「君はカビ臭い」と婚約破棄されましたが、辺境伯様いわく、私の知識が辺境を救うのだそうです

水上

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第2話:辺境への旅路と出会い

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 王都を追放されてから、馬車に揺られること十数日。
 窓の外の景色は、鮮やかな緑の平原から、徐々に針葉樹の目立つ荒涼とした灰色へと変わっていました。

 ガタガタと車輪が音を立てる中、私は膝の上の書物を閉じ、ふと元婚約者であるエドワード王太子殿下のことを思い出しました。

「……不思議ですね。悲しみが1ミリグラムも湧いてきません」

 本来なら、婚約者に裏切られ、身に覚えのない罪で故郷を追われた悲劇のヒロインとして、枕を涙で濡らすべき場面でしょう。

 しかし、私の胸にあるのは清々しさだけでした。

 殿下のあの自信満々な態度は、まるで冬虫夏草に寄生された昆虫のようでした。
 冬虫夏草は、生きた昆虫の体内に菌糸を伸ばし、その行動すらもコントロールして、最終的には体からキノコを生やして苗床にします。

「殿下はご自分の意志で発言しているつもりでしょうが、その実、中身は空っぽ。リリィ様という菌に操られ、ただ胞子を撒き散らすだけの哀れな宿主……」

 そう定義してしまうと、怒りよりも同情が湧いてきます。

 リリィ様は可愛らしい見た目に反して、なかなかに強力な毒性を持つ菌類のようですね。
 宿主が完全に養分を吸い尽くされて枯れ果てないよう祈るばかりです。

「まもなく、ヴァルム辺境伯領に到着いたします!」

 御者の声で、私は思考の海から浮上しました。

 窓を開けると、冷気が頬を刺します。
 目の前に現れたのは、優雅な王宮とは似ても似つかない、無骨な石造りの要塞のような屋敷でした。

 ヴァルム辺境伯領。
 北の果て、獣が出没する危険地帯を統治する、武門の名家。

 その当主であるクラウス・ヴァルム辺境伯は、巨大な獣を素手で引き裂くほどの武勇と、気に入らない相手は貴族だろうと睨み殺す凶暴さから、あだ名を狂犬と呼ばれています。

(地味な私が、そんな武闘派の領地でやっていけるのでしょうか……)

 一抹の不安を抱えながら、私は馬車を降りました。
 屋敷の玄関前には、使用人たち、そしてその中心に一際大きな影が立っていました。

「……お前が、王都から送られてきた令嬢か」

 低い、地響きのような声。
 見上げると、そこには身長一九〇センチはあるであろう巨漢がいました。

 黒曜石のように鋭い三白眼。
 頬には獣の爪痕と思われる古傷。
 鍛え上げられた肉体は、厚手のコートの上からでも威圧感を放っています。

 彼こそが、クラウス・ヴァルム辺境伯。
 噂通りの、いえ、噂以上に捕食者のオーラを纏った御方でした。

「お初にお目にかかります。レティシア・スポアと申します。以後、よろしくお願いいたします」

 私は怯えを悟られないよう、背筋を伸ばして敬礼しました。
 クラウス様は私を値踏みするようにジロジロと観察します。
 その視線が、私の顔で止まりました。

「……分厚い眼鏡だな」

「はい。研究のために顕微鏡や文献を読みすぎてしまいまして、かなりの近眼です」

「ふん。菌に詳しいというのは本当らしいな」

 彼は鼻を鳴らすと、「ついてこい。飯だ」とだけ言い捨てて、背を向けました。

 歓迎の言葉も、長旅への労いもありません。
 やはり、前評判通りのぶっきらぼうで恐ろしい方です。
 私は荷物を握りしめ、彼の大きな背中を追いました。

 通された食堂は、暖炉の火が赤々と燃え、飾り気はありませんが清潔で暖かい空間でした。
 長いテーブルの端にクラウス様が座り、その隣に私の席が用意されていました。

「食え」

 短い号令と共に運ばれてきたのは、湯気を立てる鹿肉のローストです。

 辺境の料理ということで、硬くて味気ないものを覚悟していたのですが、漂ってくる香りは芳醇で、食欲をそそります。

 そして何より目を引いたのは、肉にかかっているソースでした。
 黒に近い、濃い紫色。
 一見すると毒々しい色合いですが、私の知識がその正体を告げていました。

(これは……、ただのグレービーソースではありませんね。この色、そして鼻をくすぐる甘酸っぱい香り……)

 私はナイフとフォークを手に取り、一口サイズに切った肉を口に運びました。

「……!」

 驚きました。

 鹿肉特有の臭みは完全に消され、柔らかくジューシーな肉の旨味を、濃厚なソースが引き立てています。
 そしてこのソース、ただ甘酸っぱいだけではありません。
 野生の力強い風味が凝縮されています。

「美味しい……。これは、ビルベリー、……いえ、さらに濃縮された果汁でしょうか?」

 思わず呟くと、黙々と食事をしていたクラウス様が顔を上げました。
 ギロリと睨まれ、私はまた何か失礼なことを言ってしまったかと身構えます。

「……気づいたか」

「は、はい。通常のブルーベリーよりも色素が濃く、酸味が強いようです。それに、渋み成分であるタンニンも微かに感じます」

「正解だ。北の森に自生するワイルド・ビルベリーを煮詰め、バルサミコと赤ワインで仕上げた」

 クラウス様はワイングラスを揺らしながら、私の目、正確には眼鏡を指差しました。

「王都からの報告書にも『四六時中、微細なものを観察している』とあった」

「……はい、その通りですが」

「なら、食え。そのソースには、目の機能を回復させるアントシアニンが通常の栽培種の五倍は含まれている。さらに脂溶性ビタミンの吸収を助けるため、肉の脂と合わせている」

 彼はぶっきらぼうに、栄養学的根拠を述べました。

「お前の目は、自身にとって大切なもののはずだ。メンテナンスを怠るな」

「え……?」

 私はフォークを持ったまま、固まってしまいました。
 今、なんと仰いましたか?

 王宮では、殿下から「その分厚い眼鏡は可愛げがない」「人前では外せ」と疎まれていました。
 研究に没頭して目を酷使することも、「女のくせに学問など無駄だ」「可愛くない」と嘲笑されてきました。

 それなのに、この狂犬と呼ばれる恐ろしい男性は、私の目を――私の知識を探求するための器官を、気遣ってくれたのです。

「……私の目を、気遣ってくれるなんて」

「お前の頭の中にある知識を引き出すには、目が必要だろう。道具の手入れをするのは所有者の義務だ。さっさと食って、明日に備えて寝ろ」

 クラウス様はそれだけ言うと、再び黙って肉を切り始めました。
 私は胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じました。

 それは、「可愛い」とか「綺麗だ」という薄っぺらい褒め言葉よりも、ずっと私の心に響く言葉でした。

「……ありがとうございます」

 私は眼鏡の位置を直し、紫色のソースがたっぷりとかかったお肉を口に運びました。
 甘酸っぱく、深く、そしてとても優しい味がしました。

 どうやらこの辺境の地は、私が思っていたよりもずっと、居心地の良い場所になりそうです。
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