18 / 66
第一章
18 黎妃ーー届かぬ祈り
しおりを挟む
その夜――。
燭台の炎が、深紅の帳を重くゆらめかせる――覇皇帝の閨。
幾つも焚かれた香は折り重なって白濁し、濃く漂う。
覇帝は七十を越えてなお、戦場で鍛え上げられた体躯に、黒々とした髪と髭を誇っていた。
その覇帝に限界まで攻め尽くされ、黎貴妃はぐったりと身を伏せている。
と、
「そう言えばこの間、蒼龍のヤツが珍しく儂に頼み事をしてきおった」
隣の覇帝が、さも可笑しそうに話しかけてくる。
一瞬、黎妃の瞳がかすかに揺れたが、すぐに目を伏せて素っ気なく答えた。
「そうですか」
「なんとまあ薄情な。だがな、これはお前にも関係があることなのだぞ」
「私に?」
笑っているつもりなのか、皇帝は幾分目を細め口元を歪ませた。
「そうよ。お前と違えて抱いた姫を、いたく気に入ったから寄越せと申した」
「へえ……」
気のない返事。
皇帝は、表情の読めないその顔を覗き込んだ。
「さて、黎妃よどうする? 悔しかろう、何でも相手は十六の小娘らしいぞ。違えられるなど、お前にはこの上ない屈辱ではないか」
その声音には、黎妃を試すような色が混じっている。
それでもなお、無言でいると、皇帝はさらに過激な言葉を吐いた。
「蒼龍の前で――女を八つ裂きにでもしてやるか?」
ああ、またそのような。
黎妃は美しい眉をしかめると、静かに息を吐いた。
「……差し上げれば、よろしいではありませんか」
「ほう、よいのか。お前を想って、閨にまで忍んできた者をだぞ?」
「私が愛しているのは陛下だけでございます」
そう言って、皇帝のはだけた胸に身体を添わせると、彼は満足そうに髭を揺らした。
「クックッ……我が子ながら、蒼龍も哀れなものよの」
「……」
*
さて、草木の間の虫たちも寝静まった深夜――。
覇帝の鼾が閨に響きはじめると、黎妃は半身を起こして、隣で眠る姿を見つめた。その瞳には、もはやなんの感情も宿っていない。
(鼾の音が、また一段と大きくなられた)
老齢ゆえ、どこか身体を悪くしているのかもしれない。
三年前、蒼大哥から突然引き離され、この宮に連れてこられた。
最初の頃は、長くたくわえられたあの髭も、乱暴に抱かれることも、嫌でたまらなかった。
毎日部屋に籠って泣いていたら、お付きの宦官にさり気なく諭された。
『貴女の嘆きは、蒼太子の反逆の意志ととられますよ』と。
覇帝様は恐ろしい方だ。少しでも私が拒絶を示せば、たった一人の嫡子にさえ容赦はしないのだ、と。
以来自分は、死ぬ事さえも叶わずに、この帷の中に囚われたまま生きている。
さきほどはああ言ったが、黎妃の頭の中に、覇帝の言葉が蘇る。
『蒼龍が、違えて抱いた姫を寄越せと申しておる』
蒼大哥。
惨たらしく焼かれた街の中から、私を救い出してくれた、ただ一人のひと。
衣と食と、この国での居場所をくれて、さらに言葉や字まで教えてくれた。それだけでも私には十分だったのに……。
それ以上の愛の意味さえ教えてくれた。
そして今なお、私を救い出そうとしてくださる。
けれど、もういい。
このおぞましい愛の檻に身を沈め、死ぬことさえ許されない私が、蒼大哥のために出来ることは、ほとんどない。
『八つ裂きにでもしてやるか?』
その姫が妬ましくないと言えば嘘になる。
貴方の胸の中に、汚れのない清らかな姫がいることを思えば、身が焼けるように熱くなる。
けれど。
その乙女が貴方を癒し、貴方に私を忘れさせてくださるならば、私はもうそれでいい。
覇帝様は、猜疑心の塊。今でも閨の四隅では、息を潜めた兵士たちが私を見張っていて、一挙一動を監視している。
だから私にはもう、蒼大哥の名を口に出すことも叶わない。
だが、これくらいは赦されよう。
黎妃は眠る夫の上に、そっと指で文字を描いた。まだ少女だった頃、初めて覚えたその文字を。
蒼大哥。
出来ることなら、どうか貴方に幸せを。
世にも美しき傾城の、
翡翠の瞳から、抗えずに零れ落ちる、一粒の涙。
その悲痛な祈りは、
愛しい男には届かない――。
燭台の炎が、深紅の帳を重くゆらめかせる――覇皇帝の閨。
幾つも焚かれた香は折り重なって白濁し、濃く漂う。
覇帝は七十を越えてなお、戦場で鍛え上げられた体躯に、黒々とした髪と髭を誇っていた。
その覇帝に限界まで攻め尽くされ、黎貴妃はぐったりと身を伏せている。
と、
「そう言えばこの間、蒼龍のヤツが珍しく儂に頼み事をしてきおった」
隣の覇帝が、さも可笑しそうに話しかけてくる。
一瞬、黎妃の瞳がかすかに揺れたが、すぐに目を伏せて素っ気なく答えた。
「そうですか」
「なんとまあ薄情な。だがな、これはお前にも関係があることなのだぞ」
「私に?」
笑っているつもりなのか、皇帝は幾分目を細め口元を歪ませた。
「そうよ。お前と違えて抱いた姫を、いたく気に入ったから寄越せと申した」
「へえ……」
気のない返事。
皇帝は、表情の読めないその顔を覗き込んだ。
「さて、黎妃よどうする? 悔しかろう、何でも相手は十六の小娘らしいぞ。違えられるなど、お前にはこの上ない屈辱ではないか」
その声音には、黎妃を試すような色が混じっている。
それでもなお、無言でいると、皇帝はさらに過激な言葉を吐いた。
「蒼龍の前で――女を八つ裂きにでもしてやるか?」
ああ、またそのような。
黎妃は美しい眉をしかめると、静かに息を吐いた。
「……差し上げれば、よろしいではありませんか」
「ほう、よいのか。お前を想って、閨にまで忍んできた者をだぞ?」
「私が愛しているのは陛下だけでございます」
そう言って、皇帝のはだけた胸に身体を添わせると、彼は満足そうに髭を揺らした。
「クックッ……我が子ながら、蒼龍も哀れなものよの」
「……」
*
さて、草木の間の虫たちも寝静まった深夜――。
覇帝の鼾が閨に響きはじめると、黎妃は半身を起こして、隣で眠る姿を見つめた。その瞳には、もはやなんの感情も宿っていない。
(鼾の音が、また一段と大きくなられた)
老齢ゆえ、どこか身体を悪くしているのかもしれない。
三年前、蒼大哥から突然引き離され、この宮に連れてこられた。
最初の頃は、長くたくわえられたあの髭も、乱暴に抱かれることも、嫌でたまらなかった。
毎日部屋に籠って泣いていたら、お付きの宦官にさり気なく諭された。
『貴女の嘆きは、蒼太子の反逆の意志ととられますよ』と。
覇帝様は恐ろしい方だ。少しでも私が拒絶を示せば、たった一人の嫡子にさえ容赦はしないのだ、と。
以来自分は、死ぬ事さえも叶わずに、この帷の中に囚われたまま生きている。
さきほどはああ言ったが、黎妃の頭の中に、覇帝の言葉が蘇る。
『蒼龍が、違えて抱いた姫を寄越せと申しておる』
蒼大哥。
惨たらしく焼かれた街の中から、私を救い出してくれた、ただ一人のひと。
衣と食と、この国での居場所をくれて、さらに言葉や字まで教えてくれた。それだけでも私には十分だったのに……。
それ以上の愛の意味さえ教えてくれた。
そして今なお、私を救い出そうとしてくださる。
けれど、もういい。
このおぞましい愛の檻に身を沈め、死ぬことさえ許されない私が、蒼大哥のために出来ることは、ほとんどない。
『八つ裂きにでもしてやるか?』
その姫が妬ましくないと言えば嘘になる。
貴方の胸の中に、汚れのない清らかな姫がいることを思えば、身が焼けるように熱くなる。
けれど。
その乙女が貴方を癒し、貴方に私を忘れさせてくださるならば、私はもうそれでいい。
覇帝様は、猜疑心の塊。今でも閨の四隅では、息を潜めた兵士たちが私を見張っていて、一挙一動を監視している。
だから私にはもう、蒼大哥の名を口に出すことも叶わない。
だが、これくらいは赦されよう。
黎妃は眠る夫の上に、そっと指で文字を描いた。まだ少女だった頃、初めて覚えたその文字を。
蒼大哥。
出来ることなら、どうか貴方に幸せを。
世にも美しき傾城の、
翡翠の瞳から、抗えずに零れ落ちる、一粒の涙。
その悲痛な祈りは、
愛しい男には届かない――。
1
あなたにおすすめの小説
大正浪漫? 夫婦契約致しました ~暗闇の中、契約夫と密やかにはぐくむ愛~
佳乃こはる
キャラ文芸
老舗製糸屋・両口屋家のひとり娘、陽毬(17)は、父の事業失敗の責任を負う形で、成金の物産商・権藤家へ嫁いだ。
それは恋ではなく、家を救うための契約の婚姻。
しかも、夫となる権藤宿禰(26)は病のため人前に出られず、屋敷の地下で暗闇に閉ざされて暮らしているという。
不安と恐れを胸に、初めて対面した夜。
陽毬が出会ったのは、噂とはまるで違う、知的で誰より暖かい心を持つ夫だった。
契約から始まった夫婦は、言葉を交わし、寄り添い、少しずつ心を育んでいく。
これは、温かな闇の中で選び合う、切なくも、けなげな愛の物語。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
皇帝は虐げられた身代わり妃の瞳に溺れる
えくれあ
恋愛
丞相の娘として生まれながら、蔡 重華は生まれ持った髪の色によりそれを認められず使用人のような扱いを受けて育った。
一方、母違いの妹である蔡 鈴麗は父親の愛情を一身に受け、何不自由なく育った。そんな鈴麗は、破格の待遇での皇帝への輿入れが決まる。
しかし、わがまま放題で育った鈴麗は輿入れ当日、後先を考えることなく逃げ出してしまった。困った父は、こんな時だけ重華を娘扱いし、鈴麗が見つかるまで身代わりを務めるように命じる。
皇帝である李 晧月は、後宮の妃嬪たちに全く興味を示さないことで有名だ。きっと重華にも興味は示さず、身代わりだと気づかれることなくやり過ごせると思っていたのだが……
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました
桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。
言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。
しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。
──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
毎日19時に更新予定です。
冷たい王妃の生活
柴田はつみ
恋愛
大国セイラン王国と公爵領ファルネーゼ家の同盟のため、21歳の令嬢リディアは冷徹と噂される若き国王アレクシスと政略結婚する。
三年間、王妃として宮廷に仕えるも、愛されている実感は一度もなかった。
王の傍らには、いつも美貌の女魔導師ミレーネの姿があり、宮廷中では「王の愛妾」と囁かれていた。
孤独と誤解に耐え切れなくなったリディアは、ついに離縁を願い出る。
「わかった」――王は一言だけ告げ、三年の婚姻生活はあっけなく幕を閉じた。
自由の身となったリディアは、旅先で騎士や魔導師と交流し、少しずつ自分の世界を広げていくが、心の奥底で忘れられないのは初恋の相手であるアレクシス。
やがて王都で再会した二人は、宮廷の陰謀と誤解に再び翻弄される。
嫉妬、すれ違い、噂――三年越しの愛は果たして誓いとなるのか。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる