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無自覚な侵食
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決定が下るまでの数日間は、まるで真綿で首を絞められるような時間だった。
両親の「画策」は、正式な通達を待たずして、既成事実として屋敷の隅々にまで浸透し始めていた。
学園から帰宅した私は、いつものように自分の執務室へと足を向けた。そこは、十歳の時から私がアトリー伯爵家の後継者として、領地の帳簿をつけ、騎士団への予算書を書き、小作人との折衝案を練ってきた「私の城」だ。
けれど、扉の前で足が止まった。中から、甘く、ふんわりとした花の香りが漂ってきたからだ。
「……お姉様?」
扉を開けると、そこには私の重厚な黒檀の机に座り、楽しげに刺繍箱を広げているカトリーヌ姉様の姿があった。
私の大切な資料は乱雑に端へ追いやられ、代わりに色とりどりのシルク糸と、甘い焼き菓子の皿が机を占領している。
「あら、セリーヌ。おかえりなさい。ふふ、見て。ここ、窓が大きくて光がとっても綺麗に入るのね。刺繍をするのにぴったりだわ」
お姉様は、まるで子供が新しい遊び場を見つけたかのような無邪気な笑顔を向けた。
「……お姉様。ここは、私が仕事をするための部屋です。私物を持ち込まないでいただけますか。その地図の上にお皿を置かないで。それは、来月の灌漑工事の重要な図面なんです」
私が慌てて図面を手に取ろうとすると、お姉様は困ったように眉を下げた。
「あら、ごめんなさい。でもお母様が仰っていたわ。セリーヌはしっかりしているから、どこでだって仕事ができるでしょって。私は今、お部屋に一人でいると悲しいことを思い出してしまうから……この明るい部屋で過ごしなさいって」
お姉様の手が、私のインク壺に触れる。それは私が領地の視察で初めて大きな成果を上げた時、お父様が「跡継ぎへの期待」を込めて贈ってくれたものだ。
「このインク壺、とっても素敵。私の部屋の可愛らしいものより、こういう実用的な装飾の方が今の私の気分に合うの。セリーヌ、これ、私に譲ってくれないかしら?」
「お断りします。それは、私が……」
私がどれほどそのインクを消費し、指を汚して領地のために尽くしてきたか。その証である傷だらけのインク壺さえ、姉様にとっては「今の気分」で取り替える装飾品の一つに過ぎないのだ。
「……セリーヌはいいわよね、しっかりしていて」
お姉様は私の拒絶を、まるで聞こえなかったかのように聞き流した。彼女の瞳には、自分の「欲しい」という欲求と、それを正当化する「悲劇」しかない。
「私みたいに弱くないから、思い出の品がなくても平気でしょう? 私は今、ジェラルド様に捨てられて、心に穴が開いたみたいなの。それを埋めるために、何か『素敵なもの』を側に置きたいのよ。妹なら、お姉様を助けてくれるわよね?」
……助ける? 私の誇りを奪うことが、彼女の救済になるというのか。言葉を失う私の背後から、聞き慣れた足音が近づいてきた。
「カトリーヌ様、お待たせしました。……おや、セリーヌもいたのか」
クロード様だった。彼は手に、お姉様が好きだと言っていたラベンダーの花束を抱えていた。
「クロード様! 聞いて、セリーヌったら、私にこのお部屋を貸すのが嫌なんですって。少しの間だけなのに」
「セリーヌ」
クロード様の声が、咎めるように私を刺した。
「君はいつも自分の権利ばかり主張するが、今のカトリーヌ様の境遇を考えたことがあるのか? 彼女はクレイグ侯爵家に、いわば使い古しの道具のように放り出されたんだ。彼女の心が、どれほど自尊心を傷つけられたか……。君のように恵まれた後継者には、想像もつかないだろうね」
『使い古しの道具』…… その言葉を、よりにもよって貴方が使うのですか。
私が今、お姉様の「お下がり」の人生を強要されようとしていることに、貴方は気づきもしないで。
「……クロード様、今日は私と一緒に、新しく導入する農具の選定をする約束でしたよね」
「ああ、それならカトリーヌ様にも手伝っていただくことにしたよ。彼女も、これからは家の仕事に触れて気分を紛らわせたいと仰っているんだ。……セリーヌ、君の注文していたあの『ラピスラズリのドレス』も、カトリーヌ様に譲ることに決まったと、伯爵閣下から聞いたよ」
頭を殴られたような衝撃だった。
あのドレスは、私の十五歳の誕生日に、私の瞳の色に合わせて誂えられた、世界に一着だけのものだ。学園のパーティーで、クロード様と一緒に踊るために、大切に保管していたのに。
「あれは、私のサイズで仕立てたものです。お姉様には……合いません」
「お直しに出せば済むことだ。カトリーヌ様のような美しい方があの青を纏えば、どれほど輝くか。……君はまた、別のものを新調すればいいだろう?」
クロード様はそう言うと、ごく自然な動作でカトリーヌお姉様の隣に座り、彼女に花を差し出した。
お姉様は「嬉しい! ありがとうございます、クロード様」とはしゃぎ、私の机の上で、二人の睦まじい世界を作り上げた。
私の城。私の思い出。私のドレス。そして、私の婚約者。
それらが一つずつ、カトリーヌ姉様の手によって「悪気なく」剥ぎ取られていく。
私は一人、暗い廊下を歩く。
お姉様。貴女は、私が大切にしているものを奪っているという自覚すら、持っていないのでしょうね。
__________
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両親の「画策」は、正式な通達を待たずして、既成事実として屋敷の隅々にまで浸透し始めていた。
学園から帰宅した私は、いつものように自分の執務室へと足を向けた。そこは、十歳の時から私がアトリー伯爵家の後継者として、領地の帳簿をつけ、騎士団への予算書を書き、小作人との折衝案を練ってきた「私の城」だ。
けれど、扉の前で足が止まった。中から、甘く、ふんわりとした花の香りが漂ってきたからだ。
「……お姉様?」
扉を開けると、そこには私の重厚な黒檀の机に座り、楽しげに刺繍箱を広げているカトリーヌ姉様の姿があった。
私の大切な資料は乱雑に端へ追いやられ、代わりに色とりどりのシルク糸と、甘い焼き菓子の皿が机を占領している。
「あら、セリーヌ。おかえりなさい。ふふ、見て。ここ、窓が大きくて光がとっても綺麗に入るのね。刺繍をするのにぴったりだわ」
お姉様は、まるで子供が新しい遊び場を見つけたかのような無邪気な笑顔を向けた。
「……お姉様。ここは、私が仕事をするための部屋です。私物を持ち込まないでいただけますか。その地図の上にお皿を置かないで。それは、来月の灌漑工事の重要な図面なんです」
私が慌てて図面を手に取ろうとすると、お姉様は困ったように眉を下げた。
「あら、ごめんなさい。でもお母様が仰っていたわ。セリーヌはしっかりしているから、どこでだって仕事ができるでしょって。私は今、お部屋に一人でいると悲しいことを思い出してしまうから……この明るい部屋で過ごしなさいって」
お姉様の手が、私のインク壺に触れる。それは私が領地の視察で初めて大きな成果を上げた時、お父様が「跡継ぎへの期待」を込めて贈ってくれたものだ。
「このインク壺、とっても素敵。私の部屋の可愛らしいものより、こういう実用的な装飾の方が今の私の気分に合うの。セリーヌ、これ、私に譲ってくれないかしら?」
「お断りします。それは、私が……」
私がどれほどそのインクを消費し、指を汚して領地のために尽くしてきたか。その証である傷だらけのインク壺さえ、姉様にとっては「今の気分」で取り替える装飾品の一つに過ぎないのだ。
「……セリーヌはいいわよね、しっかりしていて」
お姉様は私の拒絶を、まるで聞こえなかったかのように聞き流した。彼女の瞳には、自分の「欲しい」という欲求と、それを正当化する「悲劇」しかない。
「私みたいに弱くないから、思い出の品がなくても平気でしょう? 私は今、ジェラルド様に捨てられて、心に穴が開いたみたいなの。それを埋めるために、何か『素敵なもの』を側に置きたいのよ。妹なら、お姉様を助けてくれるわよね?」
……助ける? 私の誇りを奪うことが、彼女の救済になるというのか。言葉を失う私の背後から、聞き慣れた足音が近づいてきた。
「カトリーヌ様、お待たせしました。……おや、セリーヌもいたのか」
クロード様だった。彼は手に、お姉様が好きだと言っていたラベンダーの花束を抱えていた。
「クロード様! 聞いて、セリーヌったら、私にこのお部屋を貸すのが嫌なんですって。少しの間だけなのに」
「セリーヌ」
クロード様の声が、咎めるように私を刺した。
「君はいつも自分の権利ばかり主張するが、今のカトリーヌ様の境遇を考えたことがあるのか? 彼女はクレイグ侯爵家に、いわば使い古しの道具のように放り出されたんだ。彼女の心が、どれほど自尊心を傷つけられたか……。君のように恵まれた後継者には、想像もつかないだろうね」
『使い古しの道具』…… その言葉を、よりにもよって貴方が使うのですか。
私が今、お姉様の「お下がり」の人生を強要されようとしていることに、貴方は気づきもしないで。
「……クロード様、今日は私と一緒に、新しく導入する農具の選定をする約束でしたよね」
「ああ、それならカトリーヌ様にも手伝っていただくことにしたよ。彼女も、これからは家の仕事に触れて気分を紛らわせたいと仰っているんだ。……セリーヌ、君の注文していたあの『ラピスラズリのドレス』も、カトリーヌ様に譲ることに決まったと、伯爵閣下から聞いたよ」
頭を殴られたような衝撃だった。
あのドレスは、私の十五歳の誕生日に、私の瞳の色に合わせて誂えられた、世界に一着だけのものだ。学園のパーティーで、クロード様と一緒に踊るために、大切に保管していたのに。
「あれは、私のサイズで仕立てたものです。お姉様には……合いません」
「お直しに出せば済むことだ。カトリーヌ様のような美しい方があの青を纏えば、どれほど輝くか。……君はまた、別のものを新調すればいいだろう?」
クロード様はそう言うと、ごく自然な動作でカトリーヌお姉様の隣に座り、彼女に花を差し出した。
お姉様は「嬉しい! ありがとうございます、クロード様」とはしゃぎ、私の机の上で、二人の睦まじい世界を作り上げた。
私の城。私の思い出。私のドレス。そして、私の婚約者。
それらが一つずつ、カトリーヌ姉様の手によって「悪気なく」剥ぎ取られていく。
私は一人、暗い廊下を歩く。
お姉様。貴女は、私が大切にしているものを奪っているという自覚すら、持っていないのでしょうね。
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