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第34話:夫の慟哭
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「な……、何って……」
「貴方様が愛しておられたのは、アデライド様という人間ではありません」
サイラスの低い声が、雨音を突き抜けて響いた。
「貴方様が愛していたのは、常に整えられた寝具。適温に調整された食事。手入れの行き届いた衣服。そして、貴方様の愚かな自己満足を黙って肯定してくれる都合の良い聞き役です」
図星を突かれたのか、エリアスは口をパクパクとさせた。
「貴方様は、アデライド様という機能を愛していたに過ぎません。彼女が夜なべして指先を荒らしていたことも、貴方様がソフィア様と笑っている間に一人で食事をしていたことも、何ひとつ見ようとしなかったではありませんか」
「ち、違う……。僕は……」
「違わないでしょう。もし本当に彼女自身を愛していたのなら、なぜ彼女が強いから大丈夫などと信じ込めたのですか? 本当に愛しているなら、その強さが、無理をして作った鎧であることに気づくはずです」
エリアスは言葉を失った。
脳裏に浮かぶのは、アデライドの完璧な微笑み。
あれは鎧だった。
傷つくのを防ぐための、冷たくて硬い陶器の鎧。
それを剥がそうともせず、むしろ「便利な鎧だ」と称賛して、さらに重荷を背負わせていたのは、誰あろう自分自身だ。
「……奥様は、貴方様との生活の中で、心臓が凍りつくような思いを何度もなさいました。貴方様が今、雨に打たれて感じている寒さなど、奥様が味わった孤独に比べれば生ぬるいものです」
サイラスは一歩下がった。
「これ以上、ここに来ないでください。奥様の新しい人生に、貴方様という過去の汚点を持ち込まないでいただきたい」
サイラスは背を向け、扉へと戻っていく。
バタン、と重い音がして、扉が閉ざされた。
鍵が掛かる音が、決定的な拒絶として響いた。
エリアスは泥の中に一人、取り残された。
雨は激しさを増し、彼の体を容赦なく打ちつける。
「あ……、ああ……」
エリアスは震える手で顔を覆った。
涙が溢れてくるが、雨と混じって分からなかった。
気づいてしまった。
サイラスの言う通りだ。
自分は、彼女が好きだったチョコレートさえ知らなかった。
彼女がどんな本を読み、どんな色を好み、どんな時に泣きたくなるのか、何も知らなかった。
知っているのは、ソフィアを助けると褒めてくれる妻という虚像だけ。
エリアスは彼女を人間として見ていなかった。
便利な家具か、あるいは母親代わりのように扱っていたのだ。
「うああああああああッ!!」
エリアスは泥水を叩き、獣のように咆哮した。
慟哭。
遅すぎる後悔が、喉を焼き切るように溢れ出す。
戻りたい。
あの穏やかな朝に。
彼女が紅茶を淹れてくれていた、あのダイニングに。
もし時間を戻せるなら、ソフィアからの手紙など破り捨てて、彼女の話を聞くだろう。
彼女の作ったマグカップを宝石のように扱い、彼女の荒れた手に口づけをするだろう。
だが、時は戻らない。
陶器は二度と元には戻らない。
工房の窓の向こう、カーテンの隙間から、温かなランプの光が漏れているのが見えた。
そこはもう、エリアスが決して踏み込めない聖域だった。
光の中にいるアデライドは、きっと今頃、彼のことなど忘れ、美しい青色を生み出すことだけに没頭しているのだろう。
エリアスは地面に突っ伏し、泥の味を噛み締めながら泣き続けた。
それは、かつて彼がアデライドに見せた無邪気な残酷さへの、あまりにも惨めな報いだった。
「貴方様が愛しておられたのは、アデライド様という人間ではありません」
サイラスの低い声が、雨音を突き抜けて響いた。
「貴方様が愛していたのは、常に整えられた寝具。適温に調整された食事。手入れの行き届いた衣服。そして、貴方様の愚かな自己満足を黙って肯定してくれる都合の良い聞き役です」
図星を突かれたのか、エリアスは口をパクパクとさせた。
「貴方様は、アデライド様という機能を愛していたに過ぎません。彼女が夜なべして指先を荒らしていたことも、貴方様がソフィア様と笑っている間に一人で食事をしていたことも、何ひとつ見ようとしなかったではありませんか」
「ち、違う……。僕は……」
「違わないでしょう。もし本当に彼女自身を愛していたのなら、なぜ彼女が強いから大丈夫などと信じ込めたのですか? 本当に愛しているなら、その強さが、無理をして作った鎧であることに気づくはずです」
エリアスは言葉を失った。
脳裏に浮かぶのは、アデライドの完璧な微笑み。
あれは鎧だった。
傷つくのを防ぐための、冷たくて硬い陶器の鎧。
それを剥がそうともせず、むしろ「便利な鎧だ」と称賛して、さらに重荷を背負わせていたのは、誰あろう自分自身だ。
「……奥様は、貴方様との生活の中で、心臓が凍りつくような思いを何度もなさいました。貴方様が今、雨に打たれて感じている寒さなど、奥様が味わった孤独に比べれば生ぬるいものです」
サイラスは一歩下がった。
「これ以上、ここに来ないでください。奥様の新しい人生に、貴方様という過去の汚点を持ち込まないでいただきたい」
サイラスは背を向け、扉へと戻っていく。
バタン、と重い音がして、扉が閉ざされた。
鍵が掛かる音が、決定的な拒絶として響いた。
エリアスは泥の中に一人、取り残された。
雨は激しさを増し、彼の体を容赦なく打ちつける。
「あ……、ああ……」
エリアスは震える手で顔を覆った。
涙が溢れてくるが、雨と混じって分からなかった。
気づいてしまった。
サイラスの言う通りだ。
自分は、彼女が好きだったチョコレートさえ知らなかった。
彼女がどんな本を読み、どんな色を好み、どんな時に泣きたくなるのか、何も知らなかった。
知っているのは、ソフィアを助けると褒めてくれる妻という虚像だけ。
エリアスは彼女を人間として見ていなかった。
便利な家具か、あるいは母親代わりのように扱っていたのだ。
「うああああああああッ!!」
エリアスは泥水を叩き、獣のように咆哮した。
慟哭。
遅すぎる後悔が、喉を焼き切るように溢れ出す。
戻りたい。
あの穏やかな朝に。
彼女が紅茶を淹れてくれていた、あのダイニングに。
もし時間を戻せるなら、ソフィアからの手紙など破り捨てて、彼女の話を聞くだろう。
彼女の作ったマグカップを宝石のように扱い、彼女の荒れた手に口づけをするだろう。
だが、時は戻らない。
陶器は二度と元には戻らない。
工房の窓の向こう、カーテンの隙間から、温かなランプの光が漏れているのが見えた。
そこはもう、エリアスが決して踏み込めない聖域だった。
光の中にいるアデライドは、きっと今頃、彼のことなど忘れ、美しい青色を生み出すことだけに没頭しているのだろう。
エリアスは地面に突っ伏し、泥の味を噛み締めながら泣き続けた。
それは、かつて彼がアデライドに見せた無邪気な残酷さへの、あまりにも惨めな報いだった。
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