泡にはならない/泡にはさせない

文字の大きさ
17 / 20

第17話 「よかった……」

しおりを挟む
「お疲れ」
「お疲れ様です」
 練習が終わり、夏樹と千歳はいつものように駅に向かって歩いていた。先日の激しい口論が嘘のように、千歳は穏やかだった。あの時の激情は影もなく、ただいつもの日常がそこにあった。

「それでさ、あの講義の後に、また教授が……」
 夏樹が笑いながら話し、千歳がいつも通り聞き役に徹している。話題は他愛のない物で、特に深い意味もない。それでもこの様に話していると、自然と気持ちが軽くなる。
 しかし、夏樹は、この場で奏との話の後に考えた思い付きを実行するつもりでいた。

「千歳」
 そして、橋に差し掛かった時、夏樹は唐突に口を開いた。
「何か?」
 急に立ち止まり、真剣な表情で口を開いた夏樹に、千歳も足を止めた。
「これ持っててくれ」
 夏樹が渡したのは、夏樹がいつも背負っているリュックだった。千歳はわけもわからないまま、押し付けられる様にリュックを受け取った。
「これは……?」
「橋を渡って、先に向こう岸で待ってて欲しいんだ」
 疑問を口にする千歳に、夏樹は続けて言った。
「はあ?どうして、そんなこと……」
「お願い。どうしても、必要なことなんだ…!」
 千歳が戸惑う中、夏樹は真剣な眼差しで見つめ続ける。
「……わかりました」
 夏樹の必死な様子に、千歳は諦めたように溜め息を吐いた。この分だと、夏樹は言っても聞かないだろうと判断したのだ。
「何かあったらすぐに知らせてください」
 そう言い残し、千歳はリュックを抱えながら、橋の方へ向かった。

「よしっ」
 千歳が橋を渡り始めたのを確認した夏樹は、気合を入れると、川岸に向かって歩き始めた。コンクリートで固められた坂を下りると、暗い夜空の下に黒く光る水面が広がっている。等間隔に立つ街灯が、水面にぼんやりとした光を落としていた。冷たい風が肌を刺し、夏樹は一瞬、恐怖に駆られた。

「命を……懸ける……!」
 そう呟きながら、夏樹は服を脱ぎ始めた。服の下には大学の売店で買った水着がきっちりと着用されている。大学に関連した物は何でも取り揃えられているから、本当に便利な売店だと思う。
「やっ!」
 夏樹は深呼吸の後、勢いよく川に飛び込んだ。

「なっ!?」
 橋の上で様子を見ていた千歳は、夏樹の行動に思わず身を乗り出す。さっき言っていたことと合わせて考えるに、向こう岸まで泳ごうと言うのだろうか?そんなの無茶だ。
「あの馬鹿!」
 千歳はすぐさま引き返しながら、スマホで消防に連絡をいれる。幸い、消防のオペレーターはすぐに応答した。
「火事ですか?救助ですか?」
「救助です!橋の下で友人が溺れかけています!鷹見大学付近の大きな橋の川下側です!」
 パニック状態の言葉が、どの程度伝わったがどうかはわからないが、これで遠からず救助は来るだろう。問題は、それまで夏樹が持つかだが……。

「……ううっ」
 川に飛び込んだ瞬間、冷たい水が夏樹を包み込んだ。その冷たさに夏樹は息を呑む。初夏とはいえ、夜の川は冷たく、全身を刺すような痛みが走る。進もうとするたびに、痛みが体を鈍らせる。夏樹の水泳経験は学校の授業程度しかなく、しかも生粋の都会育ちで、川で泳いだ経験は全くない。
「やべ……」
 全身の感覚が薄れていく。目の前がぼやけ、視界が暗くなっていくのを感じた。

「夏樹!」
 夏樹の頭は、川の半分も行かない地点で止まり、浮き沈みし始めた。もう一刻の猶予もない。
「……っ、待ってろ!」
 夏樹の姿に千歳は素早くジャージを脱ぎ捨てると、自分も川へと飛び込んだ。溺れている人を助けるために自分が飛び込む等、愚の骨頂だが、今の千歳には関係なかった。ただ救わねばならない『友達』がいる。それだけだった。
 高校時代の合宿で、自然遊泳の経験がある千歳は、あっさり夏樹のところまで辿り着いた。そして、夏樹の頭が完全に水に沈んだところを見計らって後ろから近づき、背後から羽交い絞めする様に水面へと引き上げた。
「夏樹……!しっかり、してくださいよ……!」
 夏樹を確保した千歳は、そのまま川の流れを利用し、岸まで辿り着いた。

「はぁ……はぁ……」
 如何に競泳選手でも、流れのある冷たい川で、人1人を引っ張って泳ぐことは容易ではない。正直、自分でも上手く行き過ぎな救出劇だと思った。しかし、そんなことを喜んでいる暇はない。
「夏樹は……」
 千歳は、傍らに横たわった夏樹を見遣った。意識はないが、胸は動いている。呼吸音も聞こえてくることからして、一先ずは大丈夫な様だ。
「よかった……」
 千歳が胸を撫で下ろした時、遠くから消防車と救急車のサイレンの音が聞こえた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ジャスミン茶は、君のかおり

霧瀬 渓
BL
アルファとオメガにランクのあるオメガバース世界。 大学2年の高位アルファ高遠裕二は、新入生の三ツ橋鷹也を助けた。 裕二の部活後輩となった鷹也は、新歓の数日後、放火でアパートを焼け出されてしまう。 困った鷹也に、裕二が条件付きで同居を申し出てくれた。 その条件は、恋人のフリをして虫除けになることだった。

虐げられた氷の聖子は隣国の野獣皇帝に執着(愛)されすぎて溶かされる

たら昆布
BL
暴君皇帝×薄幸の聖子

番に見つからない街で、子供を育てている

はちも
BL
目を覚ますと、腕の中には赤ん坊がいた。 異世界の青年ロアンとして目覚めた「俺」は、希少な男性オメガであり、子を産んだ母親だった。 現世の記憶は失われているが、 この子を守らなければならない、という想いだけははっきりと残っている。 街の人々に助けられ、魔石への魔力注入で生計を立てながら、 ロアンと息子カイルは、番のいない街で慎ましく暮らしていく。 だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。 再会は望まない。 今はただ、この子との生活を守りたい。 これは、番から逃げたオメガが、 選び直すまでの物語。 *不定期連載です。

欠陥αは運命を追う

豆ちよこ
BL
「宗次さんから番の匂いがします」 従兄弟の番からそう言われたアルファの宝条宗次は、全く心当たりの無いその言葉に微かな期待を抱く。忘れ去られた記憶の中に、自分の求める運命の人がいるかもしれないーー。 けれどその匂いは日に日に薄れていく。早く探し出さないと二度と会えなくなってしまう。匂いが消える時…それは、番の命が尽きる時。 ※自己解釈・自己設定有り ※R指定はほぼ無し ※アルファ(攻め)視点

【完結】君の穿ったインソムニア

古都まとい
BL
建設会社の事務として働く佐野純平(さの じゅんぺい)は、上司のパワハラによって眠れない日々を過ごしていた。後輩の勧めで病院を受診した純平は不眠症の診断を受け、処方された薬を受け取りに薬局を訪れる。 純平が訪れた薬局には担当薬剤師制度があり、純平の担当薬剤師となったのは水瀬隼人(みなせ はやと)という茶髪の明るい青年だった。 「佐野さんの全部、俺が支えてあげますよ?」 陽キャ薬剤師×不眠症会社員の社会人BL。

そばにいられるだけで十分だから僕の気持ちに気付かないでいて

千環
BL
大学生の先輩×後輩。両片想い。 本編完結済みで、番外編をのんびり更新します。

アルファな彼とオメガな僕。

スメラギ
BL
  ヒエラルキー最上位である特別なアルファの運命であるオメガとそのアルファのお話。  

本当にあなたが運命なんですか?

尾高志咲/しさ
BL
 運命の番なんて、本当にいるんだろうか?  母から渡された一枚の写真には、ぼくの運命だという男が写っていた。ぼくは、相手の高校に転校して、どんな男なのか実際にこの目で確かめてみることにした。転校初日、彼は中庭で出会ったぼくを見ても、何の反応も示さない。成績優秀で性格もいい彼は人気者で、ふとしたことから一緒にお昼を食べるようになる。会うたびに感じるこの不思議な動悸は何だろう……。 【幼い頃から溺愛一途なアルファ×運命に不信感を持つオメガ】 ◆初のオメガバースです。本編+番外編。 ◆R18回には※がついています。 🌸エールでの応援ならびにHOTランキング掲載、ありがとうございました!

処理中です...