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第17話:フィオラルの“並ぶ”宣言、第二契約
しおりを挟む大広間の空気は、まだ薄かった。
セリアが「聖女じゃない」と言って、
「民は切り捨てない」と言って、
「妖精側に立ったまま、人間を終わらせない」と言った。
その言葉は、剣みたいに派手じゃない。
でも、刃のない言葉のほうが、時々いちばん深く刺さる。
刺さって、血を流さずに、世界の形だけ変える。
王は黙っていた。
貴族は黙っていた。
民も黙っていた。
誰もが、次に来るものを恐れて息を止めている。
沈黙が、ぐっと伸びる。
その沈黙が伸びるほど、香の甘さが息苦しくなる。
蝋の匂いが喉に残る。
石畳の冷たさが足裏から背骨に上がってくる。
そして――空気が整った。
「澄む」とも違う。
「冷える」とも違う。
「柔らかくなる」とも違う。
ただ、世界が正座する。
音のノイズが、すっと消える。
呼吸が勝手に深くなる。
焦りでバラバラだった心臓のリズムが、一本の線に揃う。
セリアは分かった。
この感覚は、遺跡と同じだ。
フィオラル。
姿を見る前に、存在が来る。
広間の中央にある噴水の水面が、月のない昼間なのに淡く光った。
水が門になる。
扉が開く音はしない。
ただ、水の形が“通り道”になる。
そこから、影が立ち上がった。
妖精王フィオラル。
白銀の髪。
淡い肌。
そして、深い水の底みたいな瞳。
貴族たちが一斉に膝を折る。
民も、何が起きたか分からないまま頭を下げる。
兵は槍を握り直し、動けない。
王ですら、一瞬だけ呼吸を止めたのが見えた。
――でも。
フィオラルは、玉座へ向かわなかった。
王の前へも行かなかった。
誰の上にも立たない。
ただ、静かに歩いた。
足音はない。
それなのに、大広間の床が、彼の歩みに合わせて“静かになる”。
踏まれた石が喜ぶみたいに、世界の輪郭が整っていく。
フィオラルは、セリアの隣へ来た。
隣。
それだけで、空気が裂けそうになる。
王が人間の隣に立つ。
しかも、玉座の上ではなく、同じ床の上で。
それはこの国の序列を、もう一度静かに折る行為だった。
セリアの胸がぎゅっと鳴った。
怖い。
でも、怖さの種類が違う。
叩き潰される怖さじゃない。
“世界が変わる瞬間に立っている”怖さ。
フィオラルはセリアを見た。
恋じゃない視線。
均衡の視線。
けれど今日は、そこに“個”の静けさが混じっていた。
王としての威光ではない。
命令の匂いがない。
守るふりの支配もない。
ただ、そこにいる。
フィオラルは、広間に向けて言った。
声は低い。
風が葉を撫でるみたいに静かな声。
「この人間の選択に」
一語ずつ、石の上に置く。
「私は並ぶ」
並ぶ。
その言葉が落ちた瞬間、広間の空気が割れた気がした。
怒号でも、歓声でもない。
ただ、人々の心の中で何かがひび割れる音。
王は目を見開く。
貴族は顔色を失う。
民は意味を理解できないまま、ただ息を呑む。
“並ぶ”とは、保護ではない。
庇護でもない。
命令でもない。
同列。
同じ高さで、同じ責任を持つ宣言。
フィオラルは続ける。
「私は、命令しない」
「この者を飾りにしない」
「この者の言葉を、道具にしない」
セリアの喉が熱くなる。
言われたかったわけじゃない。
でも、言われると胸の奥の鎖がもう一本外れる。
フィオラルは、セリアを見ずに言った。
それでも、その言葉はセリアの胸にまっすぐ届く。
「この人間が選ぶなら」
「私も選ぶ」
「拒むなら、私も拒む」
「立つなら、私も立つ」
それは誓いだった。
世界に向けた誓い。
“王”が“王”であることを一度ほどいて、
“個”として誓う言葉。
セリアは、息を吸う。
胸の奥に風が通るような感覚がした。
風が止まっていた森で聞いた、境界が割れる音。
その逆。
今は、風が通る。
縫い目を繋ぐ風が、胸の中を通り抜ける。
怖さが消えるわけじゃない。
怖い。
相変わらず怖い。
でも、怖さが“敵”じゃなくなる。
怖さと一緒に立てる。
それが、風が通る感覚だった。
王ハルディンが声を絞り出す。
「妖精王……」
言いかけて、言葉を変える。
フィオラルの“並ぶ”宣言が、呼び方すら変えてしまった。
「フィオラル殿」
その呼称が、貴族たちの顔を歪める。
王が、妖精王に“殿”をつける。
それは上下ではなく、横の礼儀だ。
フィオラルは王を見た。
目は深い。
でも冷たくない。
ただ、逃げ道を消す目。
「国を救いたいなら」
フィオラルが言う。
「この人間を聖女にするな」
「飾りにするな」
「選択を奪うな」
王は唇を噛み、頷いた。
頷くしかない。
この場で逆らえば、均衡そのものに逆らうことになる。
フィオラルは、ほんの僅かに手を上げた。
指先が、空気に線を引く。
その線が、見えないはずなのに見えた。
光ではない。
透明な“約束”の線。
「第二契約を結ぶ」
契約。
その単語に、貴族が身体をこわばらせる。
彼らにとって契約は奪うものだった。
だが、今目の前にある契約は違う。
奪えない。
支配できない。
ただ、選び合う。
「セリア・アルノート」
フィオラルが名を呼ぶ。
呼ばれた瞬間、セリアの指先の光が小さく脈打つ。
第一契約の印。
ルゥシェとの線が、胸の奥で一度だけ熱くなる。
セリアは頷いた。
「うん」
それだけでいい。
紙も要らない。
印も要らない。
嘘のない言葉だけでいい。
フィオラルは問いを落とした。
短い問い。
重い問い。
「並ぶことを、望むか」
セリアは一瞬だけ目を閉じた。
頭に浮かぶのは、追放の門が閉まる音。
森の霧。
ルゥシェの「生きたい?」
フィオラルの「泣くなとは言わぬ」
民の飢えた匂い。
称号剥奪の静けさ。
全部が胸の中で一つの線になる。
セリアは目を開け、言った。
「望む」
声が震えない。
震えないのが怖いくらい、落ち着いている。
「私は、誰かの上に立たない」
「誰かの下にもならない」
「切り捨てない」
「奪わない」
「嘘をつかない」
言葉が、広間に落ちる。
そして、フィオラルの言葉と重なる。
二つの線が、並ぶ。
その瞬間――光が咲いた。
派手な爆発じゃない。
雷でもない。
花火でもない。
でも、微光が広がる。
セリアの周りだけではなく、広間全体に。
天井の梁、柱の影、床の石の隙間。
そこに、妖精の光が静かに宿る。
“見えない存在”が、“見える形”で世界に誓いを刻む。
第二契約は、世界に向けた誓いになった。
貴族の誰かが膝から崩れ落ちた。
ミレーヌが唇を噛んで泣きそうになる。
エドガーは、何も言えずに立ち尽くす。
“必要”という言葉の置き場所を失った顔で。
そして、その光の中で、セリアは胸の奥に風が通るのを感じた。
呼吸が深くなる。
怖さは消えない。
でも、怖さと一緒に立てる。
今なら、歩ける。
そのとき、胸の奥で小さな笑いがした。
ルゥシェだ。
「……やるじゃん」
声は軽い。
でも、どこか誇らしげで、少しだけ寂しい。
セリアは小声で返す。
「ルゥシェのおかげ」
「違う」
ルゥシェは即答した。
「僕は最初の契約者。最初の線を結んだだけ。歩いたのは君」
その言葉が、胸に刺さって、優しい。
“引っ張らない”距離が、今もそこにある。
「じゃあ、これで……」
セリアが言いかけると、ルゥシェは笑って遮った。
「うん。僕は影に戻る」
「ここから先は、君が前に立つ番」
「でも、消えるわけじゃない」
「影って、そういうもの」
影。
孤独の居場所。
でも今は、孤独が味方の影になっている。
セリアは喉の奥が熱くなって、でも飲み込んだ。
涙は弱さじゃない。
覚悟の塩味だ。
その塩味を、今は胸の奥にしまっておく。
ルゥシェの気配が、ふっと薄くなる。
完全に消えない。
線は残る。
けれど前に出るのをやめた。
最初の契約者は、影に戻った。
フィオラルは最後に、広間に向けて言った。
「この契約は、誰のものでもない」
「奪えない」
「管理できない」
「ただ、選び合う」
その言葉は、貴族制度の喉元に置かれた静かな刃だった。
血を流さずに、嘘だけを切る刃。
セリアは息を吐いた。
長い息。
森の息。
人間の城の中で、森の息をしている自分が、少しだけ可笑しかった。
でも、それが自分だ。
妖精側に立ったまま、人間を終わらせない人間。
怖い。
でも、怖さと一緒に立てる。
第二契約の光が、広間の天井に淡く残り、
この国の形が、静かに書き換わり始めていた。
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