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第15話 王太子、辺境へ向かう
しおりを挟む王都の夜は、考えるには明るすぎる。
街路灯、宮殿の窓明かり、夜会の燭台、宝石の反射。暗闇が逃げ場を失って、薄く引き延ばされている。
ミレイユはその光の海に溺れそうになりながら、窓辺に立っていた。
北――見えない方角。
見えないくせに、そこから風が吹いてくる気がする。冷たい風。香水じゃ隠せない温度。
噂はもう、噂じゃない。
「追放令嬢が北で市を立てた」
最初は笑い話だった。誰かが面白がって、盛って、飾って、香水みたいに広げた。
でも今は、数字がついてくる。交易の帳簿に載る。役人の口から出る。貴族の会話が慎重になる。
――お姉さまが、生きている。
それも、ただ生き延びているんじゃない。築いている。
「……殿下は、最近、遠いですね」
ミレイユがそう言ったのは、いつだったか。
夜会の帰りの馬車。揺れる灯りの中で、彼女は笑顔のまま言った。笑っていれば、殿下は安心すると思ったから。
「気のせいだよ」
アレクシスは、いつも通り優しく言って手を握った。温かい掌。王太子の手は、剣を握るより人を慰めるために作られた手だった。
その温かさに、ミレイユは救われた――はずだった。
でも救いは、時々、鎖になる。
優しさは、逃げ道にもなる。
別の日。庭園の回廊。夜の冷気が薔薇の香りを薄めていく中で、ミレイユは思わず口にした。
「殿下は、優しい方です」
それは賛美であり、祈りだった。殿下が優しさを失わないように、という祈り。
「優しいから、誰も傷つけない」
ミレイユがそう続けると、殿下は少し困ったように笑った。
「そんな大げさな……」
「大げさじゃないです」
ミレイユは笑って、でも胸の奥が痛かった。
優しさで誰も傷つけない――それは、ほんとうに可能なの?
「……でも」
言ってしまった。止められなかった。
「優しさって、離れる理由にもなりますよね」
殿下の笑みが、ほんの一瞬止まった。
その一瞬が、ミレイユの心を冷やした。
「どういう意味?」
殿下が問い返す声は柔らかい。柔らかいのに、その柔らかさが逆に怖い。
柔らかさの中に、答えを先延ばしにする気配がある。
「……いえ、ただ」
ミレイユは言葉を濁した。濁すしかなかった。
だって言葉にしたら、殿下の優しさが壊れる気がしたから。
でも、濁したままでも世界は壊れる。
それをミレイユは遅れて知る。
噂が確信に変わったのは、役人が「北方の交易税が増えた」と報告した日の夜だ。
殿下の執務室の扉の向こうで、彼は長い沈黙をしていた。
その沈黙は、拒絶より残酷だった。
沈黙は「そこに心がいる」という証拠になるから。
ミレイユは、殿下の机の上に積まれた紙束を見た。
白い紙。整った文字。冷たい数字。
そしてそこに刺さる名前。
セラフィナ・アルヴェイン。
あの名前を、殿下がどんな目で見ているのか、ミレイユには分かってしまった。
恋じゃない。
懐かしさでもない。
もっと厄介なもの――罪悪感と、遅れて芽吹く理解。
殿下はその夜、手紙を書いた。
丁寧に、誠実に、整えた言葉で。
『君が正しかった』
その一文を書いた瞬間、殿下の肩が微かに落ちたのを、ミレイユは見た気がした。
落ちたのは、重荷じゃない。
逃げ道の扉が、静かに閉まる音。
返事は来なかった。
一日。二日。
一週間。二週間。
その沈黙が、殿下の表情を削っていった。
「……強いから大丈夫」
殿下は、誰にも聞こえない声でそう言っていた。
ミレイユは知っている。
それは慰めじゃない。
自分を許すための言い訳だ。
そして、夜明け前。
まだ鐘が鳴る前。
王都が眠りきらず、目を閉じたまま息をしている時間。
ミレイユは廊下で、殿下が扉を開ける音を聞いた。
足音が違った。迷いの足音じゃない。決めた足音。
ミレイユは走った。
走るのは品がない。走るのは怖い。走るのは、取り乱しだ。
でもそれでも走った。だって今取り乱さないと、永遠に置いていかれる気がしたから。
「殿下!」
回廊に彼の背中があった。
外套を羽織り、手袋を掴み、侍従に何かを命じている。
ミレイユは息を切らしながら、言葉を絞り出した。
「北へ行くって……本当ですか」
殿下は振り返った。
目が冴えていた。眠っていない目。
眠っていないのに、曇りがない目。
「行く」
その一言で、ミレイユの世界が傾いた。
「どうして……」
声が震える。
可憐に震えるのではなく、体が勝手に震える。
「会わなければならない」
「会うって……お姉さまに?」
お姉さま。
その呼び方が、喉に引っかかる。
ミレイユはあの日以来、名前を口にするたび心がひりつく。
「そうだ」
殿下は言った。
その声は、優しい。
でも今までの優しさと違う。
逃げない優しさだ。
「それは恋じゃない。赦しを乞うためでもない」
ミレイユは思う。
それなら、もっと怖い。
恋ならまだ、奪い合える。
赦しなら、涙で縋れる。
でも罪を見に行く旅は、誰にも止められない。
「置いていくんですか」
言ってしまった。
口に出した瞬間、子どもみたいだと分かる。
でも止められない。
胸の底に沈んでいた恐怖が、喉まで上がってくる。
「行かないで……」
ミレイユは一歩前へ出た。
指先が冷たい。殿下の外套に触れた。
「置いていかないで……」
殿下は、ミレイユの手を握った。
温かい。
その温かさに、ミレイユは泣きそうになる。
このまま「大丈夫だよ」と言ってくれれば、世界は戻る。
でも殿下は、違った。
「ミレイユ」
呼ばれた名前が優しい。
優しいからこそ、胸が痛い。
「君を置いていくためじゃない。でも、行かなければならない」
「私がいるのに……?」
ミレイユの声が少し尖った。
尖るのは、弱さが棘になるから。
「僕はずっと、愛の言葉で逃げてきた。責任から」
殿下の言葉が、喉の奥で引っかかりながら出てくる。
痛い言葉。
今まで出てこなかった種類の言葉。
「セラフィナを、強いという言葉で捨てた。……それを、自分の目で見なければならない」
捨てた。
その言葉が、ミレイユの胸を殴った。
殿下の口から出る“捨てた”が、こんなに重いとは知らなかった。
「殿下……私は……」
言いたい。
好きだと言いたい。
そばにいてと言いたい。
泣けば引き止められると、どこかで知っている。
でも、殿下の目はもう揺れていなかった。
殿下は、ミレイユの手をもう一度握り――そして、初めて離した。
指先が離れる瞬間、ミレイユの体が小さく揺れた。
支柱を抜かれた花みたいに。
「戻る」
殿下は言った。
それは慰めではなく、約束だった。
「でも、逃げない」
逃げない。
その言葉が、ミレイユの胸に冷たい穴を開ける。
殿下が逃げないなら、ミレイユは守られるだけの場所にいられない。
ミレイユは泣いた。
泣き顔は、武器にも鎧にもならない。
ただの本音になる。
「行かないで……」
殿下は振り返らなかった。
振り返れば、また優しさで縛ってしまうから。
厩舎。
馬の汗と藁の匂い。
香水では隠せない現実の匂い。
アレクシスは馬に跨り、門を出た。
石畳の音が、土の音に変わる。
王都の灯りが遠ざかり、夜が本物の闇になる。
冷たい風が頬を打つ。
ミレイユの涙の温度と対照的に冷たい風。
北へ走りながら、アレクシスは遅れて理解する。
あの日。
断罪の大広間で。
セラフィナがどれほど冷たく見えたか。
冷たかった。
冷たい顔だった。
冷たい声だった。
冷たい背中だった。
でも今なら分かる。
あれは冷たさじゃない。
凍らせた痛みだ。
凍らせなければ壊れるほどの痛みを、あの女は抱えて立っていた。
「……遅いな」
アレクシスは馬上で呟いた。
風にさらわれる声。
それでも、行くしかない。
追いつくためじゃない。
赦されるためでもない。
自分の罪を、自分の目で見るために。
――その頃。
王宮の窓辺で、ミレイユは北を見ていた。
見えない方角に、見えないものを見ようとして。
「……置いていかれるのは、私だったんだ」
声が震える。
自分の声が、自分のものじゃないみたいに遠い。
お姉さまは、きっと言わなかった。
置いていかないで、と。
言えなかった。
言えないくらい、役目を背負っていた。
だから強いのだと、人は言う。
でも本当は、言えなかっただけなのだとミレイユは知っている。
知っているから、余計に怖い。
殿下の背中は、もう灯りの中にはない。
香水の匂いの中にもない。
遠ざかっていく。
ミレイユは掌を見た。
さっきまで殿下の温度があった場所。
今は冷たい。
守られる側でいられなくなる予感が、胸の奥で静かに芽を出した。
それは、セラフィナがかつて立たされた夜と、同じ夜だった。
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