「君は強いから一人でも平気だろう?」と妹を優先する夫。~陶器の心を持つ私の完璧な微笑みに、夫が凍りつくまで~

水上

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第38話:新しく焼き上がった心

 見間違えるはずがない。

 色素の薄いアッシュグレイの髪。
 透き通るようなアイスブルーの瞳。

 アデライドだ。

 彼女は、エリアスが見たこともないほど美しいドレス――彼女自身の作品である再生の青を思わせる、深い蒼色のドレスを纏っていた。

 しかし、何よりも美しかったのは、その表情だ。

 彼女は隣の紳士と何か言葉を交わし、楽しげに笑っていた。
 その笑顔には、かつての完璧な微笑みのような冷たい壁はない。

 心からの喜びと、信頼と、そして自立した女性だけが持つ輝きに満ちていた。

「ア……、アデライド……」

 エリアスの唇が震えた。

 声をかけたい。
 駆け寄って、許しを請いたい。

 「僕を見てくれ」と叫びたい。

 だが、彼の足は動かなかった。
 薄汚れたシャツを着た自分と、光り輝く彼女。

 その距離は、物理的な数メートルではなく、埋めることのできない人生の格差だった。

 その時、アデライドがふと顔を上げた。
 人混みの中で、二人の視線が交差した。

 エリアスの心臓が跳ねた。

 気づいた。
 彼女が、気づいてくれた。

 彼は期待した。

 憎しみでもいい。
 軽蔑でもいい。

 何らかの感情を向けてくれることを。
 あるいは、かつてのよう慈悲深い微笑みで「仕方ありませんわね」と言ってくれることを。

 しかし。

 アデライドは、スッと目を細めた。
 そして、軽く顎を引いて会釈をした。

 それは、街ですれ違った顔見知り程度の他人に向ける、礼儀正しくも無味乾燥な挨拶だった。

 一秒にも満たない視線の交錯。
 彼女はすぐに視線を外し、隣の紳士に向き直った。

「ええ、次の新作の件ですが……」

 彼女の声が、風に乗って微かに聞こえた。
 その声に、エリアスへの未練や動揺は一切含まれていなかった。

 彼女はそのまま、エリアスの横を通り過ぎていく。

 香水の香り。
 雨上がりの森のような、清涼で凛とした香り。

 エリアスは振り返った。
 彼女の背中を追いたかった。

 だが、隣を歩く紳士が、アデライドの腰にそっと手を添え、段差をエスコートする姿が見えた。

 その紳士の目には、アデライドへの深い敬意と愛情が宿っていた。
 かつて、エリアスがソフィアに向けていたものを、遥かに高尚にしたような眼差し。

 エリアスは持っていた籠を取り落とした。
 中から安物のリンゴが転がり落ち、石畳の上を転がっていく。

「あ……、ああ……」

 エリアスはその場に崩れ落ちそうになるのを、必死でこらえた。
 理解したのだ。

 彼女はもう、自分を恨んですらいない。
 自分という存在は、彼女の人生という物語において、とっくに退場した過去の端役に過ぎないのだと。

 陶器は割れた。

 そして彼女は、その破片を捨てて、新しい土で、より美しく強固な器を作り上げたのだ。
 そこにはもう、エリアスが入る隙間など、一粒たりとも残されていなかった。

 アデライドは、背中に感じる視線を意識の外へと追いやった。
 かつての夫の姿は、驚くほど小さく、色褪せて見えた。

 胸の奥に痛みはなかった。
 あるのは、「ああ、あんな人もいたわね」という、古い日記を閉じるような静かな感慨だけ。

「アデライド? どうかしたかい?」

 隣を歩くパートナーが気遣わしげに覗き込んでくる。
 アデライドは彼を見上げ、ふわりと微笑んだ。

 それは、彼女が長い時間をかけて取り戻した、他の誰のためでもない、自分のための笑顔だった。

「いいえ、何でもありませんわ。……ただ、空が綺麗だと思って」

 彼女は見上げた。
 王都の空は、彼女が作り出した再生の青のように、どこまでも高く、澄み渡っている。

「行きましょう。新しい工房の図面、早くお見せしたいのです」

「ああ、楽しみにしているよ。君の作り出す未来は、いつだって美しいからね」

 二人は歩き出す。
 光溢れる大通りを、未来へと向かって。

 振り返ることはない。
 陶器の心は二度と戻らない。

 だからこそ、新しく焼き上がった心は、二度と誰にも砕かれることはないのだ。

 アデライドの靴音が、高らかに、軽やかに、石畳に響き渡った。

 それは彼女の勝利の凱歌であり、新しい人生の始まりを告げるファンファーレだった。

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