「君は強いから一人でも平気だろう?」と妹を優先する夫。~陶器の心を持つ私の完璧な微笑みに、夫が凍りつくまで~

水上

文字の大きさ
33 / 38

第33話:執事の静かな怒り

しおりを挟む
 森の工房に、連日の雨が降り注いでいた。
 アデライドは窓際のろくろに向かい、静かに土を挽いていた。

 雨音は天然の遮音壁となり、集中力を高めてくれる。
 しかし、その静寂を破るように、窓の外には一つの影が佇んでいた。

 エリアス・ベルンハルトだった。
 かつて社交界で麗しの貴公子と呼ばれた男の面影は、今の彼にはない。

 頬はこけ、無精髭が伸び、上等だったコートは泥と雨で濡れそぼっている。
 彼は傘もささずに、ただじっと工房の入り口を見つめていた。

 まるで、捨てられた犬が飼い主の帰りを待つように。

(……また、来ているのね)

 アデライドは一瞥だけくれ、すぐに視線を手元の土に戻した。
 ここ数日、彼は毎日こうしてやってくる。

 最初は花束を持って。
 次は手紙を持って。

 そして今は、ただ自身の哀れな姿を晒しに来ている。
 「ここまで落ちぶれて反省している僕を見て、どうか慈悲を」という無言の訴えだ。

 だが、アデライドの心は揺れなかった。
 可哀想だとも思わない。

 ただ、作業の邪魔だなという事務的な感想しか抱かなかった。
 彼女はサイラスに目配せをした。

「……行ってまいります」

 サイラスは心得たように頷き、傘を手に取って外へ出た。

 雨の中、エリアスは震えていた。
 寒さのせいだけではない。

 孤独と、焦燥と、自己嫌悪が体を芯から冷やしていた。

 ガチャリ、と扉が開く音がした。
 エリアスは弾かれたように顔を上げた。

「アデライド……!?」

 しかし、現れたのは彼女ではなく、黒い傘をさした執事のサイラスだった。
 エリアスの顔に失望の色が浮かぶ。

「……なんだ、お前か。アデライドはどうした? 風邪を引いてしまうよ、僕がここで待っていると伝えてくれ」

「お断りします」

 サイラスは冷徹に言い放った。
 傘を差し出すこともしない。

「奥様は作業に集中しておられます。貴方様の姿が視界に入るだけで、筆が止まるとのことです。どうぞお引き取りを」

「筆が止まる……? 僕が邪魔だと言うのか?」

「はい。邪魔でございます」

 サイラスの言葉は鋭利な刃物のようにエリアスを切りつけた。
 エリアスはよろめき、泥水の中に膝をついた。

「そんな……、僕はただ、謝りたいだけなんだ。彼女を愛しているんだ! 彼女がいないと駄目なんだ!」

 エリアスは叫んだ。
 雨音にかき消されそうな、悲痛な叫びだった。

 実家は崩壊し、ソフィアは借金の形に売られたと聞いた。

 自分の屋敷も、アデライドの管理がなくなってからというもの、使用人たちが次々と辞めていき、ゴミ溜めのように荒れ果てている。

 誰も彼を敬わない。
 誰も彼を愛さない。
 アデライドだけが、彼を立派な当主として扱ってくれていた唯一の存在だったのだ。

「サイラス、お前なら分かるだろう!? 夫婦喧嘩が、少し長引いているだけだ! 彼女だって、まだ僕に未練があるはずだ。あんなに尽くしてくれたんだから!」

 エリアスはサイラスのズボンの裾に縋り付いた。
 サイラスは、汚いものを見るような目でそれを見下ろし、深く溜息をついた。

「旦那様。……いいえ、エリアス様」

 サイラスは初めて、主人に対する敬称を捨てた。

「貴方様がおっしゃる愛とは、一体何ですか?」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

「憎悪しか抱けない『お下がり令嬢』は、侍女の真似事でもやっていろ」と私を嫌う夫に言われましたので、素直に従った結果……

ぽんた
恋愛
「おれがおまえの姉ディアーヌといい仲だということは知っているよな?ディアーヌの離縁の決着がついた。だからやっと、彼女を妻に迎えられる。というわけで、おまえはもう用済みだ。そうだな。どうせだから、異母弟のところに行くといい。もともと、あいつはディアーヌと結婚するはずだったんだ。妹のおまえでもかまわないだろう」 この日、リン・オリヴィエは夫であるバロワン王国の第一王子マリユス・ノディエに告げられた。 選択肢のないリンは、「ひきこもり王子」と名高いクロード・ノディエのいる辺境の地へ向かう。 そこで彼女が会ったのは、噂の「ひきこもり王子」とはまったく違う気性が荒く傲慢な将軍だった。 クロードは、幼少の頃から自分や弟を守る為に「ひきこもり王子」を演じていたのである。その彼は、以前リンの姉ディアーヌに手痛い目にあったことがあった。その為、人間不信、とくに女性を敵視している。彼は、ディアーヌの妹であるリンを憎み、侍女扱いする。 しかし、あることがきっかけで二人の距離が急激に狭まる。が、それも束の間、王都が隣国のスパイの工作により、壊滅状態になっているいう報が入る。しかも、そのスパイの正体は、リンの知る人だった。 ※全三十九話。ハッピーエンドっぽく完結します。ゆるゆる設定です。ご容赦ください。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。 その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。 そこで待っていたのは、最悪の出来事―― けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。 夫は愛人と共に好きに生きればいい。 今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。 でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。 妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。 過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――

『親友』との時間を優先する婚約者に別れを告げたら

黒木メイ
恋愛
筆頭聖女の私にはルカという婚約者がいる。教会に入る際、ルカとは聖女の契りを交わした。会えない間、互いの不貞を疑う必要がないようにと。 最初は順調だった。燃えるような恋ではなかったけれど、少しずつ心の距離を縮めていけたように思う。 けれど、ルカは高等部に上がり、変わってしまった。その背景には二人の男女がいた。マルコとジュリア。ルカにとって初めてできた『親友』だ。身分も性別も超えた仲。『親友』が教えてくれる全てのものがルカには新鮮に映った。広がる世界。まるで生まれ変わった気分だった。けれど、同時に終わりがあることも理解していた。だからこそ、ルカは学生の間だけでも『親友』との時間を優先したいとステファニアに願い出た。馬鹿正直に。 そんなルカの願いに対して私はダメだとは言えなかった。ルカの気持ちもわかるような気がしたし、自分が心の狭い人間だとは思いたくなかったから。一ヶ月に一度あった逢瀬は数ヶ月に一度に減り、半年に一度になり、とうとう一年に一度まで減った。ようやく会えたとしてもルカの話題は『親友』のことばかり。さすがに堪えた。ルカにとって自分がどういう存在なのか痛いくらいにわかったから。 極めつけはルカと親友カップルの歪な三角関係についての噂。信じたくはないが、間違っているとも思えなかった。もう、半ば受け入れていた。ルカの心はもう自分にはないと。 それでも婚約解消に至らなかったのは、聖女の契りが継続していたから。 辛うじて繋がっていた絆。その絆は聖女の任期終了まで後数ヶ月というところで切れた。婚約はルカの有責で破棄。もう関わることはないだろう。そう思っていたのに、何故かルカは今更になって執着してくる。いったいどういうつもりなの? 戸惑いつつも情を捨てきれないステファニア。プライドは捨てて追い縋ろうとするルカ。さて、二人の未来はどうなる? ※曖昧設定。 ※別サイトにも掲載。

どうぞ、おかまいなく

こだま。
恋愛
婚約者が他の女性と付き合っていたのを目撃してしまった。 婚約者が好きだった主人公の話。

【完結】聖女の手を取り婚約者が消えて二年。私は別の人の妻になっていた。

文月ゆうり
恋愛
レティシアナは姫だ。 父王に一番愛される姫。 ゆえに妬まれることが多く、それを憂いた父王により早くに婚約を結ぶことになった。 優しく、頼れる婚約者はレティシアナの英雄だ。 しかし、彼は居なくなった。 聖女と呼ばれる少女と一緒に、行方を眩ませたのだ。 そして、二年後。 レティシアナは、大国の王の妻となっていた。 ※主人公は、戦えるような存在ではありません。戦えて、強い主人公が好きな方には合わない可能性があります。 小説家になろうにも投稿しています。 エールありがとうございます!

幼馴染、幼馴染、そんなに彼女のことが大切ですか。――いいでしょう、ならば、婚約破棄をしましょう。~病弱な幼馴染の彼女は、実は……~

銀灰
恋愛
テリシアの婚約者セシルは、病弱だという幼馴染にばかりかまけていた。 自身で稼ぐこともせず、幼馴染を庇護するため、テシリアに金を無心する毎日を送るセシル。 そんな関係に限界を感じ、テリシアはセシルに婚約破棄を突き付けた。 テリシアに見捨てられたセシルは、てっきりその幼馴染と添い遂げると思われたが――。 その幼馴染は、道化のようなとんでもない秘密を抱えていた!? はたして、物語の結末は――?

【完結】旦那様、その真実の愛とお幸せに

おのまとぺ
恋愛
「真実の愛を見つけてしまった。申し訳ないが、君とは離縁したい」 結婚三年目の祝いの席で、遅れて現れた夫アントンが放った第一声。レミリアは驚きつつも笑顔を作って夫を見上げる。 「承知いたしました、旦那様。その恋全力で応援します」 「え?」 驚愕するアントンをそのままに、レミリアは宣言通りに片想いのサポートのような真似を始める。呆然とする者、訝しむ者に見守られ、迫りつつある別れの日を二人はどういった形で迎えるのか。 ◇真実の愛に目覚めた夫を支える妻の話 ◇元サヤではありません ◇全56話完結予定

冷遇する婚約者に、冷たさをそのままお返しします。

ねむたん
恋愛
貴族の娘、ミーシャは婚約者ヴィクターの冷酷な仕打ちによって自信と感情を失い、無感情な仮面を被ることで自分を守るようになった。エステラ家の屋敷と庭園の中で静かに過ごす彼女の心には、怒りも悲しみも埋もれたまま、何も感じない日々が続いていた。 事なかれ主義の両親の影響で、エステラ家の警備はガバガバですw

処理中です...