「君はカビ臭い」と婚約破棄されましたが、辺境伯様いわく、私の知識が辺境を救うのだそうです

水上

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第1話:カビと涙と婚約破棄

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 王宮の舞踏会場は、むせ返るような熱気と香水の匂いに満ちていました。
 煌びやかなシャンデリアの下、色とりどりのドレスが花のように舞う光景を、私は壁際から静かに観察していました。

(……湿度は六〇パーセント強、室温は二十四度。換気が不十分ですね。この環境では、壁のクロスの裏側でアスペルギルス属のカビが胞子を飛ばし始めているはずです)

 職業病とも言える思考を巡らせていると、突然、音楽が止まりました。

 ダンスホールの中心で、私の婚約者であるエドワード王太子殿下が、可愛らしいピンク色の髪をした男爵令嬢、リリィ様の腰を抱き寄せて立っていたのです。

「レティシア・スポア! 貴様との婚約は、今この時をもって破棄する!」

 殿下のよく通る声が響き渡り、会場が静まり返りました。
 私は手元のグラスを近くの給仕に預け、ドレスの裾をさばいて殿下の御前へと進み出ました。

「……理由をお伺いしてもよろしいでしょうか、殿下」

 努めて冷静に問いかけると、殿下は軽蔑の眼差しを私に向けました。

「理由だと? 自分の胸に聞いてみるがいい! お前のような陰気で、常にカビ臭い女など、王妃にふさわしくない! それに比べてリリィは、純粋で華やかで、まるで天使のようだ」

「ひどいですぅ、レティシア様ぁ……」

 リリィ様が殿下の胸に顔を埋め、震える声を出しました。

「私、レティシア様にずっといじめられていて……、このドレスだって、さっきレティシア様にインクをかけられたんですぅ!」

 リリィ様がパッとドレスの裾を広げると、そこには確かに黒々としたシミが広がっていました。
 会場中の貴族たちが、私に非難の視線を向けます。

「なんて酷いことを……」

「嫉妬に狂ったのか」

 ざわめきが広がる中、私は眼鏡の位置を人差し指で直し、一つため息をつきました。

 冤罪です。
 まったく身に覚えがありません。
 しかし、ここで「やっていません」と感情的に叫んだところで、今の殿下には届かないでしょう。

 必要なのは感情論ではなく、客観的な証拠です。

「失礼いたします」

 私はドレスのポケットから、常に携帯している高倍率のルーペを取り出しました。

「な、何をするつもりだ!」

「証拠を確認させていただきます」

 私はリリィ様の前に屈み込むと、ドレスの裾にあるインクのシミにルーペを当て、ピントを合わせました。

「殿下、リリィ様。これはインクのシミではありません」

「はあ? 往生際の悪い! 黒くて落ちない汚れならインクだろう!」

「いいえ、よくご覧ください。繊維の奥に菌糸が入り込み、コロニーを形成しています。これはインクではなく、高湿度の不衛生な環境でのみ爆発的に繁殖するクロカビです」

 私の言葉に、周囲の空気が凍りつきました。

「……は?」

「この規模のコロニーが形成されるには、適度な湿気と栄養源、そして長期間の放置が必要です。つまりリリィ様、貴女はこのドレスを洗濯も陰干しもしないまま、風通しの悪い汚れた部屋に数ヶ月間放置していたのではありませんか?」

 私の解説を聞き、近くにいた貴婦人たちが「まあ……」と口元を押さえて後ずさりしました。
 清潔感を装っていたリリィ様の汚部屋疑惑が、衆人環視の中で浮上したのです。

「ち、違いますぅ! 嘘です! 私、いじめられて毎日泣いていたから、部屋のことまで手が回らなくて……、見てください、この赤い目を! 毎日泣き腫らしていた証拠です!」

 リリィ様は必死に顔を上げ、充血した潤んだ瞳を周囲に見せつけました。
 確かに、彼女の目は赤く、涙ぐんでいます。

 殿下も勢いづきました。

「そうだ! 見ろ、この痛々しい目を! これこそがお前の冷酷さの証拠だ!」

 やれやれ。

 私は再びリリィ様に近づき、今度はその瞳をルーペ越しに観察しました。
 瞼の縁、睫毛の生え際。
 そこに付着している微細な粉末と、炎症のパターン。

「……汚部屋疑惑が確信に変わりそうですね」

「は?」

「これは心因性の涙による充血ではありません。枕や寝具に繁殖したダニの死骸と、皮膚常在菌の一種であるマラセチア真菌の増殖による、典型的なアレルギー性結膜炎です」

 会場が、今度こそ静まり返りました。

「……ダ、ダニ?」

「はい。寝具を天日干しせず、シーツも交換していないのでしょう。リリィ様の美しい髪や肌から剥がれ落ちたフケや皮脂を餌に、ダニとカビが枕元で大宴会を開いています。その結果が、その充血した瞳です」

 私はルーペをしまい、淡々と結論を述べました。
 つまり、いじめられて泣いていたのではなく、単に不潔な寝具で寝ていただけだと。

「キャアアアアア!」

 数名の令嬢が悲鳴を上げ、リリィ様から露骨に距離を取りました。

「悲劇のヒロイン」から一転、「不潔な令嬢」へと評価が反転した瞬間です。
 リリィ様は顔を真っ赤にして、殿下の背後に隠れようとしましたが、殿下自身も少し引いているのが見えました。

「き、貴様……! よくも私の愛するリリィを、そんな、菌まみれのように……!」

 殿下は顔を朱に染め、震える指で私を指差しました。
 論理的な反論ができないため、権力による恫喝に切り替えたようです。

「屁理屈はもうたくさんだ! 王族に対する侮辱罪、および不敬罪だ! レティシア・スポア、貴様を国外追放処分とする! 即刻、北の辺境伯領へ向かえ! 二度と私の前に顔を見せるな!」

 辺境伯領。
 それは、狂犬と恐れられるクラウス・ヴァルム辺境伯が治める、極寒と魔物の地。
 普通のご令嬢なら卒倒するような宣告です。

 しかし、私は密かに口角が上がるのを止められませんでした。

(北の辺境……。あそこは手付かずの原生林が広がり、希少な粘菌や未知のキノコの宝庫と言われていますね)

 華やかなだけで中身のない社交界や、科学的根拠よりも感情論が優先されるこの王宮に、私は以前から辟易していました。

 研究に没頭できる環境が得られるのなら、それは追放ではなく栄転です。

「謹んでお受けいたします、殿下」

 私は優雅にカーテシーをしました。

「リリィ様も、お体をお大事に。皮膚炎が悪化する前に、枕カバーなどを洗濯されることを強くお勧めいたします」

「キーッ!!」と金切り声を上げるリリィ様と、呆然とする殿下を背に、私は颯爽と会場を後にしました。

 この汚部屋疑惑騒動からの婚約破棄と追放をきっかけに、腐敗した王都が崩壊への道を歩み始めたのです。。
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