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第二章 華燭
29 偽りの寵姫
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『小蘭妃、心から愛している――』
『蒼龍……太子』
彼が私を抱き上げる。
逞しい腕が、私の全てを包み込み、熱い指先が、私の肌をしっとりと溶かしてゆく……。
でも、それは夢の中でだけ。
現実のあなたは、一度だって私に触れない。手を伸ばせば、すぐそばにいる――なのに、決して越えてはこないの。
*
夢から覚めると、いつも胸の奥が少しだけ痛んだ。
今日も、相変わらずの現実の中。
小蘭は、後宮の中庭で〝房中術〟の講義を聞かされていた。
「エー、よいかな? 陰と陽はそもそも一対。ふたつが交わり合い、和することで初めて完全体となる――」
広い後宮の中庭には、うら若き娘達が大勢集まり、頬を紅潮させながら熱心に講義を聞いていた。題材が題材だけに、場は一種異様な熱を帯びている。
「皇帝は陽、そなたらは陰。陽の精気は陰に流れ、陰と陽が一つになって森羅万象、すなわち完全体である御子を成し」
(うーん、ちっとも分からない)
こんな授業、理解してる娘なんて本当にいるのかしら。
とことんやる気のない小蘭は、講師が見ていないのをいいことに、中央からは少し離れた柳の影に隠れて、うつらうつらしていた。
例の御前試合――蒼龍皇子が、檻に囚われた小蘭のために国の英雄と讃えられた、老将・樊将軍を撃ち破り、見事彼女を助け出した――あれから三年。
十六歳だった小蘭は、十九歳になった。
あの出来事は、前代未聞の出来事として城内外に大きく喧伝された。尾ひれ葉ひれに尻尾までついた二人の愛の物語は、今や国中の乙女の憧れだ。
小蘭は、若き皇太子の寵愛を一身に受ける幸せな存在として、世の人々に知られていた。
(……でも誰にも言えない)
三年間も一緒にいて、本当は何もなかったなんて。
それを口にした瞬間、妃としての私が壊れてしまいそうで。
蒼龍は一体、私の事をどう思ってるんだろう。
にしたって、退屈だ。
小春日和の冬の日差しの中、小蘭は講師の目を気にするでもなく、大欠伸をかました。
と、同じくやる気のない妃、さっきからとなりで爪を美しく磨くのに躍起になっていた碧衣がそれを見咎め、キッと瞳を鋭くした。
「何よ、眠たくて仕方ないって事?」
「え、何よ突然」
「とぼけんじゃないの、原因は太子様でしょ。蒼龍太子」
碧衣が切れ長の眼をすうっと細めた。背の高い影が伸びてきて、小蘭はギクリと背筋を伸ばす。
たおやかな妃、というよりは、背が高くて浅黒く、まるで京劇に登場する剣士様のような、男まさりの姐姐。
後宮の女官たちは皆、南国生まれの彼女のファンだ。
本人は決して語らないが、評判が評判を呼んでとうとうあの覇皇帝のお手が付いたとか、つかないとか。
「別に普通よ、何にもないってば――何も」
「嘘をおっしゃい。もったいぶらずに語りなさいよ。こんな意味分かんない講義じゃない、本物を、さ」
「そうよ、私も女官たちから聞いたわ。昨夜も『お成り』だったんでしょ? 早朝に部屋から出てきたのを見たってさ。ズルイわ姐姐、自分ばっかり」
丸い頬を揺らしながら、すかさず話に割って入ったのは、最近後宮入りしたばかりの妃、 尚真。
ぽっちゃりした愛敬顔が魅力の十六歳で、歳の近い小蘭のおしりにいつもくっ付いて来る。
少し怖がりで、おっとりした性格に似合わず、皇帝の子を産み、貧しい故郷を救おうなんて密かに目論む野心家でもある。
「小蘭」
「姐姐」
柳の枝が風に揺れ、三人の影が重なった。
迫り寄る二人に、たまらず小蘭は喚き出す。
「もー、本当に、何もないってば!」
その大声にギョッとして、授業を受けていた妃たちが一斉に振り向いた。
その真ん中で、講師の宦官が厳しい顔で睨みつける。
「小蘭妃、後で教務室へ」
「……はい」
(もう最悪! 何でいつも私ばっかり)
三人は慌てて会話を中断し、コソコソと円の端っこに加わった。
『蒼龍……太子』
彼が私を抱き上げる。
逞しい腕が、私の全てを包み込み、熱い指先が、私の肌をしっとりと溶かしてゆく……。
でも、それは夢の中でだけ。
現実のあなたは、一度だって私に触れない。手を伸ばせば、すぐそばにいる――なのに、決して越えてはこないの。
*
夢から覚めると、いつも胸の奥が少しだけ痛んだ。
今日も、相変わらずの現実の中。
小蘭は、後宮の中庭で〝房中術〟の講義を聞かされていた。
「エー、よいかな? 陰と陽はそもそも一対。ふたつが交わり合い、和することで初めて完全体となる――」
広い後宮の中庭には、うら若き娘達が大勢集まり、頬を紅潮させながら熱心に講義を聞いていた。題材が題材だけに、場は一種異様な熱を帯びている。
「皇帝は陽、そなたらは陰。陽の精気は陰に流れ、陰と陽が一つになって森羅万象、すなわち完全体である御子を成し」
(うーん、ちっとも分からない)
こんな授業、理解してる娘なんて本当にいるのかしら。
とことんやる気のない小蘭は、講師が見ていないのをいいことに、中央からは少し離れた柳の影に隠れて、うつらうつらしていた。
例の御前試合――蒼龍皇子が、檻に囚われた小蘭のために国の英雄と讃えられた、老将・樊将軍を撃ち破り、見事彼女を助け出した――あれから三年。
十六歳だった小蘭は、十九歳になった。
あの出来事は、前代未聞の出来事として城内外に大きく喧伝された。尾ひれ葉ひれに尻尾までついた二人の愛の物語は、今や国中の乙女の憧れだ。
小蘭は、若き皇太子の寵愛を一身に受ける幸せな存在として、世の人々に知られていた。
(……でも誰にも言えない)
三年間も一緒にいて、本当は何もなかったなんて。
それを口にした瞬間、妃としての私が壊れてしまいそうで。
蒼龍は一体、私の事をどう思ってるんだろう。
にしたって、退屈だ。
小春日和の冬の日差しの中、小蘭は講師の目を気にするでもなく、大欠伸をかました。
と、同じくやる気のない妃、さっきからとなりで爪を美しく磨くのに躍起になっていた碧衣がそれを見咎め、キッと瞳を鋭くした。
「何よ、眠たくて仕方ないって事?」
「え、何よ突然」
「とぼけんじゃないの、原因は太子様でしょ。蒼龍太子」
碧衣が切れ長の眼をすうっと細めた。背の高い影が伸びてきて、小蘭はギクリと背筋を伸ばす。
たおやかな妃、というよりは、背が高くて浅黒く、まるで京劇に登場する剣士様のような、男まさりの姐姐。
後宮の女官たちは皆、南国生まれの彼女のファンだ。
本人は決して語らないが、評判が評判を呼んでとうとうあの覇皇帝のお手が付いたとか、つかないとか。
「別に普通よ、何にもないってば――何も」
「嘘をおっしゃい。もったいぶらずに語りなさいよ。こんな意味分かんない講義じゃない、本物を、さ」
「そうよ、私も女官たちから聞いたわ。昨夜も『お成り』だったんでしょ? 早朝に部屋から出てきたのを見たってさ。ズルイわ姐姐、自分ばっかり」
丸い頬を揺らしながら、すかさず話に割って入ったのは、最近後宮入りしたばかりの妃、 尚真。
ぽっちゃりした愛敬顔が魅力の十六歳で、歳の近い小蘭のおしりにいつもくっ付いて来る。
少し怖がりで、おっとりした性格に似合わず、皇帝の子を産み、貧しい故郷を救おうなんて密かに目論む野心家でもある。
「小蘭」
「姐姐」
柳の枝が風に揺れ、三人の影が重なった。
迫り寄る二人に、たまらず小蘭は喚き出す。
「もー、本当に、何もないってば!」
その大声にギョッとして、授業を受けていた妃たちが一斉に振り向いた。
その真ん中で、講師の宦官が厳しい顔で睨みつける。
「小蘭妃、後で教務室へ」
「……はい」
(もう最悪! 何でいつも私ばっかり)
三人は慌てて会話を中断し、コソコソと円の端っこに加わった。
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