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第29話:能天気な夫の絶望
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アッシュフォード邸の玄関ホールに、馬車の到着を告げる蹄の音が響いた。
夕暮れ時の空は茜色に染まり、屋敷の長い影が庭に伸びている。
「楽しかったねギルバート様! あの丘のお花、本当に綺麗だったぁ」
「だろう? 君が喜んでくれてよかったよ。やっぱり、たまには息抜きが必要だよね」
馬車から降りたギルバートとシルヴィアは、まるで新婚夫婦のように腕を組んで笑い合っていた。
シルヴィアの手には、野原で摘んだ花で作った不格好な花冠と、なぜか「綺麗だったから」と拾ってきた石ころが握られている。
ギルバートの服には草の種がついていたが、彼は気にする様子もない。
「さあ、帰ろう。ヴィクトリアも首を長くして待っているはずだ」
「はい! お土産話、たくさんしてあげましょうね!」
二人は上機嫌で重厚な扉を開けた。
「ただいま!」と明るい声を響かせる。
しかし、返ってきたのは静寂だけだった。
いつもなら、執事やメイド長が整列して出迎えるはずの玄関ホールには、誰の姿もない。
ただ、夕方の光が埃の中を漂っているだけだ。
「……あれ? 誰もいないのかい?」
ギルバートは不思議そうに眉をひそめた。
使用人たちがサボっているのか?
いや、ヴィクトリアの教育が行き届いたこの屋敷で、そんなことはあり得ない。
「マーサ? ……おい、誰かいないか!」
声を張り上げるが、奥から反応はない。
屋敷全体が、まるで呼吸を止めているかのような不気味な静けさに包まれていた。
「やだ、ギルバート様……。なんだか怖いですぅ」
シルヴィアが不安そうにギルバートの腕にしがみつく。
「大丈夫だよ。きっと皆、裏庭で作業でもしているんだろう。……まったく、ヴィクトリアは何をしているんだ。夫の帰宅も出迎えないなんて」
ギルバートは少しむっとした。
彼は今日、シルヴィアとのピクニックで良き夫、良き保護者としての満足感を得ていた。
その仕上げとして、ヴィクトリアに「君も来ればよかったのに」「お土産だよ」と優越感混じりの優しさを見せる予定だったのだ。
その観客がいないことが、彼の機嫌を損ねた。
「きっと執務室だ。また根を詰めて仕事をしているに違いない」
ギルバートは足早に階段を上がり、執務室へと向かった。
シルヴィアも小走りでついてくる。
「ヴィクトリア! 入るよ!」
ノックもせずに扉を開け放つ。
しかし、そこにも彼女の姿はなかった。
部屋は、朝に出たときと同じ――いや、何かが決定的に違っていた。
シルヴィアが散らかした書類の山はそのままだが、部屋の空気が冷たい。
主の体温が感じられないのだ。
「いない……? どこに行ったんだ?」
ギルバートが部屋を見回すと、中央の書き物机の上に、ポツンと置かれた物が目に入った。
封筒と、二冊の書類の束だ。
夕日がその場所だけをスポットライトのように照らしている。
ギルバートは吸い寄せられるように机に近づいた。
「何かしら、これ? ……わぁ、ピンクのリボン!」
シルヴィアが先に手を伸ばしたのは、ピンクのリボンがかけられた薄い冊子だった。
表紙には美しいカリグラフィーで『アッシュフォード家 鉱山運営心得』と書かれている。
「見てください、ギルバート様! 『笑顔でお願いすればなんとかなります』って書いてある! これ、ヴィクトリア様が私のために書いてくれたんですね!」
シルヴィアは嬉しそうにページをめくった。
中には、子供に言い聞かせるような平易な言葉で、精神論や抽象的なアドバイスが並んでいる。
「やっぱりヴィクトリア様は優しいなぁ。私、これがあれば頑張れそうです!」
シルヴィアの無邪気な声とは対照的に、ギルバートの手は震えていた。
彼が手に取ったのは、その隣にあった封筒だ。
封はされておらず、中から一枚の紙が覗いている。
彼がそれを引き出した瞬間、息が止まった。
『離縁届』
一番上に、太く明確な文字でそう書かれている。
そして、妻の署名欄には、既にヴィクトリアの美しいサインと、実印が押されていた。
夕暮れ時の空は茜色に染まり、屋敷の長い影が庭に伸びている。
「楽しかったねギルバート様! あの丘のお花、本当に綺麗だったぁ」
「だろう? 君が喜んでくれてよかったよ。やっぱり、たまには息抜きが必要だよね」
馬車から降りたギルバートとシルヴィアは、まるで新婚夫婦のように腕を組んで笑い合っていた。
シルヴィアの手には、野原で摘んだ花で作った不格好な花冠と、なぜか「綺麗だったから」と拾ってきた石ころが握られている。
ギルバートの服には草の種がついていたが、彼は気にする様子もない。
「さあ、帰ろう。ヴィクトリアも首を長くして待っているはずだ」
「はい! お土産話、たくさんしてあげましょうね!」
二人は上機嫌で重厚な扉を開けた。
「ただいま!」と明るい声を響かせる。
しかし、返ってきたのは静寂だけだった。
いつもなら、執事やメイド長が整列して出迎えるはずの玄関ホールには、誰の姿もない。
ただ、夕方の光が埃の中を漂っているだけだ。
「……あれ? 誰もいないのかい?」
ギルバートは不思議そうに眉をひそめた。
使用人たちがサボっているのか?
いや、ヴィクトリアの教育が行き届いたこの屋敷で、そんなことはあり得ない。
「マーサ? ……おい、誰かいないか!」
声を張り上げるが、奥から反応はない。
屋敷全体が、まるで呼吸を止めているかのような不気味な静けさに包まれていた。
「やだ、ギルバート様……。なんだか怖いですぅ」
シルヴィアが不安そうにギルバートの腕にしがみつく。
「大丈夫だよ。きっと皆、裏庭で作業でもしているんだろう。……まったく、ヴィクトリアは何をしているんだ。夫の帰宅も出迎えないなんて」
ギルバートは少しむっとした。
彼は今日、シルヴィアとのピクニックで良き夫、良き保護者としての満足感を得ていた。
その仕上げとして、ヴィクトリアに「君も来ればよかったのに」「お土産だよ」と優越感混じりの優しさを見せる予定だったのだ。
その観客がいないことが、彼の機嫌を損ねた。
「きっと執務室だ。また根を詰めて仕事をしているに違いない」
ギルバートは足早に階段を上がり、執務室へと向かった。
シルヴィアも小走りでついてくる。
「ヴィクトリア! 入るよ!」
ノックもせずに扉を開け放つ。
しかし、そこにも彼女の姿はなかった。
部屋は、朝に出たときと同じ――いや、何かが決定的に違っていた。
シルヴィアが散らかした書類の山はそのままだが、部屋の空気が冷たい。
主の体温が感じられないのだ。
「いない……? どこに行ったんだ?」
ギルバートが部屋を見回すと、中央の書き物机の上に、ポツンと置かれた物が目に入った。
封筒と、二冊の書類の束だ。
夕日がその場所だけをスポットライトのように照らしている。
ギルバートは吸い寄せられるように机に近づいた。
「何かしら、これ? ……わぁ、ピンクのリボン!」
シルヴィアが先に手を伸ばしたのは、ピンクのリボンがかけられた薄い冊子だった。
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「見てください、ギルバート様! 『笑顔でお願いすればなんとかなります』って書いてある! これ、ヴィクトリア様が私のために書いてくれたんですね!」
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中には、子供に言い聞かせるような平易な言葉で、精神論や抽象的なアドバイスが並んでいる。
「やっぱりヴィクトリア様は優しいなぁ。私、これがあれば頑張れそうです!」
シルヴィアの無邪気な声とは対照的に、ギルバートの手は震えていた。
彼が手に取ったのは、その隣にあった封筒だ。
封はされておらず、中から一枚の紙が覗いている。
彼がそれを引き出した瞬間、息が止まった。
『離縁届』
一番上に、太く明確な文字でそう書かれている。
そして、妻の署名欄には、既にヴィクトリアの美しいサインと、実印が押されていた。
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