつけたギルバートが飛び込んでくる。

「何事だ!? シルヴィア!?」

 ギルバートの視界に飛び込んだのは、床にうずくまって泣きじゃくるシルヴィアと、その前で冷然と立ち尽くすヴィクトリアの姿だった。

 彼は一瞬で状況をした。

「ヴィクトリア! 君は一体何をしたんだ!」

 ギルバートは駆け寄り、シルヴィアを抱き起こした。
 シルヴィアは夫の胸にすがりつき、「ギルバート様ぁ……!」とさらに声を上げて泣く。

「ま、待ってください、ギルバート様」

 ヴィクトリアは冷静に説明しようとした。

「彼女が転んで、作成中の重要書類にコーヒーをこぼしたのです。その書類は……」

「書類だと!?」

 ギルバートが叫び、ヴィクトリアの言葉を遮った。

 彼は机の上の、茶色く変色した紙切れを一瞥した。
 そして、信じられないものを見るような目で妻を睨みつけた。

「たかが紙切れ一枚のために、彼女をここまで追い詰めたのか!?」

 その言葉を聞いて、ヴィクトリアの思考が一瞬、停止した。
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