殿下、婚約破棄は承りましたので、戻ってと懇願されても知りませんよ?~白い結婚の契約内容に溺愛は含まれていなかったと思うのですが~

水上

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第6話:辺境への旅路と物理的接触

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 王都を出発してから三日。
 辺境伯領へと向かう馬車の中は、物理学的な地獄と化していた。

「……ッ、うぐ!」

 ガタンッという激しい衝撃音と共に、セレフィーナの体は宙に浮き、そして硬い座面へと叩きつけられた。

 優雅な貴族の旅とは程遠い。

「……申し訳ない。先日の大雨で、路盤が緩んでいるようだ」

 向かいの席に座るグレイグが、腕組みをしたまま微動だにせずに言った。
 彼の体幹は、まるで岩盤のように安定しており、激しい揺れをものともしていない。

 対するセレフィーナは、三半規管の限界を迎えつつあった。

「いえ……、謝罪は不要です、旦那様。これは純粋に、路面の凹凸による入力振動が、サスペンションの減衰能力を超過しているだけのこと……」

 セレフィーナは青ざめた顔で、必死に現状を分析しようと試みた。

「現在の振動周波数は推定4ヘルツ。これは人間の内臓の共振周波数に近い帯域です。このままでは、私の胃内容物が逆流するのは時間の問題かと」

「それは困るな」

「はい。あとで車軸のリーフスプリングのバネ定数と、潤滑グリスの粘度を見直しましょう。……うっ!」

 その時、馬車が大きな窪みに嵌まり、車体が大きく傾いた。
 セレフィーナの体は慣性の法則に従い、支えを失って放り出される――はずだった。

 強靭な腕が、彼女の細い体を空中で捕捉した。
 気づけば、セレフィーナの顔は、グレイグの厚い胸板に押し付けられていた。

「大丈夫か」

「あ……、はい。ありがとうございます」

 至近距離で響く彼の声は、骨伝導で直接鼓膜に届くような重低音だった。

 セレフィーナは身じろぎしようとしたが、馬車の揺れは収まるどころか、さらに激しさを増していく。

「お前の三半規管がやられる前に到着したいが……、今は対策のしようがないな」

「い、いえ。物理的に考えれば、慣性質量を増やせば振動の影響は相対的に軽減されます。このまま……、固定していただいても?」

 セレフィーナの提案に、グレイグは一瞬目を見開き、それから僅かに視線を逸らして咳払いをした。

「……ああ、それがいい。俺の大胸筋がクッション代わりだ」

 彼は太い腕をセレフィーナの背中に回し、がっちりと抱きすくめた。
 その拘束力は絶大だった。

 先ほどまでシェイカーのように揺さぶられていた体が、嘘のように安定する。
 セレフィーナは、頬に触れる彼の胸筋の感触を冷静に分析し始めた。

(……素晴らしい弾性率ですわ。表面は硬いのに、衝撃を吸収する柔軟性も兼ね備えていますね。高張力鋼板とゴムの複合素材のような……。それに、この熱量)

 彼の体温が、ドレス越しに伝わってくる。
 それは単なる熱エネルギーの移動のはずなのに、なぜかセレフィーナの心拍数を上昇させた。

(不思議ですね。振動は収まったのに、私の心臓のポンプ機能が異常興奮を起こしています。……やはり、先ほどの揺れで自律神経が乱れたのてしょうか)

 数時間後、馬車はようやく停車した。
 だが、トラブルは続く。

 直前の崖崩れにより、街道が完全に泥で埋まってしまっていたのだ。
 ここから先は、徒歩で峠を越え、迎えの馬車に乗り換えるしかない。

「降りられるか?」

「はい、問題ありません」

 セレフィーナは気丈に答えて馬車を降りようとしたが、地面を見て動きを止めた。
 そこは、泥沼だった。

 彼女の履いている華奢な革靴では、一歩踏み出した瞬間に沈没し、足を取られることは明白だ。
 摩擦係数が低すぎる泥濘地での歩行は、転倒リスクが極めて高い。

 セレフィーナがそんなことを考えていると、グレイグが驚くべき行動をとったのだった。
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