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翌日の早朝、私とアシュトン様は、エマの案内で、森の奥深くへと向かっていた。
その老人ハンスが、住むという場所だ。
護衛として、ダリウスさんとレオさんも同行してくれている。
戦いの後、二人の間のぎこちない空気はすっかり消えていた。
今では、まるで兄弟のように息の合ったコンビになっている。
「しかし、本当にこんな森の奥に人が住んでるのかねえ。」
ダリウスさんが、周囲を警戒しながら、訝しげに呟く。
道なき道を進むこと、およそ一時間。
木々の隙間から、小さな明かりが見えてきた。
古びた、小さな山小屋だ。
煙突からは、細く白い煙が立ち上っている。
「あそこです。」
エマが、小さな声で指差した。
私達が小屋に近づくと、中から犬の吠える声が聞こえてきた。
そして、ギィ、と軋むような音を立てて、小屋の扉がわずかに開く。
隙間から覗いたのは、鋭く、猜疑心に満ちた一つの目だった。
「何の用だ。ここには、貴族様が来るような場所じゃねえ。」
「さっさと帰りな。」
扉の向こうから、しゃがれた、不機嫌そうな声が響く。
エマの言っていた通り、相当な人嫌いであることは、すぐに分かった。
アシュトン様が、一歩前に進み出た。
「突然の訪問、失礼する。俺は、グレイウォール辺境伯、アシュトンだ。」
「あなたに、どうしてもお聞きしたいことがあって参った。」
領主が自ら名乗ったにも関わらず、老人の態度は変わらなかった。
「辺境伯様だろうが、国王陛下だろうが、知ったこっちゃねえ。」
「俺は、もう誰とも関わるつもりはねえんだ。」
そう言うと、扉はぴしゃりと閉められてしまった。
取り付く島もない、とはこのことだ。
「ちっ、なんて野郎だ。」
ダリウスさんが、苛立ったように扉を蹴ろうとする。
それを、私は手で制した。
「お待ちください、ダリウスさん。ここは、私に任せていただけますか。」
「しかし、リリアーナ様。」
「大丈夫です。」
私はにっこりと微笑むと、固く閉ざされた扉の前に立った。
そして、中にいる老人に聞こえるように、穏やかな声で語りかけた。
「申し訳ありません、突然押しかけてしまって。驚かれたことでしょう。」
「私、リリアーナと申します。」
中からの返事はない。
だが、私は構わず続けた。
「私達は、あなた様を無理やりどうこうしようというのではありません。」
「ただ、あなた様のお知恵を、少しだけお借りしたいのです。」
「この、凍てついた土地を、緑豊かな場所に変えるために。」
「あなた様が、かつて、先代の辺境伯様と共に、その夢を追いかけていらっしゃったと聞きました。」
「その志を、私達に、継がせてはいただけないでしょうか。」
私は、彼のプライドを傷つけないように、慎重に言葉を選んだ。
教えてほしい、ではなく、継がせてほしい、と。
彼の過去の功績への敬意を、明確に示したのだ。
しばらくの沈黙。
やがて、扉の向こうから、諦めたような、ため息混じりの声が聞こえてきた。
「好きにしろ。だが、茶も出さんぞ。」
再び、扉がゆっくりと開かれた。
中から現れたのは、腰の曲がった、小柄な老人だった。
顔には深い皺が刻まれ、その目は、長年の苦労と不信感で濁っているように見えた。
私達は、彼の後に続いて、薄暗い小屋の中へと入った。
中は、様々な薬草や、見たこともない植物の種で埋め尽くされている。
壁には、古い羊皮紙が何枚も貼られていた。
そこにはびっしりと、植物のスケッチや、土壌の分析結果のようなものが書き込まれている。
彼が、長年、たった一人で研究を続けてきたことが、一目で分かった。
老人は、ハンスと名乗った。
彼は、私達に椅子を勧めるでもなく、自分だけ丸太の椅子にどかりと腰を下ろした。
「で、話というのは何だ。手短に頼む。」
その態度は、相変わらず刺々しい。
アシュトン様が、口を開いた。
「単刀直入に聞く。この土地で、収穫量を増やす方法はないだろうか。」
「我々は、食糧不足で、このままでは冬を越せないかもしれない。」
その切実な言葉に、ハンスさんは、ふん、と鼻を鳴らした。
「今更、何だ。そんなことは、何十年も前から分かっていたことだろうが。」
「先代様も、あんたの親父さんも、必死だった。」
「王都に何度も陳情し、新しい農法を試すための予算を、と頭を下げていた。」
「だが、結果はどうだ。王都の連中は、俺たちから税金を搾り取ることしか考えちゃいねえ。」
「先代様が戦で亡くなったのも、元はと言えば、王都が見殺しにしたからじゃねえか。」
彼の言葉には、王家に対する深い、根深い不信感がこもっていた。
その鋭い視線が、私の胸に突き刺さる。
私は、その王家の人間なのだから。
私は、彼の視線をまっすぐに受け止めた。
そして、はっきりと告げた。
「おっしゃる通りです。エルミート王家が、この辺境領にしてきた仕打ちは、決して許されるものではありません。」
私の意外な言葉に、ハンスさんだけでなく、アシュトン様たちも驚いたように目を見開いた。
「私自身、その王家から、魔力を持たない『無能』として、厄介払いされた人間です。」
「ここに嫁がされたのも、事実上の追放でした。」
「ですから、あなた様が王家を憎むお気持ちは、痛いほど分かります。」
私は、自分の素性を包み隠さず話した。
相手に心を開いてほしければ、まず、自分から心を開かなければならない。
これは、カウンセリングの基本中の基本だ。
私の告白に、ハンスさんの険しい表情が、わずかに揺らいだ。
彼の濁った瞳が、探るように私を見つめている。
「ですが、アシュトン様は違います。彼は、王都のやり方に頼らず、自分たちの手で、この土地を変えようとしています。」
「ここにいる騎士団の皆さんも、領民も、そのために一つになろうとしています。」
「私達は、もう、誰かの施しを待つつもりはありません。」
「自分たちの未来は、自分たちの手で切り拓く。その覚悟が、私達にはあります。」
私は、彼の目を見て、訴えかけた。
「どうか、あなた様のお力を貸してください。」
「あなた様が、先代様と夢見た、この土地を緑で満たすという夢を、私達と一緒に、もう一度、追いかけてはいただけませんか。」
小屋の中は、静まり返っていた。
暖炉の薪が、ぱちぱちと爆ぜる音だけが聞こえる。
ハンスさんは、何も言わず、ただじっと私の顔を見つめていた。
その瞳の奥で、長年凍てついていた何かが、ゆっくりと溶け出していくのが分かった。
長い、長い沈黙の後、彼は、深く、深く、ため息をついた。
「先代様に、そっくりだ。あんたのその目は。」
彼は、アシュトン様に向かって、ぽつりと呟いた。
「諦めの悪いところも、民を思う心が人一倍強いところもな。」
「そして、どこからか、とんでもねえ嫁さんを見つけてくるところも。」
最後の言葉は、私を見て言ったものだった。
その口元には、かすかな笑みが浮かんでいる。
彼は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、壁に貼られた古い羊皮紙の一枚を、丁寧に剥がした。
「いいだろう。俺の知っていること、全てを話してやる。」
「ただし、生半可な覚悟なら、今すぐ帰れ。」
「北の大地は、そんなに甘くはねえぞ。」
その言葉は、彼が、私達の仲間になってくれたことを意味していた。
私とアシュトン様は、顔を見合わせ、力強く頷いた。
その日から、辺境領の改革は、新たな段階へと入った。
ハンスさんの指導の元、私達は、彼が長年研究してきた、新しい農業計画を実行に移し始めたのだ。
計画の柱は、二つある。
一つは、スノー・ウィートと呼ばれる、耐寒性に非常に優れた小麦の栽培。
もう一つは、この土地の豊富な地熱を利用した、温室の建設だった。
「スノー・ウィートは、普通の小麦に比べて収穫量は少ない。」
「だが、この土地の厳しい寒さの中でも、確実に実をつける。」
「まずは、これで最低限の食料を確保するんだ。」
「そして、温室では、栄養価の高い野菜を育てる。」
「これが成功すれば、領民たちの栄養状態は、劇的に改善されるはずだ。」
ハンスさんの計画は、非常に合理的で、希望に満ちたものだった。
問題は、それを実行するための、圧倒的な人手不足だった。
その問題を解決したのは、意外な人物たちだった。
騎士団の兵士たちだ。
「俺たちも、手伝いますぜ。」
ダリウスさんが、率先してそう申し出てくれたのだ。
彼に続くように、レオさんや、他の兵士たちも、次々と名乗りを上げた。
「訓練の合間なら、いくらでも時間はあります。」
「剣を振るうだけが、騎士の仕事じゃねえって、リリアーナ様に教わりましたからね。」
こうして、辺境の騎士たちが、鍬や鋤を手に、畑を耕すという、前代未聞の光景が生まれた。
最初は、慣れない農作業に、誰もが悪戦苦闘していた。
ダリウスさんは、力を入れすぎて鍬を何本も折り、ボルツさんは、その大きな体で、蒔いたばかりの種を踏み荒らしてしまう。
その度に、ハンスさんの雷が落ちる。
「この、唐変木どもが。もっと、土に敬意を払わんか。」
しかし、兵士たちの顔には、笑顔が絶えなかった。
訓練場での厳しい表情とは違う、生き生きとした表情。
土に触れ、汗を流し、自分たちの手で未来を育てるという作業は、彼らの心を癒やしていくようだった。
心理学で言う、園芸療法に近い効果があったのかもしれない。
騎士団と領民たちが、一緒になって畑仕事に励む姿は、この土地に、新しい一体感を生み出していた。
身分の違いも、過去のわだかまりも、汗と土の匂いの中に、溶けて消えていくようだった。
私は、そんな彼らのために、休憩時間には温かいお茶や食事を運ぶ。
そして、一人ひとりに声をかけて回った。
肉体的な疲労だけでなく、心のケアも、忘れてはならない。
そんな日々の中で、私は、もう一つの課題に気づいていた。
子供たちのことだ。
この土地には、戦いで親を亡くした孤児や、貧しさから、満足な教育を受けられない子供たちが、たくさんいた。
彼らの心にも、未来への希望の種を蒔かなければならない。
私は、城の空き部屋を一つ借りて、小さな寺子屋のようなものを開くことにした。
文字の読み書きや、簡単な計算。
そして、私が前世で知っていた、様々な物語を、彼らに聞かせてあげるのだ。
最初は、警戒して遠巻きに見ていただけの子供たちも、私の元へ集まってくるようになった。
私が、辛抱強く語りかけるうちに、一人、また一人と。
その日も、私は、数人の子供たちに囲まれて、物語の読み聞かせをしていた。
子供たちの目は、キラキラと輝いている。
その純粋な光を見ていると、私の心まで洗われるようだった。
そんな穏やかな時間の最中、一人の偵察兵が、血相を変えて部屋に駆け込んできた。
そのただならぬ様子に、子供たちの間に不安が広がる。
「リリアーナ様。大変です。」
「あの、黒いローブの連中が活動していた森の奥で、奇妙なものを発見しました。」
「落ち着いて。何があったのですか。」
「はっ。それが、その、まるで、祭壇のようなものが。」
「そこには、あの不気味な蛇の紋章と、そして。」
偵察兵は、言葉を区切り、ごくりと唾を飲み込んだ。
彼の顔は、恐怖に青ざめている。
私も、胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。
脅威は、まだ、すぐそこまで迫っている。
私は、不安がる子供たちを安心させるように、優しく微笑みかけた。
「大丈夫よ。すぐに、戻ってくるからね。」
そう言い残し、私は偵察兵と共に、アシュトン様のいる執務室へと急いだ。
執務室の扉を開けると、そこにはアシュトン様とギデオンさんが、深刻な顔で地図を睨みつけていた。
偵察兵からの報告は、すでに彼らの耳にも届いていたのだろう。
部屋の空気が、ぴんと張り詰めている。
私が入ってきたことに気づくと、アシュトン様が顔を上げた。
その灰色の瞳には、領主としての厳しい光と、私への気遣いが滲んでいた。
その老人ハンスが、住むという場所だ。
護衛として、ダリウスさんとレオさんも同行してくれている。
戦いの後、二人の間のぎこちない空気はすっかり消えていた。
今では、まるで兄弟のように息の合ったコンビになっている。
「しかし、本当にこんな森の奥に人が住んでるのかねえ。」
ダリウスさんが、周囲を警戒しながら、訝しげに呟く。
道なき道を進むこと、およそ一時間。
木々の隙間から、小さな明かりが見えてきた。
古びた、小さな山小屋だ。
煙突からは、細く白い煙が立ち上っている。
「あそこです。」
エマが、小さな声で指差した。
私達が小屋に近づくと、中から犬の吠える声が聞こえてきた。
そして、ギィ、と軋むような音を立てて、小屋の扉がわずかに開く。
隙間から覗いたのは、鋭く、猜疑心に満ちた一つの目だった。
「何の用だ。ここには、貴族様が来るような場所じゃねえ。」
「さっさと帰りな。」
扉の向こうから、しゃがれた、不機嫌そうな声が響く。
エマの言っていた通り、相当な人嫌いであることは、すぐに分かった。
アシュトン様が、一歩前に進み出た。
「突然の訪問、失礼する。俺は、グレイウォール辺境伯、アシュトンだ。」
「あなたに、どうしてもお聞きしたいことがあって参った。」
領主が自ら名乗ったにも関わらず、老人の態度は変わらなかった。
「辺境伯様だろうが、国王陛下だろうが、知ったこっちゃねえ。」
「俺は、もう誰とも関わるつもりはねえんだ。」
そう言うと、扉はぴしゃりと閉められてしまった。
取り付く島もない、とはこのことだ。
「ちっ、なんて野郎だ。」
ダリウスさんが、苛立ったように扉を蹴ろうとする。
それを、私は手で制した。
「お待ちください、ダリウスさん。ここは、私に任せていただけますか。」
「しかし、リリアーナ様。」
「大丈夫です。」
私はにっこりと微笑むと、固く閉ざされた扉の前に立った。
そして、中にいる老人に聞こえるように、穏やかな声で語りかけた。
「申し訳ありません、突然押しかけてしまって。驚かれたことでしょう。」
「私、リリアーナと申します。」
中からの返事はない。
だが、私は構わず続けた。
「私達は、あなた様を無理やりどうこうしようというのではありません。」
「ただ、あなた様のお知恵を、少しだけお借りしたいのです。」
「この、凍てついた土地を、緑豊かな場所に変えるために。」
「あなた様が、かつて、先代の辺境伯様と共に、その夢を追いかけていらっしゃったと聞きました。」
「その志を、私達に、継がせてはいただけないでしょうか。」
私は、彼のプライドを傷つけないように、慎重に言葉を選んだ。
教えてほしい、ではなく、継がせてほしい、と。
彼の過去の功績への敬意を、明確に示したのだ。
しばらくの沈黙。
やがて、扉の向こうから、諦めたような、ため息混じりの声が聞こえてきた。
「好きにしろ。だが、茶も出さんぞ。」
再び、扉がゆっくりと開かれた。
中から現れたのは、腰の曲がった、小柄な老人だった。
顔には深い皺が刻まれ、その目は、長年の苦労と不信感で濁っているように見えた。
私達は、彼の後に続いて、薄暗い小屋の中へと入った。
中は、様々な薬草や、見たこともない植物の種で埋め尽くされている。
壁には、古い羊皮紙が何枚も貼られていた。
そこにはびっしりと、植物のスケッチや、土壌の分析結果のようなものが書き込まれている。
彼が、長年、たった一人で研究を続けてきたことが、一目で分かった。
老人は、ハンスと名乗った。
彼は、私達に椅子を勧めるでもなく、自分だけ丸太の椅子にどかりと腰を下ろした。
「で、話というのは何だ。手短に頼む。」
その態度は、相変わらず刺々しい。
アシュトン様が、口を開いた。
「単刀直入に聞く。この土地で、収穫量を増やす方法はないだろうか。」
「我々は、食糧不足で、このままでは冬を越せないかもしれない。」
その切実な言葉に、ハンスさんは、ふん、と鼻を鳴らした。
「今更、何だ。そんなことは、何十年も前から分かっていたことだろうが。」
「先代様も、あんたの親父さんも、必死だった。」
「王都に何度も陳情し、新しい農法を試すための予算を、と頭を下げていた。」
「だが、結果はどうだ。王都の連中は、俺たちから税金を搾り取ることしか考えちゃいねえ。」
「先代様が戦で亡くなったのも、元はと言えば、王都が見殺しにしたからじゃねえか。」
彼の言葉には、王家に対する深い、根深い不信感がこもっていた。
その鋭い視線が、私の胸に突き刺さる。
私は、その王家の人間なのだから。
私は、彼の視線をまっすぐに受け止めた。
そして、はっきりと告げた。
「おっしゃる通りです。エルミート王家が、この辺境領にしてきた仕打ちは、決して許されるものではありません。」
私の意外な言葉に、ハンスさんだけでなく、アシュトン様たちも驚いたように目を見開いた。
「私自身、その王家から、魔力を持たない『無能』として、厄介払いされた人間です。」
「ここに嫁がされたのも、事実上の追放でした。」
「ですから、あなた様が王家を憎むお気持ちは、痛いほど分かります。」
私は、自分の素性を包み隠さず話した。
相手に心を開いてほしければ、まず、自分から心を開かなければならない。
これは、カウンセリングの基本中の基本だ。
私の告白に、ハンスさんの険しい表情が、わずかに揺らいだ。
彼の濁った瞳が、探るように私を見つめている。
「ですが、アシュトン様は違います。彼は、王都のやり方に頼らず、自分たちの手で、この土地を変えようとしています。」
「ここにいる騎士団の皆さんも、領民も、そのために一つになろうとしています。」
「私達は、もう、誰かの施しを待つつもりはありません。」
「自分たちの未来は、自分たちの手で切り拓く。その覚悟が、私達にはあります。」
私は、彼の目を見て、訴えかけた。
「どうか、あなた様のお力を貸してください。」
「あなた様が、先代様と夢見た、この土地を緑で満たすという夢を、私達と一緒に、もう一度、追いかけてはいただけませんか。」
小屋の中は、静まり返っていた。
暖炉の薪が、ぱちぱちと爆ぜる音だけが聞こえる。
ハンスさんは、何も言わず、ただじっと私の顔を見つめていた。
その瞳の奥で、長年凍てついていた何かが、ゆっくりと溶け出していくのが分かった。
長い、長い沈黙の後、彼は、深く、深く、ため息をついた。
「先代様に、そっくりだ。あんたのその目は。」
彼は、アシュトン様に向かって、ぽつりと呟いた。
「諦めの悪いところも、民を思う心が人一倍強いところもな。」
「そして、どこからか、とんでもねえ嫁さんを見つけてくるところも。」
最後の言葉は、私を見て言ったものだった。
その口元には、かすかな笑みが浮かんでいる。
彼は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、壁に貼られた古い羊皮紙の一枚を、丁寧に剥がした。
「いいだろう。俺の知っていること、全てを話してやる。」
「ただし、生半可な覚悟なら、今すぐ帰れ。」
「北の大地は、そんなに甘くはねえぞ。」
その言葉は、彼が、私達の仲間になってくれたことを意味していた。
私とアシュトン様は、顔を見合わせ、力強く頷いた。
その日から、辺境領の改革は、新たな段階へと入った。
ハンスさんの指導の元、私達は、彼が長年研究してきた、新しい農業計画を実行に移し始めたのだ。
計画の柱は、二つある。
一つは、スノー・ウィートと呼ばれる、耐寒性に非常に優れた小麦の栽培。
もう一つは、この土地の豊富な地熱を利用した、温室の建設だった。
「スノー・ウィートは、普通の小麦に比べて収穫量は少ない。」
「だが、この土地の厳しい寒さの中でも、確実に実をつける。」
「まずは、これで最低限の食料を確保するんだ。」
「そして、温室では、栄養価の高い野菜を育てる。」
「これが成功すれば、領民たちの栄養状態は、劇的に改善されるはずだ。」
ハンスさんの計画は、非常に合理的で、希望に満ちたものだった。
問題は、それを実行するための、圧倒的な人手不足だった。
その問題を解決したのは、意外な人物たちだった。
騎士団の兵士たちだ。
「俺たちも、手伝いますぜ。」
ダリウスさんが、率先してそう申し出てくれたのだ。
彼に続くように、レオさんや、他の兵士たちも、次々と名乗りを上げた。
「訓練の合間なら、いくらでも時間はあります。」
「剣を振るうだけが、騎士の仕事じゃねえって、リリアーナ様に教わりましたからね。」
こうして、辺境の騎士たちが、鍬や鋤を手に、畑を耕すという、前代未聞の光景が生まれた。
最初は、慣れない農作業に、誰もが悪戦苦闘していた。
ダリウスさんは、力を入れすぎて鍬を何本も折り、ボルツさんは、その大きな体で、蒔いたばかりの種を踏み荒らしてしまう。
その度に、ハンスさんの雷が落ちる。
「この、唐変木どもが。もっと、土に敬意を払わんか。」
しかし、兵士たちの顔には、笑顔が絶えなかった。
訓練場での厳しい表情とは違う、生き生きとした表情。
土に触れ、汗を流し、自分たちの手で未来を育てるという作業は、彼らの心を癒やしていくようだった。
心理学で言う、園芸療法に近い効果があったのかもしれない。
騎士団と領民たちが、一緒になって畑仕事に励む姿は、この土地に、新しい一体感を生み出していた。
身分の違いも、過去のわだかまりも、汗と土の匂いの中に、溶けて消えていくようだった。
私は、そんな彼らのために、休憩時間には温かいお茶や食事を運ぶ。
そして、一人ひとりに声をかけて回った。
肉体的な疲労だけでなく、心のケアも、忘れてはならない。
そんな日々の中で、私は、もう一つの課題に気づいていた。
子供たちのことだ。
この土地には、戦いで親を亡くした孤児や、貧しさから、満足な教育を受けられない子供たちが、たくさんいた。
彼らの心にも、未来への希望の種を蒔かなければならない。
私は、城の空き部屋を一つ借りて、小さな寺子屋のようなものを開くことにした。
文字の読み書きや、簡単な計算。
そして、私が前世で知っていた、様々な物語を、彼らに聞かせてあげるのだ。
最初は、警戒して遠巻きに見ていただけの子供たちも、私の元へ集まってくるようになった。
私が、辛抱強く語りかけるうちに、一人、また一人と。
その日も、私は、数人の子供たちに囲まれて、物語の読み聞かせをしていた。
子供たちの目は、キラキラと輝いている。
その純粋な光を見ていると、私の心まで洗われるようだった。
そんな穏やかな時間の最中、一人の偵察兵が、血相を変えて部屋に駆け込んできた。
そのただならぬ様子に、子供たちの間に不安が広がる。
「リリアーナ様。大変です。」
「あの、黒いローブの連中が活動していた森の奥で、奇妙なものを発見しました。」
「落ち着いて。何があったのですか。」
「はっ。それが、その、まるで、祭壇のようなものが。」
「そこには、あの不気味な蛇の紋章と、そして。」
偵察兵は、言葉を区切り、ごくりと唾を飲み込んだ。
彼の顔は、恐怖に青ざめている。
私も、胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。
脅威は、まだ、すぐそこまで迫っている。
私は、不安がる子供たちを安心させるように、優しく微笑みかけた。
「大丈夫よ。すぐに、戻ってくるからね。」
そう言い残し、私は偵察兵と共に、アシュトン様のいる執務室へと急いだ。
執務室の扉を開けると、そこにはアシュトン様とギデオンさんが、深刻な顔で地図を睨みつけていた。
偵察兵からの報告は、すでに彼らの耳にも届いていたのだろう。
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