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第5話:酸味と甘い匂い
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北の辺境、ダリウス領の冬は、想像を絶する厳しさだった。
だが、最も深刻な問題は、寒さそのものではなかった。
「……また、歯茎からの出血ですか?」
城内の医務室。エリアナは、ぐったりとベッドに横たわる若い兵士の口内を覗き込み、眉をひそめた。
彼の顔色は土気色で、肌は乾燥し、古傷が開いている箇所もある。
「ああ。冬になるといつもこうなんだ」
付き添いの騎士団長が、沈痛な面持ちで首を振った。
「体がだるくなったり、血が止まらなくなったり、最悪の場合は死に至る。寒さで体力が奪われるせいだと言われているが……」
(いいえ、これは明らかな栄養障害です)
エリアナは眼鏡のブリッジを押し上げた。
典型的な壊血病の症状だ。
原因は一つ、ビタミンCの欠乏。
新鮮な野菜や果物が手に入らない冬の辺境では、必然的に保存の効く穀物や干し肉ばかりの食事になる。
それではビタミンは摂取できない。
「食料庫を見せていただけますか?」
「あ、ああ。構わないが……、見るものなんてないぞ」
案内された食料庫の裏手には、目を覆いたくなるような光景が広がっていた。
山積みにされたキャベツの残骸だ。
寒さで凍り、解凍されてぐじゅぐじゅになった外葉が、大量に廃棄されている。
「これは……、なぜ捨てているのですか?」
「見ての通り、傷んでいるからな。冬場はどうしても野菜が持たない。中身のまだマシな部分だけを食べて、あとは捨てるしかないんだ」
騎士団長は肩をすくめた。
「もったいない……! 廃棄するなんてありえません。これは兵士たちの命を救う食材ですよ!」
「このキャベツが? だが、腐敗しているのだから……」
「腐敗ではありません。環境さえ整えれば、これは最高の保存食に生まれ変わります」
その日の午後、エリアナは厨房の一角を占拠し、集められるだけのキャベツと大量の塩を用意させた。
使用人たちが不安そうに見守る中、エリアナは腕まくりをしてキャベツを千切りにしていく。
「いいですか、皆さん。野菜が腐るのは、腐敗菌が繁殖するからです。ですが、腐敗菌は塩と酸に弱いのです」
エリアナは千切りキャベツに、重量の二パーセントにあたる塩を振りかけた。
「塩を揉み込むことで、浸透圧により野菜から水分が出ます。そしてここからが重要です」
彼女は樽の中にキャベツを詰め込み、自分の体重をかけてギウギウと押し込んだ。
「空気を徹底的に抜きます。空気を遮断し、塩分濃度を保つことで、腐敗菌を抑え込みながら乳酸菌だけを優位に繁殖させます……。これぞ、植物性乳酸菌による発酵の陣取り合戦です!」
「陣取り……、合戦……?」
料理長がポカンとしているが、エリアナはお構いなしだ。
「この状態で重石をして数週間。乳酸菌が糖を分解して乳酸を作り出し、その酸味がさらに雑菌の繁殖を防ぎます。ビタミンCも損なわれず、腸内環境も改善されます」
そして数週間後。
ダリウス城の食堂には、独特の酸っぱい香りが漂っていた。
兵士たちの皿には、ソーセージの付け合わせとして、黄色味を帯びたキャベツの漬物が盛られている。
「……酸っぱい!」
一口食べた兵士が顔をしかめた。
だが、次の瞬間にはもう一口、口に運んでいた。
「でも、なんだこれ? うまいぞ」
「脂っこい肉料理に合うな。口の中がさっぱりする」
ギルバートもまた、フォークでザワークラウトを口に運び、深く頷いた。
「なるほど……。酸味によって唾液の分泌が促され、消化吸収が高まる感覚がある。それに、この独特の旨味……、単なる塩漬けとは違うな」
「はい。発酵によってアミノ酸が増えていますから」
エリアナは満足げに微笑んだ。
兵士たちの歯茎の出血は劇的に改善し、倦怠感を訴える者も減った。
捨てられていた廃棄野菜が、領民の健康を守る特効薬へと変わったのだ。
「エリアナ」
夕食後、バルコニーで雪景色を眺めていたエリアナの背後から、ギルバートが声をかけた。
振り返ると、彼はいつになく真剣な表情で近づいてくる。
「お前は、本当に魔法使いのようだ」
「いえ、ただの微生物の管理人です」
「謙遜するな。お前のおかげで、兵たちの顔色が良くなった。……俺一人では、彼らを守りきれなかった」
ギルバートは不器用な手つきで、エリアナの肩に触れた。
その距離が、以前よりも近い。
(心拍数が上昇……。これは、寒さによる血管収縮のせいでしょうか?)
ギルバートがゆっくりと顔を近づけてくる。
その鋭い金色の瞳が、熱を帯びてエリアナを見つめていた。
彼はそっと顔を寄せ、エリアナの首筋あたりに鼻を埋めた。
「……ん」
「へっ!?」
「……お前から、何か甘い匂いがする」
低い囁き声。
普通なら、ここでロマンチックな雰囲気に酔いしれる場面だ。
だが、エリアナの脳裏をよぎったのは、ときめきではなく焦りだった。
「甘い匂い……!?」
エリアナはバッと身を引いて、慌てて自分の服の袖を嗅いだ。
「しまっ……! さっき、酵母の培養液を作る時に糖蜜をこぼしたのが残っていました!」
「は?」
「大変です、閣下! 糖分が残っていると、アリやダニが寄ってきます! 特にこの城は古いですから、木材を食い荒らす害虫を誘引してしまう恐れが……!」
エリアナは顔面蒼白で叫んだ。
「すぐに着替えて洗濯してきます! 酵素系漂白剤で徹底的に分解しないと!」
脱兎のごとく部屋へ駆け込んでいくエリアナ。
バルコニーに残されたのは、甘いムードを害虫対策という現実的な問題で粉砕された、哀れな辺境伯ただ一人だった。
だがその口元はわずかに緩んで、どこか楽しげでもあった。
だが、最も深刻な問題は、寒さそのものではなかった。
「……また、歯茎からの出血ですか?」
城内の医務室。エリアナは、ぐったりとベッドに横たわる若い兵士の口内を覗き込み、眉をひそめた。
彼の顔色は土気色で、肌は乾燥し、古傷が開いている箇所もある。
「ああ。冬になるといつもこうなんだ」
付き添いの騎士団長が、沈痛な面持ちで首を振った。
「体がだるくなったり、血が止まらなくなったり、最悪の場合は死に至る。寒さで体力が奪われるせいだと言われているが……」
(いいえ、これは明らかな栄養障害です)
エリアナは眼鏡のブリッジを押し上げた。
典型的な壊血病の症状だ。
原因は一つ、ビタミンCの欠乏。
新鮮な野菜や果物が手に入らない冬の辺境では、必然的に保存の効く穀物や干し肉ばかりの食事になる。
それではビタミンは摂取できない。
「食料庫を見せていただけますか?」
「あ、ああ。構わないが……、見るものなんてないぞ」
案内された食料庫の裏手には、目を覆いたくなるような光景が広がっていた。
山積みにされたキャベツの残骸だ。
寒さで凍り、解凍されてぐじゅぐじゅになった外葉が、大量に廃棄されている。
「これは……、なぜ捨てているのですか?」
「見ての通り、傷んでいるからな。冬場はどうしても野菜が持たない。中身のまだマシな部分だけを食べて、あとは捨てるしかないんだ」
騎士団長は肩をすくめた。
「もったいない……! 廃棄するなんてありえません。これは兵士たちの命を救う食材ですよ!」
「このキャベツが? だが、腐敗しているのだから……」
「腐敗ではありません。環境さえ整えれば、これは最高の保存食に生まれ変わります」
その日の午後、エリアナは厨房の一角を占拠し、集められるだけのキャベツと大量の塩を用意させた。
使用人たちが不安そうに見守る中、エリアナは腕まくりをしてキャベツを千切りにしていく。
「いいですか、皆さん。野菜が腐るのは、腐敗菌が繁殖するからです。ですが、腐敗菌は塩と酸に弱いのです」
エリアナは千切りキャベツに、重量の二パーセントにあたる塩を振りかけた。
「塩を揉み込むことで、浸透圧により野菜から水分が出ます。そしてここからが重要です」
彼女は樽の中にキャベツを詰め込み、自分の体重をかけてギウギウと押し込んだ。
「空気を徹底的に抜きます。空気を遮断し、塩分濃度を保つことで、腐敗菌を抑え込みながら乳酸菌だけを優位に繁殖させます……。これぞ、植物性乳酸菌による発酵の陣取り合戦です!」
「陣取り……、合戦……?」
料理長がポカンとしているが、エリアナはお構いなしだ。
「この状態で重石をして数週間。乳酸菌が糖を分解して乳酸を作り出し、その酸味がさらに雑菌の繁殖を防ぎます。ビタミンCも損なわれず、腸内環境も改善されます」
そして数週間後。
ダリウス城の食堂には、独特の酸っぱい香りが漂っていた。
兵士たちの皿には、ソーセージの付け合わせとして、黄色味を帯びたキャベツの漬物が盛られている。
「……酸っぱい!」
一口食べた兵士が顔をしかめた。
だが、次の瞬間にはもう一口、口に運んでいた。
「でも、なんだこれ? うまいぞ」
「脂っこい肉料理に合うな。口の中がさっぱりする」
ギルバートもまた、フォークでザワークラウトを口に運び、深く頷いた。
「なるほど……。酸味によって唾液の分泌が促され、消化吸収が高まる感覚がある。それに、この独特の旨味……、単なる塩漬けとは違うな」
「はい。発酵によってアミノ酸が増えていますから」
エリアナは満足げに微笑んだ。
兵士たちの歯茎の出血は劇的に改善し、倦怠感を訴える者も減った。
捨てられていた廃棄野菜が、領民の健康を守る特効薬へと変わったのだ。
「エリアナ」
夕食後、バルコニーで雪景色を眺めていたエリアナの背後から、ギルバートが声をかけた。
振り返ると、彼はいつになく真剣な表情で近づいてくる。
「お前は、本当に魔法使いのようだ」
「いえ、ただの微生物の管理人です」
「謙遜するな。お前のおかげで、兵たちの顔色が良くなった。……俺一人では、彼らを守りきれなかった」
ギルバートは不器用な手つきで、エリアナの肩に触れた。
その距離が、以前よりも近い。
(心拍数が上昇……。これは、寒さによる血管収縮のせいでしょうか?)
ギルバートがゆっくりと顔を近づけてくる。
その鋭い金色の瞳が、熱を帯びてエリアナを見つめていた。
彼はそっと顔を寄せ、エリアナの首筋あたりに鼻を埋めた。
「……ん」
「へっ!?」
「……お前から、何か甘い匂いがする」
低い囁き声。
普通なら、ここでロマンチックな雰囲気に酔いしれる場面だ。
だが、エリアナの脳裏をよぎったのは、ときめきではなく焦りだった。
「甘い匂い……!?」
エリアナはバッと身を引いて、慌てて自分の服の袖を嗅いだ。
「しまっ……! さっき、酵母の培養液を作る時に糖蜜をこぼしたのが残っていました!」
「は?」
「大変です、閣下! 糖分が残っていると、アリやダニが寄ってきます! 特にこの城は古いですから、木材を食い荒らす害虫を誘引してしまう恐れが……!」
エリアナは顔面蒼白で叫んだ。
「すぐに着替えて洗濯してきます! 酵素系漂白剤で徹底的に分解しないと!」
脱兎のごとく部屋へ駆け込んでいくエリアナ。
バルコニーに残されたのは、甘いムードを害虫対策という現実的な問題で粉砕された、哀れな辺境伯ただ一人だった。
だがその口元はわずかに緩んで、どこか楽しげでもあった。
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