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前編
第十八話
しおりを挟む扉が閉まる音が低く響いたと同時に、音が消えた。
まるで世界そのものが、彼と一緒に出ていってしまったかのように。
アーサーは処理室でひとり、自分の手のひらを見つめていた。
この手があの子に触れてしまった。恐ろしいほどの熱を持って。
『守ってやれ』『よろしくね』
かつて、そう言ってアーサーの肩を叩いた二人の男がいた。
言われなくてもそのつもりだった。翡翠色の大きな瞳も、透き通るような白い肌も、それを引き立たせる嫋やかな黒髪も、守られるために生まれてきたような小さな身体も。初めて見た瞬間から目に焼きついてどうしようもなかった。男とか女とか、アルファとかオメガとか、そういった世の理を知るずっと前のことだ。
だが、約束は反故になったはずだった。
その二人の男が死んだからだ。
それで、彼とももう、二度と会うこともなくなってしまったからだ。
それを皮切りにいろいろなことが起きたから、周りの誰もアーサーに悲しみに浸る余裕を与えてはくれなかった。言われた通り、家のしきたりに沿って生きるのが一番だと信じるようになった。それが実際、一番楽だった。
それなのに、彼は再び現れた。
昔と全く同じ、光を湛えた顔で海を見ていた。
まるでそこに父親が沈んでいることなど、すっかり忘れてしまったかのように。どうしてそんな顔ができるのかわからなかった。
二人から大切なものを奪ったーー海。
いくら頭がよくても、いくら志が高くても、どうにもならない時がいくらでもある場所だ。そんなところであんな小さな体で、どうやって戦っていくのだろう。
心臓がひどく強く脈打った。
そして胸の奥にずっと封じていた何かが、静かに軋んで目を覚ました。
どうにかしなければならないと思った。
行かせてはならない、と。
その方法を一年間考えた。彼はアーサーのことを忘れているようだった。ゆっくり近づいて思い出させるべきかとも思ったが、下級生に気軽に声をかけられるような性格ではない。
講義の合間や廊下で偶然視線が交わるたびに、胸の奥で焦げつくような痛みが走った。彼にヒートの時期が来てほかのアルファが騒ぐたび、胸がざわめいた。
そして彼に入学して四回目のヒートが来た時、ようやくいい考えが浮かんだ。
ーー番にすればいい。
彼はオメガだ。アルファと番ってしまえば前線には行けなくなる。許嫁はいるが、オメガの愛人がいるアルファなどアーサーの家系では珍しくない。
それならーー身体を飼いならしてしまえばいい。そうすればなし崩しになって、番関係が成立する可能性も高いだろう。オメガの身体は快楽に弱いときくし。
彼は全ての申請を断っているらしかったが、自分のアルファとしての魅力には自信があった。だから、信頼出来る寮長を粧って、寮の風紀ためだと言って近づいた。正式にそれが受理されたと聞いた時は、思わず暗い笑みが溢れてしまった。
だが、誤算だった。
触れた瞬間ーー恐ろしい予感がアーサーの脳内を駆け巡ったのだ。
そんな生ぬるい物ではないのではないか。
本当にーー運命じみた何かが、ここにあるのではないか。
彼が泣くとアーサーの体も裂けるように痛かった。彼が興奮すると全身が燃えるように熱くなった。その唇を、体を、心をーー全部自分のものにしたくなった。
うなじを噛みたくなった。
噛まなければならないと思った。
そしてーーふとした拍子に、愛の言葉を囁きたくなってしまった。
これはそういう類の愛ではない。そう思っていた。もっと高潔で純真な、例えるならーー親が子に向けるような、そういう慈愛の類だと。
それなのに、こんな熱を知ってしまったら。
もう、誰にも触れさせたくない。
彼以外の誰にも触れたくない。
海にーー行ってほしくない。絶対に死んでほしくない。
ただそれだけの願いが、どうしてこんなにも罪に似た響きを纏っているのか。
どうして、この胸を焼き尽くすほど苦しいのか。
伝えてしまえば離れていくだろうこともわかっていた。それでも言ってしまった。
こんなふうに自分の願望をストレートに言葉にしてしまったことなど、一体いつぶりだろうか。
何はともあれ失敗したのだ。今までの全てが無駄になった。
これから先、どうしたらいいのか、見当もつかない。
どんなふうに彼と――そして、自分の未来と向き合えばいいのか。
手のひらをぐっと握りしめる。
その奥にまだ、彼の熱が残っていた。
焦燥と痛みだけが、アーサーの身体を駆け巡っていた。
ー前編 終ー
読者の皆さまへ
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
次の更新は10/20(月)を予定しています。
お待たせして申し訳ありませんが、少々お時間いただけますと幸いです。
ナカムラ ツユ
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