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第24話:回らない歯車
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ベルンハルト伯爵邸の朝は、かつてないほどの混乱に包まれていた。
主であるエリアスは、ウォークインクローゼットの前で呆然と立ち尽くしていた。
「……ない。どこにもない」
彼自身の身支度が整わないのだ。
いつもなら、その日に着るべきシャツ、ベスト、そしてそれに合うネクタイが、ドレッサーの上に完璧なセットとして用意されていた。
季節や天候、その日の公務の内容に合わせて、アデライドが選んでくれていたのだ。
だが今、そこには何もない。
引き出しを開ければシャツは入っているが、どれを選べばいいのか分からない。
適当に取り出したシャツには、微かな皺が寄っていた。
これまでアデライドが、洗濯係の使用人に厳しくアイロンがけを指示し、最終チェックを行っていたことなど、エリアスは知る由もなかった。
「……サイラス! 靴下はどこだ!? いつもの紺色のやつがないぞ!」
エリアスはいらだちを隠せずに叫んだ。
数分後、サイラスが平然とした顔で現れる。
「旦那様。靴下でしたら、引き出しの二段目に入っております」
「入っていないから聞いているんだ! 片方しかないじゃないか!」
「おや。それは洗濯係が紛失したのかもしれませんな。奥様がいらっしゃった頃は、そのようなミスには厳しく指導が入っておりましたが……」
サイラスは「残念です」と肩をすくめただけだ。
エリアスは唇を噛んだ。
仕方なく、色が微妙に違う黒い靴下を履く。
鏡に映る自分は、どこかちぐはぐで、いつもの洗練されたベルンハルト卿とは程遠かった。
食堂に行くと、さらに悲惨な光景が待っていた。
テーブルに並んでいるのは、焼きすぎたトーストと、冷めたスープ。
コーヒーを口に含むと、泥水のような苦味が広がった。
「なんだこれは! 飲めたものじゃない!」
「申し訳ございません。いつもの豆の配合比率は、奥様しかご存じありませんでしたので」
「じゃあシェフに聞けばいいだろう!」
「シェフも、『奥様の舌による最終調整がなければ、あの味は出せない』と申しております」
エリアスはカップを乱暴に置いた。茶褐色の液体がソーサーにこぼれる。
今まで当たり前だと思っていた快適な日常が、すべてアデライドという一人の女性の、見えない努力と管理によって維持されていた事実。
それを突きつけられるたびに、エリアスの胃はキリキリと痛んだ。
「……もういい。出かける」
彼は逃げるように屋敷を出た。
騎士団へ行けば、仕事に没頭できるはずだ。
家庭の不和など忘れて。
だが、その逃げ場さえも、昼過ぎには失われることになった。
王都のクライスト伯爵邸。
アデライドの実家であるその場所では、さらに深刻なパニックが起きていた。
昼前、工房から血相を変えた使者が飛び込んできたのだ。
「は、伯爵様! 大変です! 窯の温度が上がりません!」
「なんだと!? 薪をくべればいいだろう!」
昼食をとっていたアデライドの父親であるクライスト伯爵は、ナイフを持ったまま怒鳴った。
しかし、使者の顔色は青ざめたままだ。
「それが……、薪の種類と投入タイミングの指示書が見当たらないのです! いつもアデライド様が天候に合わせて調整されていたので、職人たちも『今日の湿度ならどうすればいいか分からない』と……」
「馬鹿者! 職人なら自分の頭で考えろ!」
「それに、主力の職人たちが三人、今朝から出勤していないのです! 彼らがいないと、ろくろも回りません!」
伯爵の顔から血の気が引いた。
熟練工の引き抜き。
アデライドの手回しだ。
そこに、ソフィアが泣き腫らした目でサロンに入ってきた。
「お父様! どういうこと!? 私のドレスの仮縫いに職人が来ないのよ!」
「うるさい! 今それどころじゃないんだ!」
「何よ! 私のドレスの方が大事でしょう!? 今度の夜会で着るのよ!」
ソフィアが地団駄を踏む。
その時、さらに追い討ちをかけるように、王宮御用達の商会の担当者が訪ねてきた。
主であるエリアスは、ウォークインクローゼットの前で呆然と立ち尽くしていた。
「……ない。どこにもない」
彼自身の身支度が整わないのだ。
いつもなら、その日に着るべきシャツ、ベスト、そしてそれに合うネクタイが、ドレッサーの上に完璧なセットとして用意されていた。
季節や天候、その日の公務の内容に合わせて、アデライドが選んでくれていたのだ。
だが今、そこには何もない。
引き出しを開ければシャツは入っているが、どれを選べばいいのか分からない。
適当に取り出したシャツには、微かな皺が寄っていた。
これまでアデライドが、洗濯係の使用人に厳しくアイロンがけを指示し、最終チェックを行っていたことなど、エリアスは知る由もなかった。
「……サイラス! 靴下はどこだ!? いつもの紺色のやつがないぞ!」
エリアスはいらだちを隠せずに叫んだ。
数分後、サイラスが平然とした顔で現れる。
「旦那様。靴下でしたら、引き出しの二段目に入っております」
「入っていないから聞いているんだ! 片方しかないじゃないか!」
「おや。それは洗濯係が紛失したのかもしれませんな。奥様がいらっしゃった頃は、そのようなミスには厳しく指導が入っておりましたが……」
サイラスは「残念です」と肩をすくめただけだ。
エリアスは唇を噛んだ。
仕方なく、色が微妙に違う黒い靴下を履く。
鏡に映る自分は、どこかちぐはぐで、いつもの洗練されたベルンハルト卿とは程遠かった。
食堂に行くと、さらに悲惨な光景が待っていた。
テーブルに並んでいるのは、焼きすぎたトーストと、冷めたスープ。
コーヒーを口に含むと、泥水のような苦味が広がった。
「なんだこれは! 飲めたものじゃない!」
「申し訳ございません。いつもの豆の配合比率は、奥様しかご存じありませんでしたので」
「じゃあシェフに聞けばいいだろう!」
「シェフも、『奥様の舌による最終調整がなければ、あの味は出せない』と申しております」
エリアスはカップを乱暴に置いた。茶褐色の液体がソーサーにこぼれる。
今まで当たり前だと思っていた快適な日常が、すべてアデライドという一人の女性の、見えない努力と管理によって維持されていた事実。
それを突きつけられるたびに、エリアスの胃はキリキリと痛んだ。
「……もういい。出かける」
彼は逃げるように屋敷を出た。
騎士団へ行けば、仕事に没頭できるはずだ。
家庭の不和など忘れて。
だが、その逃げ場さえも、昼過ぎには失われることになった。
王都のクライスト伯爵邸。
アデライドの実家であるその場所では、さらに深刻なパニックが起きていた。
昼前、工房から血相を変えた使者が飛び込んできたのだ。
「は、伯爵様! 大変です! 窯の温度が上がりません!」
「なんだと!? 薪をくべればいいだろう!」
昼食をとっていたアデライドの父親であるクライスト伯爵は、ナイフを持ったまま怒鳴った。
しかし、使者の顔色は青ざめたままだ。
「それが……、薪の種類と投入タイミングの指示書が見当たらないのです! いつもアデライド様が天候に合わせて調整されていたので、職人たちも『今日の湿度ならどうすればいいか分からない』と……」
「馬鹿者! 職人なら自分の頭で考えろ!」
「それに、主力の職人たちが三人、今朝から出勤していないのです! 彼らがいないと、ろくろも回りません!」
伯爵の顔から血の気が引いた。
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そこに、ソフィアが泣き腫らした目でサロンに入ってきた。
「お父様! どういうこと!? 私のドレスの仮縫いに職人が来ないのよ!」
「うるさい! 今それどころじゃないんだ!」
「何よ! 私のドレスの方が大事でしょう!? 今度の夜会で着るのよ!」
ソフィアが地団駄を踏む。
その時、さらに追い討ちをかけるように、王宮御用達の商会の担当者が訪ねてきた。
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