王太子に理不尽に婚約破棄されたので辺境を改革したら、王都に戻ってきてくれと言われました

水上

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第3話:辺境伯と白い結婚

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 王都を出発して十日。
 馬車の窓から見える景色は、豊かな緑から荒涼とした岩肌、そして一面の雪景色へと変わっていた。

 北の辺境、ダリウス領。
 一年のおよそ半分が雪に閉ざされるというこの地は、王都の貴族たちから流刑地と揶揄されている。

 だが、馬車から降り立ったエリアナの第一声は、歓喜に震えていた。

「素晴らしい……! なんて清浄で、凛とした空気なのでしょう!」

 エリアナは眼鏡を白く曇らせながら、氷点下の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

「この気温なら、雑菌の繁殖はほぼ完全に抑制できます。 低温長期熟成系の酵母たちが、嬉々として活動する姿が目に浮かぶようですわ!」

 ガタガタと震える体とは裏腹に、エリアナの精神は高揚していた。

 薄手のドレスの上に急遽用意した外套を羽織っているものの、研究室に引きこもりがちな彼女の体力では、この寒さは命に関わる。

 そんな彼女を出迎えたのは、石造りの堅牢な城塞と、武装した屈強な騎士たち。
 そして、その中央に立つ一人の男だった。

「……お前が、王都から追放されたというエリアナ・バーネットか」

 低い、地を這うような声。
 エリアナは居住まいを正し、その男を見上げた。

 身長は優に一九〇センチを超えているだろうか。
 熊の毛皮をあしらった重厚なマントを羽織り、鍛え上げられた肉体は服の上からでも威圧感を放っている。

 漆黒の髪に、獲物を射抜く猛禽類のような金色の瞳。
 彼こそが、この地を治める辺境伯、ギルバート・ヴァン・ダリウス。

 北の魔王と恐れられる当人だった。

「初めまして、辺境伯様。元・王太子婚約者、現在はただの腐った女こと、エリアナ・バーネットです」

 エリアナは皮肉を込めて自嘲気味に名乗り、カーテシーをした。

 どうせ、王都での悪評はここまで届いているだろう。
 腐った女を妻に迎えるなど、辺境伯にとっても不本意に違いない。

 しかし、ギルバートは眉間に深い皺を寄せたまま、エリアナをじろじろと観察した。

「……腐った女、か」

「はい。殿下にはそう評価されました。もしご不快でしたら、すぐに離れに引きこもりますので――」

「馬鹿げた評価だ」

 ギルバートが短く吐き捨てた。
 エリアナは驚いて顔を上げる。

「俺が調査させた報告書には、全く別のことが書かれていたぞ。王都の食料備蓄庫の湿度が適切に管理されていたのも、下町の疫病発生率が下がったのも、すべてお前が裏で指示を出していたからだと」

「え……」

「王太子は腐っていると言ったそうだが、俺の目には熟成された知恵に見える。奴にはお前の価値を理解する頭脳がなかっただけの話だ」

 エリアナは瞬きをした。

 実家の家族にすら地味な趣味と呆れられ、王太子には全否定された彼女の知識と労働。
 それを、会ったばかりの、しかも魔王と呼ばれる男が肯定したのだ。

「さて、本題だ。エリアナ嬢」

 ギルバートは一歩近づき、圧倒的な体格差でエリアナを見下ろした。
 その目つきは鋭く、まるで獲物を狙うようだが、口調は極めて事務的だった。

「俺とお前は、王命によって結婚することになっている。だが、俺は見ての通り、領地経営にしか興味がない無骨者だ。愛だの恋だのを囁くつもりも、お前にそれを強要するつもりもない」

「……はい。合理的で助かります」

「そこで提案だ。俺たちの結婚は、対外的な契約――いわゆる白い結婚としたい。お前には辺境伯夫人として、その知識を用いて領内の食糧事情や衛生管理を改善してほしい。その代わり、俺は貴族としての身分と、研究に必要な設備、資材を全面的に保証する」

 それは、エリアナにとって願ってもない申し出だった。

 恋愛感情という不確定な要素を排除し、互いの利益を交換し合う関係。
 非常に論理的で、美しい契約だ。

「喜んでお受けします、辺境伯様! 私の発酵知識が役立つなら、微細な菌のレベルまで酷使してください!」

「よし、交渉成立だ」

 ギルバートは無骨な手を差し出した。
 エリアナがその大きな手に、自分の骨張った小さな手を重ねる。

 契約は結ばれた。

 ……はずだったが、ギルバートは握手をしたまま、なぜかエリアナの手を離さなかった。

 それどころか、彼の金色の瞳が、エリアナの顔、首筋、そして薄い腰回りを、さらに鋭く、険しく凝視し始めたのだ。

 眉間の皺が深くなり、何やらブツブツと呟いている。

(ひっ……! な、なんでしょう? やはり腐った女は物理的に排除すべきだと気が変わったのでしょうか……?)

 エリアナは身を固くした。
 しかし、ギルバートの思考は、エリアナの予想とは真逆の方向に迷走していた。

(……軽い。軽すぎる。手首の骨が浮き出ているし、肌の色素も薄い。眼窩の下にはクマ。……完全な栄養失調だ)

 彼は辺境の民たちの健康を守るため、独学で栄養学と料理をプロ級まで極めた男だ。

 そんな彼の目に、激務と寝不足でやつれたエリアナの姿は、重篤患者として映っていたのである。

(タンパク質の欠乏、ビタミンDとB群の不足……、これでは免疫力が低下して当然だ。北の寒さに耐えられるはずがない。……まずは消化の良いポタージュからか? いや、鉄分を補うためにレバーペーストを……)

 ギルバートの目つきがさらに険しくなる。

 それは殺意ではなく、どうやってこの痩せっぽちを健康的に太らせてやろうかという、偏執的なまでの使命感の表れだった。

「……おい」

「は、はいっ! 命だけは!」

「これから晩餐だ。……覚悟しておけ」

 ドスの効いた声で告げられ、エリアナは「毒殺される!?」と戦慄した。
 しかし、その数十分後。

 彼女の目の前に並べられたのは、極寒の地とは思えないほど温かく、香り高い極上のフルコースだった。

 これが、不器用な辺境伯による溺愛の始まりであることを、エリアナはまだ気づいていなかった。
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