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第11話 「王子の告白」
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朝の光は、庵の壁を淡く撫でていた。
兵の灯りが去った夜の後に来る朝――こんなに静かで、こんなに怖い。
囲炉裏の火は細く残り、鍋の中で水がまだ眠そうに揺れている。私は薪を一本だけ足し、音が立たない程度に火を育てた。
「座ってくれ」
背中から、カイルの声。
振り向くと、彼は外套を壁に掛け、剣を所定の場所へ置き、私の正面に座った。夜の残り香が、肩の線に薄く残る。
いつもと違うのは、目の中に“決めた”色があることだった。
「昨夜の続きだ」
「……うん」
胸の革袋に触れる。硬い鍵。柔らかい結び目。
私は両手を膝に置いた。嘘はつけるけれど、嘘の置き方が下手だ。襟を立てるみたいに、呼吸を整える。
「話す。俺のことを。全部ではない。だが、今ここにいる俺に必要なぶんだけ」
彼は一度だけ目を閉じ、言葉を探るように息を吐いた。
「俺は、生まれたときから“第二王子”だった。名前より先に呼び方があって、肩書きが先に歩く。庭で剣を学び、帳で数字を学び、人の前で言葉を学ぶ。どれも、王族として必要なことだった」
「……うん」
「だけど、庭の外の風は、帳に載らない匂いがした。市場の笑い、祭りの太鼓、雨の夜の冷たさ。石ではない地面の上に世界があることを、知ってしまった」
指先が、ほんの少し震えた。
私は自分の膝を握り直す。
聞きたい。
でも、怖い。
「“王族としてではなく、一人の人間として世界を見たかった”」
彼は言葉を置くみたいに、ゆっくり繰り返した。
「誰の命令でもなく、誰の名でもなく、俺の足の幅で歩いて、俺の目の高さで確かめたかった。褒められるでも、怖れられるでもなく、ただの男として火を起こし、鍋を煮て、雨の夜に戸を留める。そういう日を、ひとつでいい、俺の“選んだ日”として持ちたかった」
胸が、痛いほど熱くなる。
その言葉は、あまりにもまっすぐで、あまりにも遠い。
私が失った“当たり前”の形に、似ているから。
「だから、王都を出た。護衛も連れず、名を伏せ、指輪だけを証として持った。戻らなければならない日が来たとき、俺自身に嘘をつかないための重しとして」
「……指輪は、重し」
「ああ。錘だ。外せば軽い。でも、軽いと、人はすぐ、風に流れる」
私はそれを知っている。
偽りの名は軽い。だから、毎日結び直せる。
でも、軽さは時々、私をどこかへ連れ去りそうになる。
私は革袋を押さえた。硬さは、私の錘だ。
「そして――お前に会った」
火が小さく笑う。
私の名前が、少しだけ喧嘩をやめる。
「ミリア。俺は、放浪の騎士として君を背負った。雨の夜、誰かの声を選ばずに抱き上げたのは、騎士としての訓練の癖でもあった。だが、そのあと、火のそばで君が眠るのを見て、“二度目の意味”が生まれた」
「二度目の、意味?」
「守りたい、という意味だ。人として。身分を剥いだ、俺自身の尺度で」
言葉が、まっすぐ胸に刺さる。
痛い。
でも、刺さったままでいたいと思った。
涙が、勝手に作業を始める。
「――信じられない」
口が、先に言った。
信じたい。信じたいのに。
信じると、また奪われる予感が、胸の裏で芽を伸ばす。
「信じなくていい」
彼はすぐに言った。
「いま信じなくてもいい。人は、今日と明日で、信じられる量が違う。俺の言葉は、火みたいなものだ。今は熱すぎるかもしれない。君の手が温度を覚えるまで、時間を置いていい」
「そんなふうに、優しくしないで」
涙が、喉を熱くする。
「優しいのは、怖い。優しさに救われて、また捨てられるのが、いちばん怖い」
彼は沈黙した。
逃げる沈黙ではない。
火のそばで、薪が自分の水分を手放すのを待つ種類の沈黙。
「俺は、君を捨てない」
間をほどいて、彼は言った。
「“捨てない”は、重い言葉だ。だから、ひとつ条件をつける。君が君を捨てないなら、俺は君を捨てない」
涙が崩れた。
条件。
救いはいつだって条件付きだ。
でも、これは、私の側の条件だった。
「……わたし、時々、私を捨てたくなるよ」
「知ってる」
「どうして」
「雨の夜、扉の下から入ってくる水を、君は布じゃなく自分の掌で止めようとした。掌はすぐ冷える。冷えると、人は自分を嫌う。そういう時の背中の硬さは、覚えてる」
見ていたのか。
見られていたことが、悔しいほど嬉しい。
涙で笑う。器用じゃない笑い。
「……もうひとつ、言う」
カイルは視線を落とし、火の縁を見つめた。
「王子暗殺未遂――あれは、宰相が“舌で作った火”だと思っている。第一王子の影を大きくするための影絵。お前の父上、レオンハルトが夜に扉を破られたのも、同じ舌の上の策だ」
胸の奥の鍵が、音を立てた。
怒りと、悔しさと、間に合わなかった現実。
「俺は、その舌と長く向き合っていた。向き合って、届かないと知った。――だから出た。出て、俺の足の幅で、別の道を探している」
「別の道?」
「舌で火を起こす人間に、火の責任を取らせる道だ。証と人。どちらか片方では足りない。お前の鍵と、俺の名前。両方が要る」
革袋が、掌の中で重くなる。
鍵の歯が、はっきりとした輪郭で皮膚に触れる。
これを開けたら、戻れない。
でも、開けないと、誰も戻れない。
「……わたし、信じたい」
涙の向こうで、やっと言えた。
「信じたいけど、怖い。あなたが王子だってことを、今朝になってもまだ身体が受け止めきれてない。指輪の銀は冷たい。冷たいものは、いつだって私から大事なものを奪っていった」
「知ってる」
「何を」
「冷たいものの重さ。剣も、指輪も、宰相の印も、全部冷たい。だから、俺は火を持つ。火は熱い。熱いから、持ち方を間違えると火傷する。けれど、熱いものだけが、冷たいものの形を変えられる」
彼の言葉は、優しいのに、甘くない。
火は甘くない。
でも、確かだ。
「ミリア」
「なに」
「泣いている間は、信じなくていい。泣き終わって、息を整えたら、“信じたい”の分だけ握ってくれ。足りない分は、明日俺が持つ」
笑った。
涙のまま笑えるとき、人は生きている。
私は袖で目を拭き、息を整え、彼の目を見た。
「……じゃあ、今は“少しだけ”。信じる」
「十分だ」
彼は立ち上がり、棚の前へ行くかと思ったが、違った。
囲炉裏の横に膝を折り、薪を二本、指で選んで重ねる。
「細い枝から。急に太い薪をのせると、火がいじける」
「それ、誰かさんの受け売り」
「先生のな」
火が“ぱち”と笑う。
温度は、言葉より早く伝わる。
私は深く息を吸い、握っていた革袋から手を離した。
「ねぇ、カイル」
「ん」
「あなたが“見るために出た世界”に、私もいるんだね」
「ああ。君は、俺がこの世界を“やめない理由”のひとつになった」
心臓が、びっくりして跳ねた。
それは告白の言葉の形式ではない。
でも、私の胸の中心に届く形を、正確に選んだ言葉だった。
「……ずるい」
「実用的だ」
「そういうところ、変わらない」
彼は少しだけ笑い、それから真面目な声に戻した。
「もうひとつ、言う。今後、王都からの“目”は増える。君の名を呼ぶ舌も現れる。俺の名を試す舌も」
「うん」
「そのたびに、ここへ戻る。火のそばへ。戻れなければ、火を置いていく。君はそれを見て、君の火を守れ」
「約束」
「約束」
花の結び目に、ひとつ硬い結びを重ねる気持ちで、私は言った。
軽い約束は毎日結び直せる。
硬い約束は、夜を越える杭になる。
両方が要る。今は、両方。
昼が近づくと、光が庵の中の埃を金の粒に変えた。
私は立ち上がり、板と炭を持つ。
「“め”と“む”、今日もやる」
「君は、靴」
「干す。覚えた」
扉に手をかけたとき、彼が呼んだ。
「ミリア」
「なに」
「俺は――王族としてではなく、一人の人間として世界を見たい。それでも、君の前では“王子である俺”を隠さない。隠して君を守る時代は、昨夜で終わった」
「……うん」
「それでも怖いときは、言え」
「言う。たぶん、何度も言う」
「何度でも聞く」
扉を開ける。
花祭りの名残の匂いは薄れ、かわりに粉の匂いが濃くなっている。
市場は今日も始まる。
私は振り返らず、でも確かに彼の気配を背中で感じながら、一歩外へ出た。
光が目に入った瞬間、涙がまたにじみ、笑いが喉に浮かぶ。
信じることは、習い事みたいだ。
毎日少しずつ、同じところをなぞり、形を覚え、手が勝手に動くようになるまで続ける。
“め”の丸み。“む”の尾。
火の育て方。
襟の立て方。
――そして、彼の言葉の熱の持ち方。
広場に子どもたちの声が上がる。
「せんせいミリアー!」
「今日は“め”と“む”のテスト!」
「テストって誰が決めたの」
「ぼく!」
「じゃあ満点は蜂蜜パン半分ね」
「ぜんぶがいい!」
「欲張りは“む”の眉毛が怒るよ」
笑いながら振り向くと、庵の戸口でカイルが短く手を上げた。
王子の挨拶じゃない。
放浪の騎士の、庵の主の、火を分ける人の挨拶。
私は同じ高さで手を上げ、走り出す。
胸の鍵は確かで、花の結び目は軽く、涙はまだ乾かない。
それでも、今日を始めるには、十分だった。
微笑みの裏に、もう刃はない。
刃は鞘にあり、名は胸にあり、言葉は火にある。
そして、私の足は、私の幅で前へ出る。
――信じることを、今日から、もう一度。
兵の灯りが去った夜の後に来る朝――こんなに静かで、こんなに怖い。
囲炉裏の火は細く残り、鍋の中で水がまだ眠そうに揺れている。私は薪を一本だけ足し、音が立たない程度に火を育てた。
「座ってくれ」
背中から、カイルの声。
振り向くと、彼は外套を壁に掛け、剣を所定の場所へ置き、私の正面に座った。夜の残り香が、肩の線に薄く残る。
いつもと違うのは、目の中に“決めた”色があることだった。
「昨夜の続きだ」
「……うん」
胸の革袋に触れる。硬い鍵。柔らかい結び目。
私は両手を膝に置いた。嘘はつけるけれど、嘘の置き方が下手だ。襟を立てるみたいに、呼吸を整える。
「話す。俺のことを。全部ではない。だが、今ここにいる俺に必要なぶんだけ」
彼は一度だけ目を閉じ、言葉を探るように息を吐いた。
「俺は、生まれたときから“第二王子”だった。名前より先に呼び方があって、肩書きが先に歩く。庭で剣を学び、帳で数字を学び、人の前で言葉を学ぶ。どれも、王族として必要なことだった」
「……うん」
「だけど、庭の外の風は、帳に載らない匂いがした。市場の笑い、祭りの太鼓、雨の夜の冷たさ。石ではない地面の上に世界があることを、知ってしまった」
指先が、ほんの少し震えた。
私は自分の膝を握り直す。
聞きたい。
でも、怖い。
「“王族としてではなく、一人の人間として世界を見たかった”」
彼は言葉を置くみたいに、ゆっくり繰り返した。
「誰の命令でもなく、誰の名でもなく、俺の足の幅で歩いて、俺の目の高さで確かめたかった。褒められるでも、怖れられるでもなく、ただの男として火を起こし、鍋を煮て、雨の夜に戸を留める。そういう日を、ひとつでいい、俺の“選んだ日”として持ちたかった」
胸が、痛いほど熱くなる。
その言葉は、あまりにもまっすぐで、あまりにも遠い。
私が失った“当たり前”の形に、似ているから。
「だから、王都を出た。護衛も連れず、名を伏せ、指輪だけを証として持った。戻らなければならない日が来たとき、俺自身に嘘をつかないための重しとして」
「……指輪は、重し」
「ああ。錘だ。外せば軽い。でも、軽いと、人はすぐ、風に流れる」
私はそれを知っている。
偽りの名は軽い。だから、毎日結び直せる。
でも、軽さは時々、私をどこかへ連れ去りそうになる。
私は革袋を押さえた。硬さは、私の錘だ。
「そして――お前に会った」
火が小さく笑う。
私の名前が、少しだけ喧嘩をやめる。
「ミリア。俺は、放浪の騎士として君を背負った。雨の夜、誰かの声を選ばずに抱き上げたのは、騎士としての訓練の癖でもあった。だが、そのあと、火のそばで君が眠るのを見て、“二度目の意味”が生まれた」
「二度目の、意味?」
「守りたい、という意味だ。人として。身分を剥いだ、俺自身の尺度で」
言葉が、まっすぐ胸に刺さる。
痛い。
でも、刺さったままでいたいと思った。
涙が、勝手に作業を始める。
「――信じられない」
口が、先に言った。
信じたい。信じたいのに。
信じると、また奪われる予感が、胸の裏で芽を伸ばす。
「信じなくていい」
彼はすぐに言った。
「いま信じなくてもいい。人は、今日と明日で、信じられる量が違う。俺の言葉は、火みたいなものだ。今は熱すぎるかもしれない。君の手が温度を覚えるまで、時間を置いていい」
「そんなふうに、優しくしないで」
涙が、喉を熱くする。
「優しいのは、怖い。優しさに救われて、また捨てられるのが、いちばん怖い」
彼は沈黙した。
逃げる沈黙ではない。
火のそばで、薪が自分の水分を手放すのを待つ種類の沈黙。
「俺は、君を捨てない」
間をほどいて、彼は言った。
「“捨てない”は、重い言葉だ。だから、ひとつ条件をつける。君が君を捨てないなら、俺は君を捨てない」
涙が崩れた。
条件。
救いはいつだって条件付きだ。
でも、これは、私の側の条件だった。
「……わたし、時々、私を捨てたくなるよ」
「知ってる」
「どうして」
「雨の夜、扉の下から入ってくる水を、君は布じゃなく自分の掌で止めようとした。掌はすぐ冷える。冷えると、人は自分を嫌う。そういう時の背中の硬さは、覚えてる」
見ていたのか。
見られていたことが、悔しいほど嬉しい。
涙で笑う。器用じゃない笑い。
「……もうひとつ、言う」
カイルは視線を落とし、火の縁を見つめた。
「王子暗殺未遂――あれは、宰相が“舌で作った火”だと思っている。第一王子の影を大きくするための影絵。お前の父上、レオンハルトが夜に扉を破られたのも、同じ舌の上の策だ」
胸の奥の鍵が、音を立てた。
怒りと、悔しさと、間に合わなかった現実。
「俺は、その舌と長く向き合っていた。向き合って、届かないと知った。――だから出た。出て、俺の足の幅で、別の道を探している」
「別の道?」
「舌で火を起こす人間に、火の責任を取らせる道だ。証と人。どちらか片方では足りない。お前の鍵と、俺の名前。両方が要る」
革袋が、掌の中で重くなる。
鍵の歯が、はっきりとした輪郭で皮膚に触れる。
これを開けたら、戻れない。
でも、開けないと、誰も戻れない。
「……わたし、信じたい」
涙の向こうで、やっと言えた。
「信じたいけど、怖い。あなたが王子だってことを、今朝になってもまだ身体が受け止めきれてない。指輪の銀は冷たい。冷たいものは、いつだって私から大事なものを奪っていった」
「知ってる」
「何を」
「冷たいものの重さ。剣も、指輪も、宰相の印も、全部冷たい。だから、俺は火を持つ。火は熱い。熱いから、持ち方を間違えると火傷する。けれど、熱いものだけが、冷たいものの形を変えられる」
彼の言葉は、優しいのに、甘くない。
火は甘くない。
でも、確かだ。
「ミリア」
「なに」
「泣いている間は、信じなくていい。泣き終わって、息を整えたら、“信じたい”の分だけ握ってくれ。足りない分は、明日俺が持つ」
笑った。
涙のまま笑えるとき、人は生きている。
私は袖で目を拭き、息を整え、彼の目を見た。
「……じゃあ、今は“少しだけ”。信じる」
「十分だ」
彼は立ち上がり、棚の前へ行くかと思ったが、違った。
囲炉裏の横に膝を折り、薪を二本、指で選んで重ねる。
「細い枝から。急に太い薪をのせると、火がいじける」
「それ、誰かさんの受け売り」
「先生のな」
火が“ぱち”と笑う。
温度は、言葉より早く伝わる。
私は深く息を吸い、握っていた革袋から手を離した。
「ねぇ、カイル」
「ん」
「あなたが“見るために出た世界”に、私もいるんだね」
「ああ。君は、俺がこの世界を“やめない理由”のひとつになった」
心臓が、びっくりして跳ねた。
それは告白の言葉の形式ではない。
でも、私の胸の中心に届く形を、正確に選んだ言葉だった。
「……ずるい」
「実用的だ」
「そういうところ、変わらない」
彼は少しだけ笑い、それから真面目な声に戻した。
「もうひとつ、言う。今後、王都からの“目”は増える。君の名を呼ぶ舌も現れる。俺の名を試す舌も」
「うん」
「そのたびに、ここへ戻る。火のそばへ。戻れなければ、火を置いていく。君はそれを見て、君の火を守れ」
「約束」
「約束」
花の結び目に、ひとつ硬い結びを重ねる気持ちで、私は言った。
軽い約束は毎日結び直せる。
硬い約束は、夜を越える杭になる。
両方が要る。今は、両方。
昼が近づくと、光が庵の中の埃を金の粒に変えた。
私は立ち上がり、板と炭を持つ。
「“め”と“む”、今日もやる」
「君は、靴」
「干す。覚えた」
扉に手をかけたとき、彼が呼んだ。
「ミリア」
「なに」
「俺は――王族としてではなく、一人の人間として世界を見たい。それでも、君の前では“王子である俺”を隠さない。隠して君を守る時代は、昨夜で終わった」
「……うん」
「それでも怖いときは、言え」
「言う。たぶん、何度も言う」
「何度でも聞く」
扉を開ける。
花祭りの名残の匂いは薄れ、かわりに粉の匂いが濃くなっている。
市場は今日も始まる。
私は振り返らず、でも確かに彼の気配を背中で感じながら、一歩外へ出た。
光が目に入った瞬間、涙がまたにじみ、笑いが喉に浮かぶ。
信じることは、習い事みたいだ。
毎日少しずつ、同じところをなぞり、形を覚え、手が勝手に動くようになるまで続ける。
“め”の丸み。“む”の尾。
火の育て方。
襟の立て方。
――そして、彼の言葉の熱の持ち方。
広場に子どもたちの声が上がる。
「せんせいミリアー!」
「今日は“め”と“む”のテスト!」
「テストって誰が決めたの」
「ぼく!」
「じゃあ満点は蜂蜜パン半分ね」
「ぜんぶがいい!」
「欲張りは“む”の眉毛が怒るよ」
笑いながら振り向くと、庵の戸口でカイルが短く手を上げた。
王子の挨拶じゃない。
放浪の騎士の、庵の主の、火を分ける人の挨拶。
私は同じ高さで手を上げ、走り出す。
胸の鍵は確かで、花の結び目は軽く、涙はまだ乾かない。
それでも、今日を始めるには、十分だった。
微笑みの裏に、もう刃はない。
刃は鞘にあり、名は胸にあり、言葉は火にある。
そして、私の足は、私の幅で前へ出る。
――信じることを、今日から、もう一度。
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