王太子に理不尽に婚約破棄されたので辺境を改革したら、王都に戻ってきてくれと言われました

水上

文字の大きさ
4 / 18

第4話:硬い肉と不器用な膝枕

しおりを挟む
「……硬いな」

 ギルバート辺境伯はナイフとフォークを握ったまま、目の前の皿に鎮座する厚切りのステーキを睨みつけている。

 出された食事は毒ではなかった。
 それどころか、スープもサラダも、王都の高級レストランが逃げ出すほどの絶品だった。

 野菜の甘味を引き出す火入れ、ドレッシングの乳化具合、どれも完璧だ。

 ――ただ一つ、メインディッシュの肉料理を除いては。

「エリアナ。無理をして食べなくていい。この肉は、顎の力が弱いお前にはゴムを噛むようなものだろう」

「い、いえ! いただきます! タンパク質は生命活動の維持に不可欠ですので!」

 エリアナは必死にナイフを動かした。
 だが、ギルバートの言う通りだった。

 辺境の過酷な環境で育った牛の肉は、風味こそ濃厚で野性味あふれる旨さがあるが、とにかく筋張って硬い。

(味は良いのに……、もったいない。これでは消化吸収率も下がってしまいます)

 エリアナは咀嚼しながら、脳をフル回転させた。
 そして、ふと思い出す。

 王都から持参した、菌の入った保冷鞄のことを。

「あの、辺境伯様。……少し、台所をお借りしてもよろしいでしょうか?」

「台所? 何をする気だ」

「このお肉を、劇的に柔らかくして差し上げます」

 数分後。
 厨房に立ったエリアナは、持参したガラス瓶を取り出していた。

 中には白く濁った、ドロリとした液体が入っている。

「それは……、何だ?」

 腕組みをして背後に立つギルバートが、怪訝そうに眉をひそめた。

「塩麹です。蒸した米に麹菌を繁殖させ、塩と水で発酵熟成させた万能調味料ですわ」

 エリアナは慣れた手つきで肉の表面にフォークで穴を開け、塩麹を薄く塗り込んでいく。

「麹菌が生成する酵素プロテアーゼには、肉のタンパク質を分解し、ペプチドやアミノ酸に変える働きがあります。つまり、筋繊維の結びつきを解いて柔らかくすると同時に、旨味成分を爆発的に増加させるのです」

「……タンパク質の分解酵素だと?」

「さらに、麹の持つ酵素はデンプンも糖に変えるため、焼いた時に美しい焦げ目と香ばしさを生み出します。本来なら一晩漬け込みたいところですが、今回は酵素活性を高めるために、少し温かい場所で短時間馴染ませました」

 エリアナは処置を施した肉を託した。

「あとはいつも通り焼いてください。ただし、焦げやすいので火加減は弱めで」

 そして再びダイニングルームへ戻り、焼き上がりを待つこと数分。
 運ばれてきたステーキからは、甘く香ばしい芳香が漂っていた。

「……見た目は変わらないが」

 ギルバートが半信半疑でナイフを入れる。
 その瞬間、彼の手が止まった。

 まるでバターを切るかのように、ナイフが肉に吸い込まれていったのだ。

「なっ……」

 一口食べたギルバートの目が、驚愕に見開かれた。

「……柔らかい。いや、それだけじゃない。肉の繊維が解け、中から濃厚な肉汁と、複雑な甘みが溢れ出してくる。……これが、あの硬い赤身肉か?」

「はい。塩麹の酵素が、お肉のポテンシャルを最大限に引き出した結果です」

 エリアナも自分の一切れを口に運び、頬を緩ませた。

「んんっ……、美味しい! 辺境のお肉は本来、とても味が濃いのですね。これなら消化も良いですし、ご年配の方や子供でも美味しくいただけますわ!」

 ギルバートは黙々と、猛烈な勢いで肉を平らげていく。

 その表情は依然として険しいままだが、フォークの動きが止まらないことが何よりの称賛だった。

「……エリアナ。お前の知識は、俺の想像を超えていたようだ」

「お役に立てて光栄です」

 緊張が解けたのと、久しぶりにまともな食事をお腹いっぱい食べた反動で、エリアナには強烈な睡魔が襲ってきていた。

 食後のお茶を飲みながら、彼女の頭は舟を漕ぎ始めていた。

「……おい」

「はっ、はい!?  すみません、つい意識が……」

 慌てて姿勢を正そうとするが、瞼が鉛のように重い。
 万年寝不足の研究生活に加え、長旅の疲れも限界だった。

 そんなエリアナを見て、ギルバートがため息をつき、ソファの隣に移動してきた。

「寝不足に加え、食後の血糖値スパイクによる眠気か。……仕方ない」

 彼はポン、と自分の太腿を叩いた。

「ここを使え」

「え?」

「膝を貸してやると言っている」

 エリアナの思考が一瞬停止した。

  膝枕? 
 いやいや、契約結婚の相手にそんな、恋人同士のような真似を?

「めっ、滅相もありません! そんな不敬なこと……、それに、食べてすぐ横になると牛になると言いますし……」

「非科学的な迷信を言うな」

 ギルバートは真顔で反論した。

「食後すぐに横になると、胃の内容物が食道へ逆流しやすくなる。いわゆる逆流性食道炎のリスクが高まる。だが、膝枕によって頭部を高く保てば、物理的に逆流を防ぎつつ、休息を取ることができる。さらに、他者の体温を感じることで副交感神経が優位になり、消化活動も促進される」

 彼は真剣な眼差しで、まるで作戦会議のように続けた。

「つまり、今の栄養失調気味のお前が、食べたものを効率よく吸収し、かつ休息を取るためには、俺の膝を使うのが最も合理的だ。……違うか?」

 エリアナは口をパクパクさせた。

 完璧な論理だ。
 ぐうの音も出ないほどにロジカルだ。

 だが、その論理が導きだす結論は膝枕である。

「……反論できません」

「ならば実行するしかあるまい」

 ギルバートの手によって、エリアナの体は驚くほど優しく引き寄せられた。
 彼女の頭が、筋肉質で温かい太腿に乗せられる。
 
「あ……」

 視界に入るのは、暖炉の炎と、上から見下ろすギルバートの整った顎のライン。

 恥ずかしさで心拍数が上がるが、添えられた彼の手のひらが大きく、温かくて、強張っていた体の力が抜けていく。

「……眼鏡、邪魔だろう」

 ギルバートの指先が触れ、エリアナの眼鏡をそっと外してサイドテーブルに置いた。

 ぼやけた視界の中で、恐ろしい北の魔王の表情が、どこか満足げに緩んでいるように見えたのは、きっと眠気のせいだろう。

「おやすみ、エリアナ」

 その言葉を聞きながら、エリアナは深い眠りへと落ちていった。
 白い結婚初日の夜は、こうして静かに更けていったのである。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

地味な私では退屈だったのでしょう? 最強聖騎士団長の溺愛妃になったので、元婚約者はどうぞお好きに

有賀冬馬
恋愛
「君と一緒にいると退屈だ」――そう言って、婚約者の伯爵令息カイル様は、私を捨てた。 選んだのは、華やかで社交的な公爵令嬢。 地味で無口な私には、誰も見向きもしない……そう思っていたのに。 失意のまま辺境へ向かった私が出会ったのは、偶然にも国中の騎士の頂点に立つ、最強の聖騎士団長でした。 「君は、僕にとってかけがえのない存在だ」 彼の優しさに触れ、私の世界は色づき始める。 そして、私は彼の正妃として王都へ……

『恋心を凍らせる薬を飲みました』 - 残りの学園生活、どうぞご自由にお遊びください、婚約者様

恋せよ恋
恋愛
愛されることを諦めた。だから、私は心を凍らせた。 不誠実な婚約者・ユリアンの冷遇に耐えかねたヤスミンは、 伝説の魔女の元を訪れ、恋心を消し去る「氷の薬」を飲む。 感情を捨て、完璧な「人形」となった彼女を前に、 ユリアンは初めて己の罪と執着に狂い始める。 「お願いだ、前のように僕を愛して泣いてくれ!」 足元に跪き、涙を流して乞う男に、ヤスミンは冷酷に微笑む。 「愛?……あいにく、そのような無駄な感情は捨てましたわ」 一度凍りついた心は、二度と溶けない。 後悔にのたうち回る男と、心を凍らせた冷徹な公爵夫人の、 終わりのない贖罪の記録。 🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。 🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。 🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。 🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。 🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

騎士団長を追放した平和ボケ王国は、七日で滅びました

藤原遊
ファンタジー
長らく戦のなかった王国で、 騎士団長の父を病で失った令嬢は、その座を引き継いだ。 だが王城に呼び出された彼女に告げられたのは、 騎士団の解体と婚約破棄。 理由はただ一つ―― 「武力を持つ者は危険だから」。 平和ボケした王子は、 非力で可愛い令嬢を侍らせ、 彼女を“国の火種”として国外追放する。 しかし王国が攻められなかった本当の理由は、 騎士団長家が持つ“戦況を覆す力”への恐れだった。 追放された令嬢は、即座に隣国帝国へ迎えられ、 軍人として正当に評価され、安泰な地位を得る。 ――そして一週間後。 守りを捨てた王国は、あっけなく陥落した。 これは、 「守る力」を理解しなかった国の末路と、 追放された騎士団長令嬢のその後の物語。

婚約破棄された人たらし悪役令嬢ですが、 最強で過保護な兄たちと義姉に溺愛されています

由香
ファンタジー
婚約破棄のその日、 悪役令嬢リリアーナは――弁明すら、しなかった。 王太子と“聖女”に断罪され、すべてを失った彼女。 だがその裏で、王国最強と名高い三人の兄と、 冷静沈着な義姉が、静かに動き始めていた。 再検証によって暴かれる“聖女の嘘”。 広場で語られる真実。 そして、無自覚に人を惹きつけてしまう リリアーナの優しさが、次々と味方を増やしていく――。 これは、 悪役令嬢として断罪された少女が、 「誰かの物語の脇役」ではなく、 自分自身の人生を取り戻す物語。 過保護すぎる兄たちと義姉に溺愛されながら、 彼女は静かに、そして確実に幸せへ向かっていく。

訳あり侯爵様に嫁いで白い結婚をした虐げられ姫が逃亡を目指した、その結果

柴野
恋愛
国王の側妃の娘として生まれた故に虐げられ続けていた王女アグネス・エル・シェブーリエ。 彼女は父に命じられ、半ば厄介払いのような形で訳あり侯爵様に嫁がされることになる。 しかしそこでも不要とされているようで、「きみを愛することはない」と言われてしまったアグネスは、ニヤリと口角を吊り上げた。 「どうせいてもいなくてもいいような存在なんですもの、さっさと逃げてしまいましょう!」 逃亡して自由の身になる――それが彼女の長年の夢だったのだ。 あらゆる手段を使って脱走を実行しようとするアグネス。だがなぜか毎度毎度侯爵様にめざとく見つかってしまい、その度失敗してしまう。 しかも日に日に彼の態度は温かみを帯びたものになっていった。 気づけば一日中彼と同じ部屋で過ごすという軟禁状態になり、溺愛という名の雁字搦めにされていて……? 虐げられ姫と女性不信な侯爵によるラブストーリー。 ※小説家になろうに重複投稿しています。

病弱令嬢…?いいえ私は…

月樹《つき》
恋愛
 アイゼンハルト公爵家の長女クララは生まれた時からずっと病弱で、一日の大半をベッドの上で過ごして来た。対するクララの婚約者で第三皇子のペーターはとても元気な少年で…寝たきりのクララの元を訪ねることもなく、学園生活を満喫していた。そんなクララも15歳となり、何とかペーターと同じ学園に通えることになったのだが…そこで明るく元気な男爵令嬢ハイジと仲睦まじくするペーター皇子の姿を見て…ショックのあまり倒れてしまった…。 (ペーターにハイジって…某アルプスの少女やんか〜い!!) 謎の言葉を頭に思い浮かべながら…。 このお話は他サイトにも投稿しております。

婚約破棄されたので公爵令嬢やめます〜私を見下した殿下と元婚約者が膝をつく頃、愛を囁くのは冷酷公爵でした〜

nacat
恋愛
婚約者に裏切られ、蔑まれ、全てを失った公爵令嬢リリアナ。 「あなたのような女、誰が愛すると?」そう言い放った王太子と元友人に嘲られても、彼女は涙を見せなかった。 だが、冷たく美しい隣国の公爵セドリックと出会った瞬間、運命は静かに動き出す。 冷酷と噂された男の腕のなかで、彼女は再び自分を取り戻していく。 そして――彼女を捨てた者たちは、彼女の眩い幸福の前に膝をつく。 「これは、ざまぁを通り越して愛された令嬢の物語。」

処理中です...