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第21話:置き手紙
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アデライドは指輪をドレッサーの上に置いた。
その横に、用意しておいた一通の手紙を添える。
便箋には、簡潔な言葉だけを綴った。
恨み言も、謝罪もない。
ただの事実確認だけ。
『エリアス・ベルンハルト様へ。貴方はいつもおっしゃいましたね。「君は強いから大丈夫だ」と。そのお言葉通り、私は一人で生きていくことにしました。私が強かったのではありません。貴方が私の弱さを無視し続けたから、私は強くなるしかなかったのです。どうぞ、愛しいソフィアと、尊敬するご両親と共に、お幸せに。私のことは探さないでください。もう二度と、貴方の都合の良い妻には戻りません。アデライド』
ペンを置き、アデライドは部屋を見渡した。
嫁いでからの三年間、ここで多くの夜を一人で過ごした。
夫の帰りを待ち、妹の自慢話に相槌を打ち、理不尽な要求を飲み込んできた部屋。
未練は、塵ほどもなかった。
コンコン、と控えめなノック音がした。
サイラスだ。
「奥様、馬車の準備が整いました。裏門でお待ちです」
「ありがとう、サイラス」
アデライドは鞄を手に取った。
サイラスは彼女の荷物を持とうとしたが、アデライドは首を横に振った。
「いいえ、これは私が持っていくわ。私の人生だから」
「……承知いたしました」
二人は音もなく廊下を歩く。
階段を降り、使用人用の通路を抜ける。
勝手口を出ると、冷たい夜気が頬を撫でた。
空には満月が浮かんでいる。
そこには、何の変哲もない辻馬車が一台停まっていた。
サイラスが扉を開ける。
「……奥様。どうか、ご無事で」
サイラスの声が湿っていた。
厳格な執事の目尻に、光るものが見える。
「新しい工房でお待ちしております。残りの荷物は、後ほど私が責任を持ってお届けしますので」
「ええ。頼りにしているわ、サイラス」
アデライドは彼の手を一度だけ強く握り返し、馬車に乗り込んだ。
御者が鞭を振るう。
馬車が動き出す。
アデライドは振り返らなかった。
屋敷の窓、夫が眠る寝室の灯りは消えている。
彼は今頃、夢を見ているだろうか。
明日も変わらぬ日常が続き、朝食には妻が焼いたパンが出てきて、夜にはソフィアを助けた自分を妻が褒めてくれるという、甘く都合の良い夢を。
だが、目が覚めればそこにあるのは、冷え切ったベッドと、一枚の紙切れだけだ。
「さようなら、エリアス」
アデライドは初めて、夫の名を呼び捨てにした。
その声は夜風に溶け、誰の耳にも届くことはなかった。
馬車は闇の中を走り抜ける。
東の空が、わずかに白み始めていた。
それは、アデライドが作り出したかった色――夜明けの青そのものだった。
その横に、用意しておいた一通の手紙を添える。
便箋には、簡潔な言葉だけを綴った。
恨み言も、謝罪もない。
ただの事実確認だけ。
『エリアス・ベルンハルト様へ。貴方はいつもおっしゃいましたね。「君は強いから大丈夫だ」と。そのお言葉通り、私は一人で生きていくことにしました。私が強かったのではありません。貴方が私の弱さを無視し続けたから、私は強くなるしかなかったのです。どうぞ、愛しいソフィアと、尊敬するご両親と共に、お幸せに。私のことは探さないでください。もう二度と、貴方の都合の良い妻には戻りません。アデライド』
ペンを置き、アデライドは部屋を見渡した。
嫁いでからの三年間、ここで多くの夜を一人で過ごした。
夫の帰りを待ち、妹の自慢話に相槌を打ち、理不尽な要求を飲み込んできた部屋。
未練は、塵ほどもなかった。
コンコン、と控えめなノック音がした。
サイラスだ。
「奥様、馬車の準備が整いました。裏門でお待ちです」
「ありがとう、サイラス」
アデライドは鞄を手に取った。
サイラスは彼女の荷物を持とうとしたが、アデライドは首を横に振った。
「いいえ、これは私が持っていくわ。私の人生だから」
「……承知いたしました」
二人は音もなく廊下を歩く。
階段を降り、使用人用の通路を抜ける。
勝手口を出ると、冷たい夜気が頬を撫でた。
空には満月が浮かんでいる。
そこには、何の変哲もない辻馬車が一台停まっていた。
サイラスが扉を開ける。
「……奥様。どうか、ご無事で」
サイラスの声が湿っていた。
厳格な執事の目尻に、光るものが見える。
「新しい工房でお待ちしております。残りの荷物は、後ほど私が責任を持ってお届けしますので」
「ええ。頼りにしているわ、サイラス」
アデライドは彼の手を一度だけ強く握り返し、馬車に乗り込んだ。
御者が鞭を振るう。
馬車が動き出す。
アデライドは振り返らなかった。
屋敷の窓、夫が眠る寝室の灯りは消えている。
彼は今頃、夢を見ているだろうか。
明日も変わらぬ日常が続き、朝食には妻が焼いたパンが出てきて、夜にはソフィアを助けた自分を妻が褒めてくれるという、甘く都合の良い夢を。
だが、目が覚めればそこにあるのは、冷え切ったベッドと、一枚の紙切れだけだ。
「さようなら、エリアス」
アデライドは初めて、夫の名を呼び捨てにした。
その声は夜風に溶け、誰の耳にも届くことはなかった。
馬車は闇の中を走り抜ける。
東の空が、わずかに白み始めていた。
それは、アデライドが作り出したかった色――夜明けの青そのものだった。
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