堅物侯爵令息から言い渡された婚約破棄を、「では婚約破棄会場で」と受けて立った結果

有沢楓花

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婚約破棄の成立、または話し合いと相互理解の結果

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 真剣な顔から飛び出た似つかわしくないその書名に、やっと来たな、とミルドレッドは思った。
 昨日一巻だけは予習にと読んだのだが、流行だけあってなかなか面白かった。もし彼が書かれている通りに実行すれば、館のひとつでもプレゼントしてくるだろう、という点を除けば。

「そして第3巻『氷の騎士様の誓いは、永久凍土のように』には最近の新たな騎士像も描かれていた。騎士の忠誠は愛とは違う、と。女性には伝わらない、笑顔で愛を自ら告げる必要があると――」
「全タイトル覚えてるんですか、私読んでないですけど」
「だから婚約を破棄してくれ、ミルドレッド嬢」
「はい、今すぐに」

 だから、という言葉と婚約破棄が全く繋がっていない。
 分からない。さっぱり分からないが、いい加減疲れていたミルドレッドは頷くとオリアーナからテレンスへ手続き書類を渡してもらう。
 ちゃんと両者の条件や立会人のサイン欄があるものだ。

「私、慰謝料はいりません。今後なるべく接触したくないのでなかったことにしましょう、新たにできた好きな方には、素直になれるといいですね」

 ミルドレッドは扇を机の上に置くと、そっと息を吐き、テレンスに向けて軽く頭を下げた。

「それに……よく考えれば、なあなあにしてきた私にも非があります。親の意向と、子爵家と侯爵家との力関係だけを気にしていました。本心も話さず、あなたの本心を聞くことにためらいがありました」

 婚約者がいない令嬢など他にもいるのに、みじめな令嬢として扱われたり、そんな自分が風紀委員として信用を失うのでは、風紀委員会に迷惑をかけるかもなんて思ってもいた。彼に語ることなく。

「……それに、自分が無価値なようにずっと思って……いました。これ以上無価値だと思い知らされるのは嫌だったのです」
「……いやミルドレッド嬢、申し訳ない。そんなに傷ついているとは……」
「言っておきますが、恋心ではありません。エインズワース様でなくても、誰が相手でも同じです」
「……」
「ただ、本当に。そのままにしてここまで来てしまったのは私にも確かに、非があります。ひどい思い込みでした」

 オリアーナが首を振った。

「いや、ミルドレッドを放置しておいて素直になれないとかどうなのって思うよ」
「まあ、話しかけても応じてもらえなかったら頑張る気も普通なくなりますよね」
「学習性無力感っていうんだよ」
「そう、それです。……では条件を決めましょう」

 ミルドレッドの視線を受け、オリアーナがテレンスにペンを取るよう促した時。

「――まだ大いなる誤解をしている。ミルドレッド嬢」
「……はい?」

 テレンスの決意を秘めた声に顔を向けると、何故かもじもじと俯いている。正直似合っていないとミルドレッドは思ったが、それを指摘するほどには残酷な感性は持っていなかった。

「……その……3歳以降の話だ。あれからオリアーナ嬢のお茶会で、何度か見かけたんだ。
 野茨の合間でも駆け回る君が可愛らしいと話したら、浮かれた両親が勝手に君の両親に婚約を申し込んだんだ。今になって考えれば、侯爵家からの申し出を子爵家は断りにくかっただろうに」
「お気遣いどうもありがとうございます。次はご自身で婚約できるよう頑張ってくださいね」
「だから、違う……っ!」

 手を机に突き前傾姿勢になるテレンスに、ミルドレッドはしつこいな、という顔をあからさまにした。ポーズではなく、本心からそう思っている。

「何が違うんですか」
「だから、婚約するために破棄したかったんだ」
「だから今、婚約破棄をしますよ?」
「話すのに緊張していたと言っただろう。
 つまり、君と婚約するために、政略結婚でなくもう一度婚約を申し込むために。政略など関係なく、君を愛しているのだと、一生愛し抜く許しが欲しい。
 ――ミルドレッド嬢、わたしは君が好きだ! 今すぐ婚約して欲しい」

 会場に響き渡る告白。
 残響が消え去った後、会場に静寂が満ちた。
 ミルドレッドは耳を疑って、傍聴席を見た。カインと婚約者も呆然としている。

「え、……嫌です」

 ミルドレッドは淡々と、平常心よりも冷えた心で、ゆるく首を振る。

「何故」
「人前でサプライズのプロポーズとか私の趣味じゃありません。絶対無理」
「し、しかし君を目の前にすると緊張してしまって二人では話せない」
「そんなの知りません。さっきからそちらの都合ばかり」
「……ぐっ」

 息を詰めるテレンスは騎士というより、もう中学生くらいの情緒の少年に見えた。
 オリアーナは肩を竦め、立会人として口を開く。

「ねえエインズワースさん、分かったでしょう。あなたはファラーさんも身分差の圧を受けていたってことも、実は割ときっぱり言う性格なことも知らなかった。放置して傷つけていたこともね」

 次に彼女はミルドレッドの方を見やり、

「――で、ファラーさんも、政略結婚だからってずっと猫を被ってたし、エインズワースさんがどんな人だったか、やっぱり良く知らなかった。
 経緯もあったし自己評価が低くなってるのは分かるけど、これだけ真っ赤なの見たら少しは察しても良かったと思うよ」
「……そうだな」
「……はい」

 オリアーナは立会人らしく、先輩らしくいかめしく頷く。少々わざとらしかったが。

「ここはね、本来話し合いの場所なんだよ。話し合いっていうのは、お互いに妥協点を見つけるってこと――少しでもより良い方向に行くためのね。
 話し合いは1回で決まるわけじゃないし、何回でもしていい」

 オリアーナの言葉の余韻がかき消えてしまう前に、テレンスは軽く息を吐くとミルドレッドを見やった。そこにはもう羞恥も執着も残っていない。
 見返すミルドレッドはそこで、ようやくまともに、同じような平常心で彼を見られた気がした。

「……いや。婚約はやはり破棄しよう。それでいいだろうか」
「はい」

 淡々と尋ねられ、淡々と返す。
 さらさらと、書類にテレンスは名前だけをサインしてしまった。
 条件のところには何も書かれていない。

「……これは」
「好きな条件を入れるといい」
「軽んじられているようで最悪な気分です」
「……そこは君を信じている」
「私のことを何も知らないのに?」
「遠くから見ていた」

 はっとしてミルドレッドがオリアーナを見ると、呆れたように頷いた。

「……何かあるとずっと見つめてたんだよ。割と不気味だった、気付かなかった?」
「気付きませんでした。視界の端に入っても鹿のつもりで気にしないようにしていたので。……そうですね、これから気を付けます」
「いや……こちらも話しかければ済んだことだ。婚約者でも二人きりで結婚前の男女が話すのは良くないだろうと、勝手に決めていた」

 ミルドレッドはその言葉に、ペンを持ったまましばらく迷っていたが、結局条件には何も書かずにサインして書類をオリアーナに渡してから、

「エインズワース様は、ご両親のご意向は宜しいのですか。あなたのお気持ちを汲んで子爵家などと縁を結ぼうとしたのに」
「いや、君の子爵家の領地は、交通と商売の面で、かなりエインズワースにもメリットがもたらされるはずだったから、気にしなくていい」

 それはもっと悪いのではないかな、とミルドレッドは思うが、テレンスは損得など気にしていないようだった。

「ただ今までわたしは、兄のためにも家のためにも、立派な騎士である必要があった。父を尊敬していた――が、よく考えれば子の前でも母といちゃいちゃしていたな。あんな男、騎士としてどうかと思う」
「は、反抗期。……いえ、失礼しました」
「反抗期でもいい」

 テレンスがつい漏れてしまった無礼な感想にごく真面目に返したので、ミルドレッドはつい笑ってしまった。 
 しかしこの堅物――いやかなりズレている男が、婚約破棄をしようと自分で思い付いて実行したのだ。変わろうとは思っていたのだろう。
 少なくとも、今日は数年分一気に話している。

「どうも君に思うように話してもらった方が、自分がどれだけズレているのか分かっていいと思う。……侯爵家の人間だからと周囲が遠慮しすぎる」

 そう言った目元に戸惑いが見えて、ミルドレッドは初めてこの人が本当は単に孤独なまでにストイック過ぎたのだろうな、と思った。
 そうしたのは自分もだ――人間関係は0-100で割り切れるものではない。

「……分かりました。最後に、私もあなたの言葉が本当か確かめてみます。まずは1メートル」

 ミルドレッドは自席から出ると、部屋の中央に進み出る。

「50センチ」

 言いながら机を挟んでテレンスの前に立てば、何かを耐えるように彼は口元をゆがませていた。

「……入りますね、20センチくらい? 普通の距離ですが」

 今度は、秀麗な顔が何か恐ろしいものを見るように。
 最後に手を伸ばして腕にちょんと指先で触れると、テレンスは身を引いて――やめてくれ、と顔を腕で隠した。首筋から耳まで赤くなっている。

「……済まない。だが婚約破棄をしても、可能ならチャンスが欲しい。友人からでも……」
「いえ、友人の知人くらいから始めましょう。それなら他の方のことを好きになっても後腐れないでしょう」
「そうか、君の希望なら了解した」

 話がまとまった。
 二人が同じタイミングで立会人の方を向いたので、オリアーナは細く息を吐く。

「――分かった、それで大丈夫そうだね。あとはテレンス、女生徒との距離感をカインから教えてもらうんだね。ミルドレッドも、よく相手の話を聞いて、不確かなことは相手に確認すること」

 オリアーナが言えば、傍聴席で目を瞬くカインだったが、隣の婚約者は乗り気そうだった。

「ごめんねカイン、あとで学食のスペシャルランチセットを2人前10日分おごるから」
「……仕方ないなぁ」



 後輩が快く仕事を引き受けてくれた後、律儀にカインに礼を言ったテレンスは、会場を出る直前にぴしりと屹立すると、最後に深くミルドレッドに頭を下げた。

「ミルドレッド嬢――いや、ファラーさん。では、また」
「……はいまた。エインズワース様」

 そういえば、自分は今までさようならと言っていた気がする。

 ――なんだ、会いたいとは伝えられていたのか。
 
 不器用すぎてどうにもならない元婚約者の背中を見送って、ミルドレッドは思い込みの激し過ぎる自身の頭を振った。
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