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第23話:破滅的な未来の予兆
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朝食の用意はされていない。
コーヒーの香りもしない。
パンの焼ける匂いもしない。
「……おい、誰かいないのか! サイラス!」
エリアスはいらだち紛れに叫んだ。
数秒後、奥の扉が開き、執事のサイラスが現れた。
いつも通りの厳格な表情だが、その目はどこか冷ややかだ。
「おはようございます、旦那様」
「おはようじゃないよ! アデライドはどこだ? 朝食も用意されていないじゃないか」
「奥様でしたら、昨夜のうちに出立されました」
サイラスは淡々と、まるで今日の天気でも伝えるかのように言った。
「しゅっ……、出立? どこへ?」
「存じ上げません。『探さないでください』との仰せでしたので」
「馬鹿なことを言うな! 彼女は僕の妻だぞ、行き先も告げずにいなくなるわけがないだろう!」
エリアスはサイラスに詰め寄った。
心臓が早鐘を打ち始めている。
嫌な汗が背中を伝う。
これは冗談ではないのか?
アデライドは本気で出て行ったのか?
いや、ありえない。
彼女は強いけれど、同時に物分かりの良い女性だ。
こんなヒステリックな真似をするはずがない。
「旦那様。奥様が残されたお手紙、ご覧になりましたか?」
「見たよ! あんなの、何かの間違いだ。彼女はきっと、少し頭を冷やしに行っただけだ。実家か? それとも工房か?」
「さあ……。ですが、一つだけ申し上げますと」
サイラスは静かに目を伏せた。
「奥様は、何も持たずに行かれました。この屋敷にあるアデライド様のものは、すべて処分されたようです」
「……処分?」
エリアスは弾かれたように踵を返し、再び階段を駆け上がった。
寝室に戻る。
呼吸が荒い。
手足が震える。
彼はアデライド専用のウォークインクローゼットの前に立った。
あそこを開ければ、いつも通り、色とりどりのドレスが並んでいるはずだ。
彼女が好んで着ていた紺色のドレス、訪問着、帽子、靴。
それがあれば、彼女は必ず戻ってくる。
着替えが必要なのだから。
「……いるはずだ。いるに決まってる」
エリアスは震える手でノブを掴み、勢いよく扉を開け放った。
ハンガーがぶつかり合う、寒々しい音だけが響いた。
そこには、何もなかった。
本当に、何も。
ドレスの一枚も、靴の一足も、リボンの一つさえも。
ただ、空っぽの空間が広がっているだけだった。
アデライドの残り香さえ、消え失せている。
「あ……」
エリアスの口から、意味にならない音が漏れた。
膝の力が抜け、その場に崩れ落ちる。
空っぽのクローゼットが、まるで巨大な怪物の口のように見えた。
それが、エリアスの現実を飲み込んでいく。
昨夜の笑顔。
『私の役割は、これで終わりましたわね』という言葉。
『一生、忘れられない日にして差し上げますわ』という約束。
点と点が繋がり、残酷な線を描き出す。
あれは愛の言葉ではなかった。
あれは、死刑宣告だったのだ。
「うそだ……」
エリアスは床を這い、ドレッサーに残された指輪を握りしめた。
冷たい。
ひどく冷たい。
「アデライド……、どこへ行ったんだ……。僕を置いて……」
その時初めて、屋敷の静寂が牙を剥いた。
いつもなら聞こえるはずの、彼女の衣擦れの音、ページをめくる音、穏やかな呼吸音。
それらが欠落した空間は、ただ広いだけで、恐ろしく寒々しかった。
エリアスは指輪を握りしめたまま、広い寝室で一人、立ち尽くした。
理解できなかった。
なぜ?
どうして?
(僕は君を愛していたし、君も幸せそうだったじゃないか。ソフィアを助ける僕を、誇りに思うと言ってくれたじゃないか)
「君は強いから」
自分の放った言葉が、ブーメランのように戻ってきて、喉元に突き刺さる。
強いから、捨ててもいいと思ったのか?
強いから、何をしても許されると思ったのか?
エリアスの背筋を、本能的な恐怖が這い上がった。
彼はまだ、自分が何を失ったのか、その全貌を理解してはいなかった。
だが、この空っぽのクローゼットが予言している未来が、破滅的なものであることだけは、鈍感な彼にも予感できた。
「サイラス!! 捜索だ! すぐに人を集めろ!!」
エリアスの悲鳴のような叫び声が、朝の屋敷に虚しく響き渡った。
コーヒーの香りもしない。
パンの焼ける匂いもしない。
「……おい、誰かいないのか! サイラス!」
エリアスはいらだち紛れに叫んだ。
数秒後、奥の扉が開き、執事のサイラスが現れた。
いつも通りの厳格な表情だが、その目はどこか冷ややかだ。
「おはようございます、旦那様」
「おはようじゃないよ! アデライドはどこだ? 朝食も用意されていないじゃないか」
「奥様でしたら、昨夜のうちに出立されました」
サイラスは淡々と、まるで今日の天気でも伝えるかのように言った。
「しゅっ……、出立? どこへ?」
「存じ上げません。『探さないでください』との仰せでしたので」
「馬鹿なことを言うな! 彼女は僕の妻だぞ、行き先も告げずにいなくなるわけがないだろう!」
エリアスはサイラスに詰め寄った。
心臓が早鐘を打ち始めている。
嫌な汗が背中を伝う。
これは冗談ではないのか?
アデライドは本気で出て行ったのか?
いや、ありえない。
彼女は強いけれど、同時に物分かりの良い女性だ。
こんなヒステリックな真似をするはずがない。
「旦那様。奥様が残されたお手紙、ご覧になりましたか?」
「見たよ! あんなの、何かの間違いだ。彼女はきっと、少し頭を冷やしに行っただけだ。実家か? それとも工房か?」
「さあ……。ですが、一つだけ申し上げますと」
サイラスは静かに目を伏せた。
「奥様は、何も持たずに行かれました。この屋敷にあるアデライド様のものは、すべて処分されたようです」
「……処分?」
エリアスは弾かれたように踵を返し、再び階段を駆け上がった。
寝室に戻る。
呼吸が荒い。
手足が震える。
彼はアデライド専用のウォークインクローゼットの前に立った。
あそこを開ければ、いつも通り、色とりどりのドレスが並んでいるはずだ。
彼女が好んで着ていた紺色のドレス、訪問着、帽子、靴。
それがあれば、彼女は必ず戻ってくる。
着替えが必要なのだから。
「……いるはずだ。いるに決まってる」
エリアスは震える手でノブを掴み、勢いよく扉を開け放った。
ハンガーがぶつかり合う、寒々しい音だけが響いた。
そこには、何もなかった。
本当に、何も。
ドレスの一枚も、靴の一足も、リボンの一つさえも。
ただ、空っぽの空間が広がっているだけだった。
アデライドの残り香さえ、消え失せている。
「あ……」
エリアスの口から、意味にならない音が漏れた。
膝の力が抜け、その場に崩れ落ちる。
空っぽのクローゼットが、まるで巨大な怪物の口のように見えた。
それが、エリアスの現実を飲み込んでいく。
昨夜の笑顔。
『私の役割は、これで終わりましたわね』という言葉。
『一生、忘れられない日にして差し上げますわ』という約束。
点と点が繋がり、残酷な線を描き出す。
あれは愛の言葉ではなかった。
あれは、死刑宣告だったのだ。
「うそだ……」
エリアスは床を這い、ドレッサーに残された指輪を握りしめた。
冷たい。
ひどく冷たい。
「アデライド……、どこへ行ったんだ……。僕を置いて……」
その時初めて、屋敷の静寂が牙を剥いた。
いつもなら聞こえるはずの、彼女の衣擦れの音、ページをめくる音、穏やかな呼吸音。
それらが欠落した空間は、ただ広いだけで、恐ろしく寒々しかった。
エリアスは指輪を握りしめたまま、広い寝室で一人、立ち尽くした。
理解できなかった。
なぜ?
どうして?
(僕は君を愛していたし、君も幸せそうだったじゃないか。ソフィアを助ける僕を、誇りに思うと言ってくれたじゃないか)
「君は強いから」
自分の放った言葉が、ブーメランのように戻ってきて、喉元に突き刺さる。
強いから、捨ててもいいと思ったのか?
強いから、何をしても許されると思ったのか?
エリアスの背筋を、本能的な恐怖が這い上がった。
彼はまだ、自分が何を失ったのか、その全貌を理解してはいなかった。
だが、この空っぽのクローゼットが予言している未来が、破滅的なものであることだけは、鈍感な彼にも予感できた。
「サイラス!! 捜索だ! すぐに人を集めろ!!」
エリアスの悲鳴のような叫び声が、朝の屋敷に虚しく響き渡った。
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