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第36話:逃した魚の大きさ
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辺境伯邸の地下には、要人を一時的に収容するための堅牢な部屋がある。
かつては捕虜用に使われていたその場所に、今はアルフレッド王太子とミナが閉じ込められていた。
「出せ! ここから出せ! 私は王太子だぞ!」
「こんなカビ臭い部屋、耐えられませんわ! リディア、どこにいるのよ!」
鉄格子の向こうで喚き散らす二人。
そこへ、コツコツと足音が響いた。
ジェラルドとリディアが姿を現すと、アルフレッドは鉄格子に掴みかかり、血走った目で叫んだ。
「お、おい! ジェラルド! これは何かの冗談だろう? 私をこんな所に閉じ込めて、ただで済むと思っているのか!」
「冗談ではない。重要参考人の確保だ」
ジェラルドは冷ややかに見下ろした。
「王都からの迎えが来るまで、そこで頭を冷やしていろ。……もっとも、迎えに来るのが近衛兵か捜査官かは知らんがな」
「ぐぬぬ……!」
アルフレッドは歯噛みし、それからふと何かを思いついたように表情を変えた。
急に尊大な態度を取り戻し、ニヤリと笑う。
「……ふん。まあいい。貴様らが無礼を働いたことは水に流してやろう。その代わり、喉が渇いた。私が持参した荷物の中に、桐の箱に入ったワインがあるはずだ。それを持ってこい」
彼は勝ち誇ったように言った。
「それは王家の地下貯蔵庫で百年間眠っていた、伝説のヴィンテージワインだ。……特別に貴様らにも振る舞ってやろう。その味を知れば、辺境の安酒など泥水に思えるはずだ。和解の印として乾杯しようではないか」
まだ自分の立場が分かっていないらしい。
あるいは、この期に及んで、見逃してもらえるとでも思っているのか。
ジェラルドは呆れたように肩を竦め、執事に目配せをした。
「……いいだろう。最後の慈悲だ。持ってこい」
やがて、執事が恭しく桐の箱を運んできた。
中から取り出されたボトルは、確かに埃を被り、歴史を感じさせる重厚な佇まいをしていた。
「見ろ、この風格を! 王都が誇る最高級品だ!」
アルフレッドが胸を張る。
鉄格子越しに、ジェラルドがソムリエナイフを取り出した。
コルクが抜かれた瞬間――。
強烈な刺激臭が、地下の狭い空間に充満した。
それは芳醇なブドウの香りなどではない。
鼻の粘膜を刺すような、酸っぱい酢の臭いだった。
「……くさっ!」
ミナが思わず鼻をつまむ。
アルフレッドは目を丸くし、ジェラルドがグラスに注いだ液体を凝視した。
本来なら深いルビー色であるはずの液体は、茶色く濁り、澱が舞っている。
「な、なんだこれは……? 腐っているのか?」
「……殿下。以前の失敗から、何も学ばれていないのですね」
リディアが静かに口を開いた。
彼女は憐れむような目で、その死んだワインを見つめていた。
「そのワイン、最後にリコルクをしたのはいつですか?」
「は? リコルクだと? そんなもの、知らん!」
「……やはり」
リディアは淡々と解説した。
「ワインは生き物です。コルクは二十年もすれば乾燥して縮み、弾力を失います。定期的に打ち直し、液面の低下を補酒しなければ、隙間から空気が入り込んで酸化が進んでしまいます」
彼女はアルフレッドを直視した。
「私が王宮にいた頃は、数年に一度、地下貯蔵庫の全てのボトルの状態を確認し、職人を呼んでメンテナンスをしていました。……ですが、私がいなくなってからは、誰もそれをしなかったようですね」
「そ、そんな……、まさか……」
「管理する者がいなければ、どんな宝もただのゴミになります。……このワインは、もう飲めません。完全に酢になっています」
アルフレッドは崩れ落ちた。
自慢の切り札が、ただの酸っぱい液体に変わっていた。
それは、彼がリディアを追放したことで失ったものの大きさを、あまりにも残酷な形で象徴していた。
彼女の地味な仕事が、王家の財産を守っていたのだ。
「……口直しだ」
ジェラルドが、別のボトルを取り出した。
美しいカッティングが施されたガラス瓶に、雪の結晶とポピーの花のレリーフが輝いている。
辺境特産ワインスノー・ルージュだ。
コルクを抜くと、地下牢の空気が一変した。
華やかなベリーの香りと、熟成された樽の香ばしさ。
そして微かに香るスパイスのニュアンス。
芳醇なアロマが、先ほどの酢の臭いを鮮やかに塗り替えていく。
「い、いい香り……」
ミナがうっとりと呟き、ハッとして口を押さえた。
ジェラルドは新しいグラスにそれを注ぎ、リディアに手渡した。
「これは……?」
「我々が作ったワインだ。リディアがボトルをデザインし、私が酵母と発酵温度を完璧に管理した」
ジェラルドは自らのグラスも満たし、リディアと軽く合わせる。
澄んだ音が響く。
二人はアルフレッドたちの目の前で、そのワインを優雅に口にした。
「……美味しい」
リディアが微笑む。
完璧な味わいだった。
辺境の厳しい自然と、二人の知恵と技術が結晶化した味だ。
「貴様らが百年かけて腐らせたゴミと、我々が一年で作り上げた宝石。……勝負にならんな」
ジェラルドはグラスを揺らしながら、鉄格子の向こうの二人を見据えた。
「逃した魚は大きいと言うが……、貴殿もようやく、そのことに気づいたのではないか?」
アルフレッドは震える手で鉄格子を握りしめ、リディアを見つめた。
地味だと思っていた元婚約者。
今、檻の向こう側にいる彼女は、知的で、美しく、そして何より遠い存在に見えた。
「リディア……、私は……」
「さようなら、殿下」
リディアはもう、彼を見なかった。
彼女はジェラルドに寄り添い、グラスを掲げた。
「この美味しいワインが、お二人の門出への手向けとなりますように。……もっとも、差し上げるわけにはいきませんが」
ジェラルドとリディアは、呆然とする二人を残し、踵を返した。
地下牢に残されたのは、決して取り戻せない後悔の味だけだった。
かつては捕虜用に使われていたその場所に、今はアルフレッド王太子とミナが閉じ込められていた。
「出せ! ここから出せ! 私は王太子だぞ!」
「こんなカビ臭い部屋、耐えられませんわ! リディア、どこにいるのよ!」
鉄格子の向こうで喚き散らす二人。
そこへ、コツコツと足音が響いた。
ジェラルドとリディアが姿を現すと、アルフレッドは鉄格子に掴みかかり、血走った目で叫んだ。
「お、おい! ジェラルド! これは何かの冗談だろう? 私をこんな所に閉じ込めて、ただで済むと思っているのか!」
「冗談ではない。重要参考人の確保だ」
ジェラルドは冷ややかに見下ろした。
「王都からの迎えが来るまで、そこで頭を冷やしていろ。……もっとも、迎えに来るのが近衛兵か捜査官かは知らんがな」
「ぐぬぬ……!」
アルフレッドは歯噛みし、それからふと何かを思いついたように表情を変えた。
急に尊大な態度を取り戻し、ニヤリと笑う。
「……ふん。まあいい。貴様らが無礼を働いたことは水に流してやろう。その代わり、喉が渇いた。私が持参した荷物の中に、桐の箱に入ったワインがあるはずだ。それを持ってこい」
彼は勝ち誇ったように言った。
「それは王家の地下貯蔵庫で百年間眠っていた、伝説のヴィンテージワインだ。……特別に貴様らにも振る舞ってやろう。その味を知れば、辺境の安酒など泥水に思えるはずだ。和解の印として乾杯しようではないか」
まだ自分の立場が分かっていないらしい。
あるいは、この期に及んで、見逃してもらえるとでも思っているのか。
ジェラルドは呆れたように肩を竦め、執事に目配せをした。
「……いいだろう。最後の慈悲だ。持ってこい」
やがて、執事が恭しく桐の箱を運んできた。
中から取り出されたボトルは、確かに埃を被り、歴史を感じさせる重厚な佇まいをしていた。
「見ろ、この風格を! 王都が誇る最高級品だ!」
アルフレッドが胸を張る。
鉄格子越しに、ジェラルドがソムリエナイフを取り出した。
コルクが抜かれた瞬間――。
強烈な刺激臭が、地下の狭い空間に充満した。
それは芳醇なブドウの香りなどではない。
鼻の粘膜を刺すような、酸っぱい酢の臭いだった。
「……くさっ!」
ミナが思わず鼻をつまむ。
アルフレッドは目を丸くし、ジェラルドがグラスに注いだ液体を凝視した。
本来なら深いルビー色であるはずの液体は、茶色く濁り、澱が舞っている。
「な、なんだこれは……? 腐っているのか?」
「……殿下。以前の失敗から、何も学ばれていないのですね」
リディアが静かに口を開いた。
彼女は憐れむような目で、その死んだワインを見つめていた。
「そのワイン、最後にリコルクをしたのはいつですか?」
「は? リコルクだと? そんなもの、知らん!」
「……やはり」
リディアは淡々と解説した。
「ワインは生き物です。コルクは二十年もすれば乾燥して縮み、弾力を失います。定期的に打ち直し、液面の低下を補酒しなければ、隙間から空気が入り込んで酸化が進んでしまいます」
彼女はアルフレッドを直視した。
「私が王宮にいた頃は、数年に一度、地下貯蔵庫の全てのボトルの状態を確認し、職人を呼んでメンテナンスをしていました。……ですが、私がいなくなってからは、誰もそれをしなかったようですね」
「そ、そんな……、まさか……」
「管理する者がいなければ、どんな宝もただのゴミになります。……このワインは、もう飲めません。完全に酢になっています」
アルフレッドは崩れ落ちた。
自慢の切り札が、ただの酸っぱい液体に変わっていた。
それは、彼がリディアを追放したことで失ったものの大きさを、あまりにも残酷な形で象徴していた。
彼女の地味な仕事が、王家の財産を守っていたのだ。
「……口直しだ」
ジェラルドが、別のボトルを取り出した。
美しいカッティングが施されたガラス瓶に、雪の結晶とポピーの花のレリーフが輝いている。
辺境特産ワインスノー・ルージュだ。
コルクを抜くと、地下牢の空気が一変した。
華やかなベリーの香りと、熟成された樽の香ばしさ。
そして微かに香るスパイスのニュアンス。
芳醇なアロマが、先ほどの酢の臭いを鮮やかに塗り替えていく。
「い、いい香り……」
ミナがうっとりと呟き、ハッとして口を押さえた。
ジェラルドは新しいグラスにそれを注ぎ、リディアに手渡した。
「これは……?」
「我々が作ったワインだ。リディアがボトルをデザインし、私が酵母と発酵温度を完璧に管理した」
ジェラルドは自らのグラスも満たし、リディアと軽く合わせる。
澄んだ音が響く。
二人はアルフレッドたちの目の前で、そのワインを優雅に口にした。
「……美味しい」
リディアが微笑む。
完璧な味わいだった。
辺境の厳しい自然と、二人の知恵と技術が結晶化した味だ。
「貴様らが百年かけて腐らせたゴミと、我々が一年で作り上げた宝石。……勝負にならんな」
ジェラルドはグラスを揺らしながら、鉄格子の向こうの二人を見据えた。
「逃した魚は大きいと言うが……、貴殿もようやく、そのことに気づいたのではないか?」
アルフレッドは震える手で鉄格子を握りしめ、リディアを見つめた。
地味だと思っていた元婚約者。
今、檻の向こう側にいる彼女は、知的で、美しく、そして何より遠い存在に見えた。
「リディア……、私は……」
「さようなら、殿下」
リディアはもう、彼を見なかった。
彼女はジェラルドに寄り添い、グラスを掲げた。
「この美味しいワインが、お二人の門出への手向けとなりますように。……もっとも、差し上げるわけにはいきませんが」
ジェラルドとリディアは、呆然とする二人を残し、踵を返した。
地下牢に残されたのは、決して取り戻せない後悔の味だけだった。
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