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第二章 華燭
30 日常
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さて、退屈な授業はそれからも続いている……。
「陽気は極力皇帝の御体に溜め、循環させ極限まで練り上げて放つのがよい。その為に妃は、日々その技を研鑽し……」
(陰だの陽だの、わけわかんない)
小蘭は、滔々と流れるお経のような声を早々に頭から追いやると、昨夜のあの、どうにも胸に引っかかる出来事に思いを巡らせていた。
実は、さっき尚真が言ったことは、紛れもない事実。
確かに小蘭は、昨夜、一晩を蒼龍と過ごしていた。
あろうことか、彼女の房で。
それなのに、心は暖かくも冷たくもなく、名前の分からない不安だけが行き場なくさまよっている。
蒼龍は、伝統と慣習でガチガチに固められた夏国後宮において、かなり型破りな行動をとっていた。
蒼龍の予告どおり、小蘭は彼の第一側妃になった。
正妃であれ側妃であれ、後宮に妃を持った皇太子は、通常、夜を妃と過ごすための『閨房』を持つ。だが彼はそれをせず、ただ小蘭の房室にやってきた。
『高貴な御方のすることではありません。どうかお止めください』
宦官たちに散々泣きつかれても、皇后様に諫められても彼はそれを止めない。
(どうしてそこまでして、私の部屋に来たいかなあ)
それほどまでに頑なな蒼龍を、小蘭は不思議に感じたものだ。
太子の妃となった小蘭は、その際に今の房──『北の離宮』と呼ばれている館の一室に引っ越した。
周りには、故郷の北国のような一面の花畑が広がり、夜になると虫の声が美しく響く、がらんとした広い部屋。
ここには将来、蒼龍太子の複数の妃を置くことが想定されている。
蒼龍はそろそろ二十五歳──皇族の男ならば、とっくに正妃を娶っている年齢。
これもまた、彼が周りから口を酸っぱくして言われていることだが、当然のように耳を貸さない。
彼のこうした行いを、世間では『寵愛』と呼んでいて、小蘭をさらに困惑させる。
そんな訳で小蘭と婆やは、誰もいないだだっ広い屋敷の一室に、もう三年も二人きりで住んでいるのだが……そこに夜になると、ひょっこり蒼龍が現れる。
初めて彼が来たときも、何の先触れもなく現れて、最初にそれを見つけたのは、婆やだった。
*
三年前──
その夜の事を思い出すたび、小蘭の胸のざわめきは、いつも少しだけ強くなる。
お月様の姿を見ようと、婆やが西の窓をがらりと開けた。
次の瞬間、窓枠の向こうに蒼龍の顔があった。
「お、おお、皇太子……様?」
あんぐり口を開けた婆やの横をすり抜け、彼は軽やかに中に入ってきた。
「やあ、久しぶり。新しい住まいの心地はどうだ。ああ、かなり部屋らしくなったな。金子は足りているか?」
「も、もも勿論でございます」
蒼龍がいきなり窓から現れるのは、小蘭にとって二度目のことだが、初めての婆やはすっかり腰を抜かしてしまった。
蒼龍はにっこり微笑むと、腰を抜かした婆やに手を差し出した。
その指先には、武闘会で剣を奮った時とはまるで別人のような優雅さがある。
「驚かせて済まないな、大事は無いか」
「ははは、はい、あの……皇子様は何故、かような場所に?」
年甲斐もなく真っ赤になっている婆やに、彼は悠然と微笑んだ。
「袁婆爺。すまないが政務が長引いて、空腹なんだ。簡単なものでいいから、何か食わせてもらえまいか」
「は、はい! 直ちに」
婆やは、転がるようにして厨房へ走っていった。
その後ろ姿を見送りながら、小蘭は、期待なのか不安なのか、説明のつかない胸のざわめきを感じるのだった。
「陽気は極力皇帝の御体に溜め、循環させ極限まで練り上げて放つのがよい。その為に妃は、日々その技を研鑽し……」
(陰だの陽だの、わけわかんない)
小蘭は、滔々と流れるお経のような声を早々に頭から追いやると、昨夜のあの、どうにも胸に引っかかる出来事に思いを巡らせていた。
実は、さっき尚真が言ったことは、紛れもない事実。
確かに小蘭は、昨夜、一晩を蒼龍と過ごしていた。
あろうことか、彼女の房で。
それなのに、心は暖かくも冷たくもなく、名前の分からない不安だけが行き場なくさまよっている。
蒼龍は、伝統と慣習でガチガチに固められた夏国後宮において、かなり型破りな行動をとっていた。
蒼龍の予告どおり、小蘭は彼の第一側妃になった。
正妃であれ側妃であれ、後宮に妃を持った皇太子は、通常、夜を妃と過ごすための『閨房』を持つ。だが彼はそれをせず、ただ小蘭の房室にやってきた。
『高貴な御方のすることではありません。どうかお止めください』
宦官たちに散々泣きつかれても、皇后様に諫められても彼はそれを止めない。
(どうしてそこまでして、私の部屋に来たいかなあ)
それほどまでに頑なな蒼龍を、小蘭は不思議に感じたものだ。
太子の妃となった小蘭は、その際に今の房──『北の離宮』と呼ばれている館の一室に引っ越した。
周りには、故郷の北国のような一面の花畑が広がり、夜になると虫の声が美しく響く、がらんとした広い部屋。
ここには将来、蒼龍太子の複数の妃を置くことが想定されている。
蒼龍はそろそろ二十五歳──皇族の男ならば、とっくに正妃を娶っている年齢。
これもまた、彼が周りから口を酸っぱくして言われていることだが、当然のように耳を貸さない。
彼のこうした行いを、世間では『寵愛』と呼んでいて、小蘭をさらに困惑させる。
そんな訳で小蘭と婆やは、誰もいないだだっ広い屋敷の一室に、もう三年も二人きりで住んでいるのだが……そこに夜になると、ひょっこり蒼龍が現れる。
初めて彼が来たときも、何の先触れもなく現れて、最初にそれを見つけたのは、婆やだった。
*
三年前──
その夜の事を思い出すたび、小蘭の胸のざわめきは、いつも少しだけ強くなる。
お月様の姿を見ようと、婆やが西の窓をがらりと開けた。
次の瞬間、窓枠の向こうに蒼龍の顔があった。
「お、おお、皇太子……様?」
あんぐり口を開けた婆やの横をすり抜け、彼は軽やかに中に入ってきた。
「やあ、久しぶり。新しい住まいの心地はどうだ。ああ、かなり部屋らしくなったな。金子は足りているか?」
「も、もも勿論でございます」
蒼龍がいきなり窓から現れるのは、小蘭にとって二度目のことだが、初めての婆やはすっかり腰を抜かしてしまった。
蒼龍はにっこり微笑むと、腰を抜かした婆やに手を差し出した。
その指先には、武闘会で剣を奮った時とはまるで別人のような優雅さがある。
「驚かせて済まないな、大事は無いか」
「ははは、はい、あの……皇子様は何故、かような場所に?」
年甲斐もなく真っ赤になっている婆やに、彼は悠然と微笑んだ。
「袁婆爺。すまないが政務が長引いて、空腹なんだ。簡単なものでいいから、何か食わせてもらえまいか」
「は、はい! 直ちに」
婆やは、転がるようにして厨房へ走っていった。
その後ろ姿を見送りながら、小蘭は、期待なのか不安なのか、説明のつかない胸のざわめきを感じるのだった。
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