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第28話:旅立ち
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部屋は、シルヴィアが散らかしたままの状態だった。
整理整頓と称して並べ替えられた無意味な書類の山。
ヴィクトリアはそれらには目もくれず、ギルバートが座る当主の机へと歩み寄った。
机の中央、彼が必ず目にする場所に、一通の封筒を置く。
中には、彼女の署名が済んだ離縁届が入っている。
そして、その横に、分厚い書類の束を二つ並べた。
一つは、シルヴィアのために作った『アッシュフォード家 鉱山運営心得』。
「笑顔でお願いすればなんとかなる」「数字はだいたいでいい」と書かれた、彼らが望んだ通りの甘いマニュアルだ。
表紙にはピンクのリボンがかけられている。
もう一つは、ヴィクトリアが昨夜徹夜で仕上げた『最終事業報告書』。
リボンはない。
無機質な黒い紐で綴じられている。
そこには、現在の黒字がいかにヴィクトリアの計算と人脈の上に成り立っているか、そして彼女がいなくなった後、具体的に何日後に資金がショートし、どの設備が停止するかが、冷酷なまでの正確さで予測されていた。
ヴィクトリアは、その黒い表紙にメモを一枚貼り付けた。
『ご希望通り、全てを貴方達にお任せします。この報告書が、私の最後の妻としての務めです。――理解できればの話ですが』
ペンを置く。
カツン、という音が、部屋の空気を震わせた。
これで、本当に終わりだ。
ヴィクトリアは執務室を見渡した。
かつて、ここで夢を見ていた自分がいた。
夫と二人三脚で、この領地を豊かにしようと誓った自分が。
その幻影が、部屋の隅で泣いているような気がした。
だが、ヴィクトリアはもう、その幻影に手を差し伸べることはしない。
彼女は背筋を伸ばし、毅然として部屋を出た。
裏口には、紋章のない黒塗りの馬車が待っていた。
実家であるスターリング家が手配してくれたものだ。
マーサがトランクを御者に渡し、ヴィクトリアの方へ向いた。
「……ヴィクトリア様。本当にこれでよろしかったのですね?」
「ええ……。マーサ、ありがとう。一緒に付いてきてくれて」
ヴィクトリアは手袋を外した手で、マーサの手を一度だけ強く握った。
「私の主は、貴女だけですから。どこまでもお供させていただきます」
この屋敷で唯一、ヴィクトリアの孤独を理解し、支えてくれた戦友。
夫とは違って、彼女は本当の意味で、ヴィクトリアの支えとなっていた。
彼女には心から感謝している。
ヴィクトリアは彼女と共に馬車に乗り込んだ。
扉が閉まる。
御者が鞭を振るい、馬車が動き出した。
ガタゴトという振動が体に伝わる。
窓の外を、見慣れたアッシュフォード領の景色が流れていく。
手入れの行き届いていない庭木。
古びた屋敷の外壁。
そして遠くに見える、黒煙を上げる製鉄所。
それらがどんどん小さくなり、やがて森の陰に隠れて見えなくなった。
ヴィクトリアは深く座席に身を預け、大きく息を吐き出した。
「……ああ」
声が出た。
ため息ではない。
肺の底に溜まっていた澱をすべて吐き出し、新しい空気を吸い込んだような、清々しい響きだった。
胸のつかえが取れていた。
肩の荷が下りていた。
もう、夫の機嫌を伺う必要はない。
理不尽な要求に笑顔で耐える必要もない。
自分の能力を隠し、馬鹿なふりをする必要もない。
自由だ。
ヴィクトリアは窓を開け、風を浴びた。
風は少し冷たかったが、その冷たささえも心地よかった。
それは、誰の許可もいらない、自分だけの感覚だったからだ。
「さようなら、ギルバート。さようなら、シルヴィア」
風に流れるように呟いた言葉には、憎しみも未練もなかった。
あるのは、ただの事実確認だけ。
彼らは過去になった。
これからのヴィクトリアは、鋼鉄のように強く、そして銀のように輝く未来へと進むのだ。
馬車は街道を走り抜け、北へと向かう。
その車輪の音は、新しい人生のファンファーレのように、力強く響き続けていた。
整理整頓と称して並べ替えられた無意味な書類の山。
ヴィクトリアはそれらには目もくれず、ギルバートが座る当主の机へと歩み寄った。
机の中央、彼が必ず目にする場所に、一通の封筒を置く。
中には、彼女の署名が済んだ離縁届が入っている。
そして、その横に、分厚い書類の束を二つ並べた。
一つは、シルヴィアのために作った『アッシュフォード家 鉱山運営心得』。
「笑顔でお願いすればなんとかなる」「数字はだいたいでいい」と書かれた、彼らが望んだ通りの甘いマニュアルだ。
表紙にはピンクのリボンがかけられている。
もう一つは、ヴィクトリアが昨夜徹夜で仕上げた『最終事業報告書』。
リボンはない。
無機質な黒い紐で綴じられている。
そこには、現在の黒字がいかにヴィクトリアの計算と人脈の上に成り立っているか、そして彼女がいなくなった後、具体的に何日後に資金がショートし、どの設備が停止するかが、冷酷なまでの正確さで予測されていた。
ヴィクトリアは、その黒い表紙にメモを一枚貼り付けた。
『ご希望通り、全てを貴方達にお任せします。この報告書が、私の最後の妻としての務めです。――理解できればの話ですが』
ペンを置く。
カツン、という音が、部屋の空気を震わせた。
これで、本当に終わりだ。
ヴィクトリアは執務室を見渡した。
かつて、ここで夢を見ていた自分がいた。
夫と二人三脚で、この領地を豊かにしようと誓った自分が。
その幻影が、部屋の隅で泣いているような気がした。
だが、ヴィクトリアはもう、その幻影に手を差し伸べることはしない。
彼女は背筋を伸ばし、毅然として部屋を出た。
裏口には、紋章のない黒塗りの馬車が待っていた。
実家であるスターリング家が手配してくれたものだ。
マーサがトランクを御者に渡し、ヴィクトリアの方へ向いた。
「……ヴィクトリア様。本当にこれでよろしかったのですね?」
「ええ……。マーサ、ありがとう。一緒に付いてきてくれて」
ヴィクトリアは手袋を外した手で、マーサの手を一度だけ強く握った。
「私の主は、貴女だけですから。どこまでもお供させていただきます」
この屋敷で唯一、ヴィクトリアの孤独を理解し、支えてくれた戦友。
夫とは違って、彼女は本当の意味で、ヴィクトリアの支えとなっていた。
彼女には心から感謝している。
ヴィクトリアは彼女と共に馬車に乗り込んだ。
扉が閉まる。
御者が鞭を振るい、馬車が動き出した。
ガタゴトという振動が体に伝わる。
窓の外を、見慣れたアッシュフォード領の景色が流れていく。
手入れの行き届いていない庭木。
古びた屋敷の外壁。
そして遠くに見える、黒煙を上げる製鉄所。
それらがどんどん小さくなり、やがて森の陰に隠れて見えなくなった。
ヴィクトリアは深く座席に身を預け、大きく息を吐き出した。
「……ああ」
声が出た。
ため息ではない。
肺の底に溜まっていた澱をすべて吐き出し、新しい空気を吸い込んだような、清々しい響きだった。
胸のつかえが取れていた。
肩の荷が下りていた。
もう、夫の機嫌を伺う必要はない。
理不尽な要求に笑顔で耐える必要もない。
自分の能力を隠し、馬鹿なふりをする必要もない。
自由だ。
ヴィクトリアは窓を開け、風を浴びた。
風は少し冷たかったが、その冷たささえも心地よかった。
それは、誰の許可もいらない、自分だけの感覚だったからだ。
「さようなら、ギルバート。さようなら、シルヴィア」
風に流れるように呟いた言葉には、憎しみも未練もなかった。
あるのは、ただの事実確認だけ。
彼らは過去になった。
これからのヴィクトリアは、鋼鉄のように強く、そして銀のように輝く未来へと進むのだ。
馬車は街道を走り抜け、北へと向かう。
その車輪の音は、新しい人生のファンファーレのように、力強く響き続けていた。
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