殿下、婚約破棄は承りましたので、戻ってと懇願されても知りませんよ?~白い結婚の契約内容に溺愛は含まれていなかったと思うのですが~

水上

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第7話:冗談を言う男と、真顔で返答する女

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「……これは、歩行困難ですね。泥の粘度が高く、靴の吸着力が……」

「捕まっていろ」

 セレフィーナが対策を考案するより早く、視界が反転した。
 体がふわりと浮き上がる。

 この体勢は、いわゆるお姫様抱っこである。

「ちょ、旦那様!?」

「このぬかるみだ。お前の足では進めん」

 グレイグは事もなげに言い、泥の海へと足を踏み入れた。
 ズブ、ズブ、と重い音がするが、彼の歩みは揺るがない。

 セレフィーナは慌てて彼の首に腕を回しながら、真剣な顔で警告した。

「下ろしてください、旦那様。私の質量はそこそこあります。この姿勢で保持すると、モーメントアームが長くなり、貴方の腰椎間に過大なせん断力が作用します!」

 グレイグは呆れたように息を吐いた。

「問題ない。俺の脊柱起立筋と大殿筋の出力を見くびるな。これくらいの負荷、トレーニングにもならん」

「ですが、静荷重だけでなく、歩行による動荷重も加わります! 腰痛は一度発症すると慢性化しやすいのです!」

「俺の筋肉はそれすらも凌駕する。……そんなに心配なら、もっと暴れて動荷重とやらをかけてみるか?」

「え……?」

 セレフィーナは真顔で考え込んだ。

「なるほど。あえて不規則な負荷をかけることで、貴方の体幹スタビリティの限界値をテストするということですね? 分かりました、では少し暴れます」

「……冗談だ。そんなことをしたら、本当に落とすぞ」

 グレイグは苦笑し、抱える腕に少しだけ力を込めた。
 その力強さは、絶対に落とさないという鉄の意志を感じさせた。

 泥道を抜けるまでの数十分間。
 セレフィーナは、揺れる彼の腕の中で、不思議な安堵感に包まれていた。

 実家にいた頃は、常に完璧な令嬢であることを求められ、研究の話をすれば奇行と蔑まれた。
 誰もセレフィーナを守ってはくれなかった。

 けれど今、この不器用な辺境伯は、物理的な泥からも、振動からも、セレフィーナを隔絶し守ってくれている。

(これが……、安全率が高い状態、というものなのですね)

 セレフィーナは、無意識のうちに指に力を込めた。
 グレイグの横顔は、泥道に似合わず穏やかだった。

 峠を越え、ようやく乾いた地面に彼女を下ろした時、グレイグの額にはうっすらと汗が滲んでいた。

 セレフィーナがハンカチを取り出し、背伸びをしてその汗を拭うと、彼は驚いたように目を見開き、それからぶっきらぼうに「……すまん」と呟いて顔を背けた。

 その耳が僅かに赤くなっている理由に、恋愛偏差値ゼロのセレフィーナは気づかない。

 ただ、運動による体温上昇に伴う血管拡張反応として処理し、再び馬車へと乗り込むのだった。
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