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第16話 再会、物語の外側で
しおりを挟む辺境の朝は、音が増えた。
木槌が板を打つ音、荷車のきしむ音、パンが焼ける匂い。
人の声が風に乗り、笑い声が石壁に当たって跳ね返る。
昔は、風の唸りと雪の軋みしかなかった場所だ。
市場は小さくない。
まだ王都の豪奢には遠い。けれど、ここには王都にない種類の豊かさがある。
生きるための品。
生きるための手。
生きるための言葉。
「領主さま、塩の袋、湿気ませんでしたよ」
村の女が笑って言う。
セラフィナは頷き、袋の口を確かめる。
「よかった。次は床から離して積んでね。木枠、今日のうちに追加する」
「はいはい、分かってますよ。領主さま、最近うるさいんだから」
からかう声。
それが冗談として成立するのが、ここが“暮らし”になった証拠だった。
セラフィナは笑わない。
でも、表情は硬くない。
笑う代わりに、目で返す。
その目の返し方を、彼女はこの土地で覚えた。
ノアが見張り台から降りてきて、肩をすくめた。
「今日、馬が一頭増えた。南から」
「商人?」
セラフィナが聞くと、ノアは首を振った。
「商人っていうより……なんか、匂いが違う。香水」
香水。
その単語が空気を一段冷やした。
辺境の風の中に、王都の匂いは異物だ。
異物は、過去を連れてくる。
「どんな馬?」
「いい馬。毛並みも脚も。で、乗ってる男も……いい服。汚れてない」
汚れてない。
ここまで来たのに。
それだけで、相当な護衛と準備があったと分かる。
あるいは――本当に急いでいるか。
セラフィナは指先を握り、ほどいた。
心臓が跳ねるのを期待した。
でも跳ねない。
跳ねないのが、少し怖い。
驚かない。
驚けないほど、ここでの日々が彼女を変えた。
市場の外れ。
人の流れが、ふっと歪んだ。
水が石に当たったみたいにざわめき、視線が一箇所に集まる。
上等な外套を着た男が歩いてくる。
毛皮の質が違う。縫い目が違う。靴が違う。
そして、顔が――記憶の底に沈めていた顔が。
アレクシス・ヴェルディオール。
周囲が息を呑む音がした。
村の男が手を止め、子どもが母の背に隠れ、商人が値踏みの目を向ける。
過去が、匂いとして蘇る。
香水と鐘の音。
大広間の冷たい光。
断罪の沈黙。
アイリスが、ほんの僅かに身体を強張らせた。
怒りが先に立つのが分かる。
彼女は、守るためならすぐ前に出る。
セラフィナは視線を逸らさなかった。
逸らさないことが、ここでは強さだと知っている。
アレクシスは市場の手前で立ち止まり、帽子を取った。
髪は風に乱れ、頬は冷えて赤い。
王都にいたときより、少しだけ痩せて見える。
少しだけ、現実に触れた顔だ。
「……セラフィナ」
名前を呼ばれる。
それだけで胸の奥が波立つ。
怒り、悲しみ、虚しさ、懐かしさ。
波は立つのに、足は揺れない。
ここで積み上げた日々が、彼女の足元を固めている。
「何の用ですか、殿下」
声は淡々としていた。
冷たいと呼ばれた頃の声。
でも今は、氷じゃない。
透明な水だ。
アレクシスは一歩進み、そして――頭を下げた。
王太子が。
こんな土の上で。
市場の真ん中で。
ざわめきがさらに広がる。
誰かが「本物か」と呟き、誰かが「王都が来た」と息を吸う。
「君が正しかった」
アレクシスの声は震えていなかった。
震えていないのが、逆に痛い。
遅すぎる正しさは、慰めにならない。
「……そして、僕は間違えた」
セラフィナは返事をしない。
返事をしたら、彼の物語の中に戻る気がした。
断罪劇の舞台に。
ここは、舞台じゃない。
生活の場所だ。
物語の外側だ。
アレクシスが顔を上げ、真っ直ぐに言った。
「戻ってほしい」
その瞬間、空気が凍った。
市場の音が一拍遅れた。
パンの匂いが遠のき、木槌の音が止まり、子どもの笑いが消える。
アイリスが一歩前に出かけた。
怒りの火が、脚を動かす。
「殿下――」
セラフィナは、静かに手を伸ばして前に出たアイリスの袖を掴んだ。
掴む手は震えていない。
震えていないから、余計にアイリスの目が潤む。
「大丈夫」
セラフィナは小さく言った。
大丈夫は呪文じゃない。
ここでは事実だ。
アイリスは歯を食いしばり、下がった。
その悔しさが、セラフィナを守ってくれている。
セラフィナはアレクシスを見つめた。
アレクシスは真剣だった。
真剣だからこそ、残酷だ。
「……戻って、何をします?」
セラフィナは問い返す。
問い返すのは、責めるためじゃない。
確認するためだ。
王都で彼女が欲しかったのは、いつだって確認だった。
「君は強いから大丈夫、じゃなくて。
本当に、私が必要だったのかを」
アレクシスの喉が動いた。
言葉が詰まる。
愛の言葉で逃げてきた男の、詰まり方だ。
「……君は、必要だ」
やっと出た言葉は、薄い。
薄いのに、本人は必死だ。
「王都は、君がいないと……」
「王都が、ですか」
セラフィナは言葉を切った。
静かに。
刃物みたいに静かに。
「私が欲しいんじゃなくて、王都の体面が欲しい?」
周囲が息を呑む。
村の男が「おお」と小さく声を漏らす。
アイリスの瞳が燃える。
ノアが拳を握り、エリナが毛布をぎゅっと掴む。
アレクシスは、否定しようとして口を開き、閉じた。
否定できない。
否定したら嘘になる。
「……違う」
やっと絞り出す。
でも言葉が追いついていない。
「僕は――」
そのとき、セラフィナの隣に影が落ちた。
カイルだった。
いつの間にか、そこにいた。
剣を抜くわけでもなく、声を出すわけでもなく、ただ立つ。
セラフィナの隣。
その距離。
それだけで答えになる。
アレクシスの視線が、カイルに移った。
一瞬、驚きが走る。
次に、理解が遅れて追いつく。
理解はいつも、彼にとって遅い。
「……彼は?」
「この砦の騎士……ではないわね」
セラフィナは淡々と言う。
「ここで生きる人。私の隣で、同じ夜を越えた人」
言ってから、自分の胸が少し熱くなるのを感じた。
あのときの言葉。
“役じゃない。お前はお前だ”
その火が、まだ消えていない。
アレクシスは唇を噛んだ。
その仕草は、後悔の形。
けれど後悔は、過去を戻さない。
「……君を、ここで苦しませた」
アレクシスが言う。
声が少しだけ掠れる。
掠れた声には、現実の痛みが混じる。
「だから、戻って。僕が――」
「殿下」
セラフィナは、呼び方を選んだ。
あえて敬称をつける。
距離を固定するために。
「私は、もう戻りません」
その言葉は静かだった。
でも静かだから、雪より重い。
アレクシスの顔が歪む。
拒絶された顔。
拒絶を受け止める準備をしてきたはずなのに、やっぱり痛い顔。
「……君は、僕を赦さないのか」
その問いは、ずるい。
赦しを求める問いは、赦さない側を悪者にする。
セラフィナはそれを王都で何度も見た。
だからこそ、答え方を間違えない。
「赦すかどうかは、今の私の仕事じゃありません」
セラフィナは言う。
「私はここで、守るものがある。
薪の量、塩の保管、子どもの熱、薬草の乾燥。
明日の暮らし。
それが私の仕事です」
アレクシスは黙った。
黙って、周囲を見渡す。
市場の人々。
作業する手。
笑う子ども。
傷跡のある砦。
ここにあるのは、王都の舞台装置じゃない。
彼女が積み上げた現実だ。
「……戻ってほしい、は」
アレクシスが小さく言った。
言い直すように。
「……僕の、願いだ」
「願いは、叶わないこともあります」
セラフィナは淡々と返す。
淡々だから、残酷に聞こえる。
でも残酷なのは世界で、彼女の声は世界に合わせただけだ。
アイリスが震える息で言った。
「お嬢様、もう……」
セラフィナは頷き、視線だけで「大丈夫」と返す。
カイルが、初めて口を開いた。
「帰れ」
たった二文字。
命令でも脅しでもない。
境界線。
アレクシスは、カイルを見た。
次にセラフィナを見た。
そして、ゆっくり頷いた。
「……分かった」
分かったと言う声が、痛そうだった。
痛いのは、当然だ。
痛みは、遅れてきた責任の形。
「せめて、君が無事だと……それだけは確認できた」
「確認できたなら、帰ってください」
セラフィナは言った。
それ以上は言わない。
過去を慰める言葉は、今の自分には必要ない。
アレクシスは帽子をかぶり直し、踵を返した。
上等な外套が風に揺れ、香水の匂いが一瞬強くなる。
その匂いが、過去の扉を叩く。
でも扉は開かない。
王都はもう、セラフィナの中心じゃない。
男の背中が人の波に消えていく。
市場の音が、少しずつ戻る。
木槌の音。
荷車の音。
パンの匂い。
子どもの笑い。
アイリスが、やっと息を吐いた。
「……言ってやりましたね」
「そうね」
セラフィナは短く返す。
「ただ、ここにいるって示しただけど」
アイリスが涙ぐんで笑った。
「それが一番刺さります」
ノアが誇らしげに胸を張った。
「領主は、領主だ」
エリナが小さく頷く。
「……ここが、家」
セラフィナは、その言葉を胸の奥に沈めた。
沈めて、重しにする。
次の冬を越えるための重し。
カイルが隣で、いつもの声で言った。
「薪、運ぶぞ」
「ええ」
セラフィナは頷いた。
その頷きは、逃げない頷きだ。
物語の中では、再会は劇的で、涙があって、抱きしめ合って、赦しがある。
でもここは、物語の外側だ。
雪と土と火と人の匂いがする場所。
ここでの答えは、拍手じゃなくて、明日の準備だ。
セラフィナは外套の紐を結び直し、冷たい風の中へ一歩踏み出した。
足元の土は固い。
固い土の上に、彼女の今がある。
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