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第20話:最後の晩餐
その夜、ベルンハルト伯爵邸のダイニングには、かつてないほど豪勢な料理が並んでいた。
仔牛のロースト、旬の野菜のテリーヌ、そしてエリアスが好むヴィンテージワイン。
すべてアデライドが自らメニューを決め、シェフに細かく指示を出したものだ。
執事のサイラスが、最後の仕上げに銀の燭台に火を灯す。
揺らめく炎が、磨き上げられたカトラリーに反射し、冷たい輝きを放っている。
「……奥様。準備は整いました」
サイラスの声は低く、そして僅かに震えていた。
アデライドは完璧に整えられた食卓を見渡し、満足げに頷いた。
「ありがとう、サイラス。完璧ね」
彼女は今夜、最も格式高い正装に身を包んでいた。
深い夜空のような紺碧のドレス。
首元には、結婚祝いでエリアスから贈られた――しかし、彼が選んだのではなく、彼の母が選んだ――パールのネックレスが光っている。
それは、この家でのアデライド・ベルンハルトという役割を演じ切るための衣装だった。
玄関ホールでドアが開く音がした。
エリアスの帰宅だ。
「ただいま、アデライド! いい匂いがするね」
エリアスは上機嫌でダイニングに入ってきた。
豪華な食事を見て、彼は目を丸くした。
「わあ、すごい!」
アデライドは椅子を引き、夫を迎え入れた。
その微笑みは、聖女のように慈悲深く、そして能面のように動かない。
「いつもお仕事でお疲れでしょう? 今夜は貴方様の好きなものばかりをご用意しましたの」
「ありがとう! 君は本当に気が利くなあ。最近、仕事も忙しかったから嬉しいよ」
エリアスは席に着き、ナプキンを広げた。
アデライドも向かいの席に座る。
乾杯のグラスが合わさり、澄んだ音が響く。
それが、終わりの合図だった。
食事中、エリアスは終始饒舌だった。
騎士団での手柄話、同僚の噂話、そしてやはり――ソフィアの話。
「そういえば、ソフィアがまた新しいドレスを欲しがっていてね。君の実家からの仕送りが増えたから、少し贅沢ができるようになったと喜んでいたよ」
エリアスは肉を切り分けながら、無邪気に言った。
実家からの仕送り。
それは、アデライドが手放した経営権から捻出される、本来なら工房の運転資金になるはずの金だ。
だが、アデライドは眉一つ動かさなかった。
「そうですか。ソフィアが喜んでくれて何よりです」
「うん。お義父様も張り切っているし、すべてが上手く回っているね。これも君が賢明な判断をしてくれたおかげだ」
エリアスはワインを一口飲み、うっとりとした表情でアデライドを見つめた。
「アデライド。僕は君と結婚して本当によかったと思っているんだ」
その言葉に、アデライドの手がほんの一瞬だけ止まった。
よかった、か。
(何が? 私という便利な調整役が手に入ったことが?)
「君は強いし、賢いし、何より家族を大切にしている。ソフィアも君を頼りにしているし、僕たちは最高のチームだと思わないか?」
最高のチーム。
搾取する側とされる側で構成された、歪なチーム。
アデライドはグラスの縁を指でなぞりながら、静かに問いかけた。
「……エリアス様は、これからもずっと、この生活が続くとお思いですか?」
「もちろんさ! これからも二人で、いや、ソフィアも含めて三人で支え合っていこう。君がいれば、どんな困難も乗り越えられるよ」
エリアスは疑いもしない。
アデライドがずっとこの場にいることを。
明日も、明後日も、十年後も、自分が帰れば彼女がここで微笑んで待っていることを。
彼女の心がとっくに死滅し、抜け殻だけが座っていることに気づきもしない。
アデライドは、ゆっくりと瞬きをした。
そして、最後の完璧な微笑みを浮かべた。
「ええ、そうですわね」
彼女の声は、甘美な毒のように優しく響いた。
「エリアス様がお一人で、ソフィアを支えて差し上げてくださいませ。貴方様なら、きっと出来ますわ」
「お一人で」という部分に僅かな強調を置いたが、エリアスの耳には届かなかったようだ。
彼は「僕たちで、だろう?」と笑い飛ばし、デザートのムースを頬張り始めた。
深夜。
屋敷は静寂に包まれていた。
エリアスはワインの酔いも手伝って、寝室で高いびきをかいている。
アデライドは自室で、最後の身支度を整えていた。
豪奢なドレスは脱ぎ捨て、動きやすい平服に着替えた。
持ち出す荷物は最小限だ。
開発データの入った手帳、身分証、そして当面の活動資金。
思い出の品など一つもない。
この屋敷での記憶は、すべて置いていく。
彼女は左手の薬指に触れた。
冷たい金属の感触。
結婚指輪をゆっくりと引き抜く。
指に残った白い跡だけが、三年間という時間の重さを物語っていた。
仔牛のロースト、旬の野菜のテリーヌ、そしてエリアスが好むヴィンテージワイン。
すべてアデライドが自らメニューを決め、シェフに細かく指示を出したものだ。
執事のサイラスが、最後の仕上げに銀の燭台に火を灯す。
揺らめく炎が、磨き上げられたカトラリーに反射し、冷たい輝きを放っている。
「……奥様。準備は整いました」
サイラスの声は低く、そして僅かに震えていた。
アデライドは完璧に整えられた食卓を見渡し、満足げに頷いた。
「ありがとう、サイラス。完璧ね」
彼女は今夜、最も格式高い正装に身を包んでいた。
深い夜空のような紺碧のドレス。
首元には、結婚祝いでエリアスから贈られた――しかし、彼が選んだのではなく、彼の母が選んだ――パールのネックレスが光っている。
それは、この家でのアデライド・ベルンハルトという役割を演じ切るための衣装だった。
玄関ホールでドアが開く音がした。
エリアスの帰宅だ。
「ただいま、アデライド! いい匂いがするね」
エリアスは上機嫌でダイニングに入ってきた。
豪華な食事を見て、彼は目を丸くした。
「わあ、すごい!」
アデライドは椅子を引き、夫を迎え入れた。
その微笑みは、聖女のように慈悲深く、そして能面のように動かない。
「いつもお仕事でお疲れでしょう? 今夜は貴方様の好きなものばかりをご用意しましたの」
「ありがとう! 君は本当に気が利くなあ。最近、仕事も忙しかったから嬉しいよ」
エリアスは席に着き、ナプキンを広げた。
アデライドも向かいの席に座る。
乾杯のグラスが合わさり、澄んだ音が響く。
それが、終わりの合図だった。
食事中、エリアスは終始饒舌だった。
騎士団での手柄話、同僚の噂話、そしてやはり――ソフィアの話。
「そういえば、ソフィアがまた新しいドレスを欲しがっていてね。君の実家からの仕送りが増えたから、少し贅沢ができるようになったと喜んでいたよ」
エリアスは肉を切り分けながら、無邪気に言った。
実家からの仕送り。
それは、アデライドが手放した経営権から捻出される、本来なら工房の運転資金になるはずの金だ。
だが、アデライドは眉一つ動かさなかった。
「そうですか。ソフィアが喜んでくれて何よりです」
「うん。お義父様も張り切っているし、すべてが上手く回っているね。これも君が賢明な判断をしてくれたおかげだ」
エリアスはワインを一口飲み、うっとりとした表情でアデライドを見つめた。
「アデライド。僕は君と結婚して本当によかったと思っているんだ」
その言葉に、アデライドの手がほんの一瞬だけ止まった。
よかった、か。
(何が? 私という便利な調整役が手に入ったことが?)
「君は強いし、賢いし、何より家族を大切にしている。ソフィアも君を頼りにしているし、僕たちは最高のチームだと思わないか?」
最高のチーム。
搾取する側とされる側で構成された、歪なチーム。
アデライドはグラスの縁を指でなぞりながら、静かに問いかけた。
「……エリアス様は、これからもずっと、この生活が続くとお思いですか?」
「もちろんさ! これからも二人で、いや、ソフィアも含めて三人で支え合っていこう。君がいれば、どんな困難も乗り越えられるよ」
エリアスは疑いもしない。
アデライドがずっとこの場にいることを。
明日も、明後日も、十年後も、自分が帰れば彼女がここで微笑んで待っていることを。
彼女の心がとっくに死滅し、抜け殻だけが座っていることに気づきもしない。
アデライドは、ゆっくりと瞬きをした。
そして、最後の完璧な微笑みを浮かべた。
「ええ、そうですわね」
彼女の声は、甘美な毒のように優しく響いた。
「エリアス様がお一人で、ソフィアを支えて差し上げてくださいませ。貴方様なら、きっと出来ますわ」
「お一人で」という部分に僅かな強調を置いたが、エリアスの耳には届かなかったようだ。
彼は「僕たちで、だろう?」と笑い飛ばし、デザートのムースを頬張り始めた。
深夜。
屋敷は静寂に包まれていた。
エリアスはワインの酔いも手伝って、寝室で高いびきをかいている。
アデライドは自室で、最後の身支度を整えていた。
豪奢なドレスは脱ぎ捨て、動きやすい平服に着替えた。
持ち出す荷物は最小限だ。
開発データの入った手帳、身分証、そして当面の活動資金。
思い出の品など一つもない。
この屋敷での記憶は、すべて置いていく。
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