「君は強いから一人でも平気だろう?」と妹を優先する夫。~陶器の心を持つ私の完璧な微笑みに、夫が凍りつくまで~

水上

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第37話:かつての日々は戻らない

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 月日は、砂時計の砂のように音もなく、確実に積もっていった。

 王都の法務局で、最後の一枚の書類に判が押されたのは、あの雨の日の訪問から一年後のことだった。

 離縁成立。

 その事務的な手続きは、アデライドとエリアスが共に過ごした三年間という時間を、あっけなく過去のものへと変えた。

 そして、さらに二年が過ぎた。

 王都の下町に近い、安アパートの一室。
 エリアス・ベルンハルトは、窓辺で安物の煙草をふかしていた。

 かつての艶やかな蜂蜜色の髪は輝きを失い、無精髭が伸びた頬はこけている。
 部屋の奥からは、神経質な女性の声が響いていた。

「エリアスお義兄様! 今日のパン、硬いわよ。もっと柔らかいブリオッシュを買ってきてと言ったじゃない!」

 ソフィアだ。

 彼女はガルトナー子爵との縁談が破談になった後、実家の借金取りから逃れるようにして、このアパートに転がり込んできた。

 両親も一緒だ。

 かつてのクライスト伯爵夫妻は、今はただの無気力な老人となり、一日中酒を飲んで昔の栄光を語り合っている。

「……ごめんよ、ソフィア。今日は給料日前で、それが精一杯だったんだ」

 エリアスは力なく答えた。

 かつてのベルンハルト伯爵家も、管理能力の欠如とアデライドという後ろ盾の喪失により、資産の大半を失っていた。

 屋敷は手放し、今はこうして細々と事務仕事をしながら、義理の家族を養っている。

「謝るだけなら誰でもできるわ! ああ、こんな惨めな生活、もう耐えられない。お姉様さえいれば……、あの人が勝手に逃げ出したせいで!」

 ソフィアの恨み言は、毎日の日課になっていた。

 エリアスは何も言い返さない。
 言い返す気力さえなかった。

 皮肉な話だ。
 彼はかつて、ソフィアが可哀想だからと彼女を優先し、アデライドをないがしろにした。

 その結果、望み通りソフィアと四六時中一緒にいる生活を手に入れたのだ。
 だが、そこに幸せは欠片もなかった。

 アデライドが黙って整えてくれていた生活。
 彼女が静かに処理していた感情の澱。

 それらがなくなって初めて、エリアスは自分が快適な温室に守られていただけだったことを知った。
 外の世界は寒く、風は冷たく、そして愛されるべき妹は、ただの傲慢な同居人に変貌していた。

「……買い物に行ってくるよ」

 エリアスは逃げるように部屋を出た。
 背後でソフィアが「ジャムも買ってきて!」と叫ぶ声がしたが、彼は耳を塞いだ。

 王都の中央通りは、初夏の陽気に包まれていた。
 エリアスは籠を片手に、人混みの中を歩いていた。

 すれ違う貴族たちの華やかな装いが、今の彼には眩しすぎて痛い。
 かつては自分も、あちら側にいたはずなのに。

 その時だった。
 通りの向こうから、人々の視線を集める一組の男女が歩いてきた。

 男性は、隣国の貿易商として名高い、知的な風貌の紳士。
 そして、その隣を歩く女性。

 エリアスの足が、凍りついたように止まった。
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