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偵察兵からの報告は、私たちが最も恐れていた内容だった。
執務室の重い扉を開けると、アシュトン様とギデオンさんが地図を広げている。
二人はとても難しい顔をしていて、部屋の空気は戦いの前のように張り詰めていた。
「リリアーナか」
私に気づいたアシュトン様が、静かに顔を上げた。
その灰色の瞳には、領主としての厳しい光が宿っている。
でも同時に、私を心配する優しさも混じっていた。
私は不安がる子供たちのことを、侍女のエマに任せてきた。
そして、まっすぐにアシュトン様の元へと歩み寄る。
「報告は、聞きました」
「ああ、どうやら本当の戦いは、これかららしいな」
アシュトン様は、疲れたように大きなため息をついた。
偵察兵が、改めて詳しい報告を始める。
「はっ。うわさの魔術師たちが目撃された森の奥に、奇妙な広場がありました」
「そこには、石を組んで作られた祭壇のようなものがあったのです」
「そして祭壇の中央には、あの蛇の紋章がはっきりと刻まれていました」
偵察兵はごくりと唾を飲み込み、言葉を続けた。
「さらに周りには、燃えかすや動物の骨が散らばっていました。何かの儀式が行われた跡で、間違いありません」
その報告だけでも、十分に不気味なものだった。
だが、彼が本当に伝えたかったのは、その先のことらしい。
「そして祭壇のすぐ横の木に、これが突き立てられていました」
彼が恐る恐る差し出したのは、一本の短剣だった。
それは、王都の騎士たちが使う、どこにでもあるようなものだ。
しかし、問題はその持ち手の部分に刻まれた紋章にあった。
エルミート王家の、獅子の紋章。
それは、間違いなく私の父や兄たちが使うものだった。
「これは」
アシュトン様の声が、低くうなる。
部屋の温度が、急に下がったように感じられた。
ギデオンさんがその短剣を手に取り、苦々しく吐き捨てる。
「王都の連中か。やはり、奴らが裏で糸を引いていたということか」
「あの魔術師たちは、王家が雇ったならず者だったと」
ダリウスさんが、怒りでこぶしを震わせた。
「ふざけやがって。俺たちを辺境に追いやって、魔物と戦わせるだけでは足りないのか」
「こんな汚いことまでしやがるとは、絶対に許せねえぞ」
騎士たちの怒りは、当たり前のことだった。
私も、胸の中に冷たい怒りが湧いてくるのを感じる。
あの家族なら、本当にやりかねない。
自分たちの体面のためなら、辺境の民が何人死のうと何とも思わないだろう。
特に兄である第一王子は、私をこの土地に追いやった本人だ。
彼が、私の嫁ぎ先を混乱させようとしても、何の不思議もない。
だが、私はどこかおかしいと感じていた。
あの兄が、こんなに手の込んだ計画を立てられるだろうか。
彼のやり方は、いつももっと直接的で、単純なはずだ。
それに、あの蛇の紋章と王家の紋章。
二つの繋がりの見せ方が、あまりにわざとらしい。
まるで、私たちにそう思わせようとしているようだった。
アシュトン様は、怒りに震える部下たちとは違い、冷静に考え込んでいた。
彼は、私の視線に気づくと、問いかけるように私を見る。
「リリアーナ、君はどう思う」
「はい。王家が関わっている可能性は、否定できません」
「ですが、少しだけ、納得できない点があります」
「というと、どういうことだ」
「これは、あまりにも分かりやすすぎる証拠です」
「まるで、犯人は王家ですよと、わざわざ教えてくれているかのようです」
「もし本当に王家が黒幕なら、こんな証拠を残すでしょうか。もっとうまく、自分たちの関与を隠すはずです」
私の言葉に、ギデオンさんたちがはっとしたように顔を見合わせた。
「つまり、これは罠だと。我々と王都を、対立させるための」
「はい。その可能性も、考えられるのではないでしょうか」
「あの蛇の紋章を持つ本当の黒幕が、王家を利用しているのかもしれません」
「あるいは、王家の中の誰かが、個人的に彼らと手を組んでいるか」
どちらにしても、事態はより複雑で、厄介なものになった。
敵は、ただの魔物の群れでもなければ、王家そのものでもない。
もっと底の知れない、悪意を持った何者かなのだ。
アシュトン様は、深くうなずいた。
「リリアーナの言う通りだ。怒りに任せて王都へ兵を向けるのは、敵の思うつぼかもしれん」
「今は、落ち着いて状況を分析し、足元を固める時だ」
「ギデオン、森の警戒をさらに強めろ。敵は、まだ近くに隠れている可能性が高い」
「はっ、承知いたしました」
「ダリウスとレオは、騎士団の訓練を続けろ」
「いつ、どんな事態になっても対応できるように、連携をさらに磨き上げるんだ」
「お任せください」
「いつでも、出られます」
アシュトン様が、迷いなく指示を飛ばしていく。
その姿には、もう以前のような不安は見られなかった。
頼もしい、真の領主の姿がそこにあった。
指示を受けた騎士たちが、次々と部屋を出ていく。
執務室には、私とアシュトン様の二人だけが残された。
彼は、疲れたように椅子の背もたれに体を預ける。
「すまない。また、君にまで重い荷物を背負わせてしまった」
「いいえ。私は、あなたのパートナーですから当然です」
私は彼の隣に立ち、その肩にそっと手を置いた。
「それよりも、アシュトン様。私からも、一つ提案があります」
「なんだ」
「敵の狙いが私たちの心を乱すことなら、私たちはこれまで以上に心の守りを固める必要があります」
「騎士団だけでなく、領民全体の心を、です」
「領民の、心か」
「はい。戦いの恐怖は、兵士だけでなく、子供や女性たちの心にも深い影を落としています」
「その不安や恐怖をそのままにすれば、そこが敵の新たな標的になりかねません」
「まずは、最も心が傷つきやすい、子供たちの手当てを優先させてください」
私の提案に、アシュトン様は迷いなく頷いた。
「分かった。それも、君に全て任せる」
「必要なものは、何でも言ってくれ」
「ありがとうございます」
その日から、私は寺子屋での活動を、さらに本格的にした。
読み書きを教えるだけでなく、子供たち一人ひとりと向き合う時間を大切にする。
特に、前の戦いで親を亡くした孤児たちの心の傷は、とても深いものだった。
私は、一つの試みを始めた。
言葉でうまく気持ちを表現できない子供たちのために、砂の入った箱と小さなおもちゃを用意したのだ。
これは、前の世界で箱庭療法と呼ばれていた、心の治療法の一つだった。
子供たちは、砂の上に、自分の心の中にある世界を自由に表現する。
その箱庭を見ることで、私は、彼らの心の奥にある言葉にならない叫びを読み解こうとした。
ほとんどの子供たちは、最初は戸惑いながらも、次第にその作業に夢中になっていく。
家や木、動物の人形を並べ、自分だけの物語を作り上げていった。
その箱庭は、彼らの心の状態を、驚くほど正直に映し出していた。
しかし、一人だけ、どうしても心を開かない少年がいた。
彼の名前は、トム。十歳になる、口数の少ない少年だ。
彼は、数年前の戦いで、両親を目の前でオークに殺されたという。
それ以来、彼は、一切の感情を表に出さなくなった。
笑うことも、泣くことも、怒ることさえもなかった。
彼は、箱庭療法にも、全く興味を示さなかった。
ただ、部屋の隅で、膝を抱えて座っているだけ。
他の子供たちが、楽しそうに遊んでいるのを、ぼんやりした目で見つめている。
彼の心は、厚い氷の壁で、固く閉ざされてしまっていた。
無理に何かをさせることは、できない。
私は、ただ彼のそばに座り、静かに語りかけるだけの日々を続けた。
「トム。今日は、良いお天気ね」
「お外で、ひなたぼっこでもしたら、気持ちが良いかもしれないわ」
彼は、答えなかった。
それでも、私は毎日、彼の元へ通い続けた。
あなたを、見捨ててはいない。
いつでも、あなたの話を聞く準備ができている。
その気持ちを、送り続けることだけが、私にできる全てだった。
そんなある日、私がいつものように寺子屋へ向かうと、珍しくトムが机で何かを描いていた。
木炭で、羊皮紙に、夢中になって何かを描きつけている。
私がそっと近づいても、彼は全く気づかないようだった。
私は彼の邪魔をしないように、少し離れた場所からその様子を見守る。
彼が描いていたのは、森の絵だった。
黒く、不気味な木々が、天に向かって伸びている。
そして、その森の中心には、奇妙な祭壇のようなものが描かれていた。
祭壇の上には、あの蛇の紋章。
その周りには、黒い服を着た人影が、何人も立っていた。
その光景は、先日、偵察兵が報告したものと驚くほどよく似ている。
まさか、彼は。
私は、思わず息を呑んだ。
トムは、両親が殺された日、森の中で何かを見てしまったのかもしれない。
その恐怖の記憶が、彼の心を閉ざし、言葉を奪ってしまったのだ。
私は、ゆっくりと彼の隣に膝をついた。
「トム。この絵は、何を描いたの」
できるだけ、優しい声で尋ねる。
私の声に、トムははっと我に返ったように、びくりと肩を震わせた。
そして、自分が描いた絵を見ると、恐怖に顔をゆがませる。
彼は、羊皮紙をぐしゃぐしゃに丸めてしまった。
「違う、違うんだ」
「見てない、僕は何も見てない」
彼は、そうつぶやくと、再び部屋の隅へ駆け寄った。
そして、頭を抱えてうずくまってしまう。
体が、小さく震えていた。
記憶のふたが少しだけ開いて、彼は、再び恐怖の渦に飲み込まれてしまったようだ。
これ以上、彼を追いつめるのは危険だ。
私は、その日は何も聞かなかった。
ただ、彼の背中を優しくなで続けることしかできなかった。
一方、城の外では、ハンスさんの指導による農業改革が、順調に進んでいた。
騎士団と領民たちの協力のおかげで、温室の骨組みが、早くも完成したのだ。
ガラスの代わりに、特殊な油を染み込ませた、光を通す丈夫な紙が張られている。
中には、地面の熱を利用した温水パイプが通され、冬でも作物を育てられるようになっていた。
スノー・ウィートの畑も、見渡す限り広がっている。
まだ小さな芽が出たばかりだが、その光景は領民たちに確かな希望を与えていた。
ハンスさんも、最初は愛想が悪かった。
でも、兵士たちの真面目な働きぶりに、次第に心を開いていった。
今では、訓練の合間に農作業を手伝うダリウスさんたちに、農業の基礎を熱心に教えている。
「いいか、土の声を聞くんだ」
「作物はな、愛情をかけた分だけ、正直にこたえてくれるもんだ」
その口調はぶっきらぼうだが、そこには確かな愛情がこもっていた。
彼は、この土地と、ここに生きる人々を、心の底から愛しているのだ。
その日の夕方、私は執務室で、アシュトン様にトムのことを報告した。
「そうか。あの子は、何かを知っているのか」
アシュトン様は、厳しい顔で腕を組む。
「はい。ですが、無理に聞き出すことはできません」
「彼の心が、壊れてしまう可能性があります」
「ああ、分かっている。君のやり方で、あの子の心を癒やしてやってくれ」
「時間は、かかるかもしれんがな」
「はい」
アシュトン様は立ち上がると、窓の外に広がる領地の景色を眺めた。
夕日に照らされた畑が、黄金色に輝いている。
「畑も、人の心も、同じなのかもしれんな」
「根気強く、愛情をかけて育てなければ、豊かな実りは得られない」
彼はそう言うと、こちらに振り返り、穏やかに微笑んだ。
「君という、最高の育て手がいてくれて、俺は本当に幸運だ」
その優しい言葉に、私の胸は温かいもので満たされた。
謎の敵、王家の思惑、そして閉ざされた少年の心。
問題は、まだ山積みだ。
でも、この人と一緒なら、きっと乗り越えていける。
トムが丸めて捨てた羊皮紙を、私はそっと拾い上げた。
しわくちゃの紙を丁寧に広げると、そこには不気味な祭壇の絵が再び現れる。
その絵の隅に、何か小さなものが描かれていることに、私は気づいた。
それは月のようでもあり、太陽のようにも見える。
黒く塗りつぶされた不吉な円から、私は目が離せなかった。
執務室の重い扉を開けると、アシュトン様とギデオンさんが地図を広げている。
二人はとても難しい顔をしていて、部屋の空気は戦いの前のように張り詰めていた。
「リリアーナか」
私に気づいたアシュトン様が、静かに顔を上げた。
その灰色の瞳には、領主としての厳しい光が宿っている。
でも同時に、私を心配する優しさも混じっていた。
私は不安がる子供たちのことを、侍女のエマに任せてきた。
そして、まっすぐにアシュトン様の元へと歩み寄る。
「報告は、聞きました」
「ああ、どうやら本当の戦いは、これかららしいな」
アシュトン様は、疲れたように大きなため息をついた。
偵察兵が、改めて詳しい報告を始める。
「はっ。うわさの魔術師たちが目撃された森の奥に、奇妙な広場がありました」
「そこには、石を組んで作られた祭壇のようなものがあったのです」
「そして祭壇の中央には、あの蛇の紋章がはっきりと刻まれていました」
偵察兵はごくりと唾を飲み込み、言葉を続けた。
「さらに周りには、燃えかすや動物の骨が散らばっていました。何かの儀式が行われた跡で、間違いありません」
その報告だけでも、十分に不気味なものだった。
だが、彼が本当に伝えたかったのは、その先のことらしい。
「そして祭壇のすぐ横の木に、これが突き立てられていました」
彼が恐る恐る差し出したのは、一本の短剣だった。
それは、王都の騎士たちが使う、どこにでもあるようなものだ。
しかし、問題はその持ち手の部分に刻まれた紋章にあった。
エルミート王家の、獅子の紋章。
それは、間違いなく私の父や兄たちが使うものだった。
「これは」
アシュトン様の声が、低くうなる。
部屋の温度が、急に下がったように感じられた。
ギデオンさんがその短剣を手に取り、苦々しく吐き捨てる。
「王都の連中か。やはり、奴らが裏で糸を引いていたということか」
「あの魔術師たちは、王家が雇ったならず者だったと」
ダリウスさんが、怒りでこぶしを震わせた。
「ふざけやがって。俺たちを辺境に追いやって、魔物と戦わせるだけでは足りないのか」
「こんな汚いことまでしやがるとは、絶対に許せねえぞ」
騎士たちの怒りは、当たり前のことだった。
私も、胸の中に冷たい怒りが湧いてくるのを感じる。
あの家族なら、本当にやりかねない。
自分たちの体面のためなら、辺境の民が何人死のうと何とも思わないだろう。
特に兄である第一王子は、私をこの土地に追いやった本人だ。
彼が、私の嫁ぎ先を混乱させようとしても、何の不思議もない。
だが、私はどこかおかしいと感じていた。
あの兄が、こんなに手の込んだ計画を立てられるだろうか。
彼のやり方は、いつももっと直接的で、単純なはずだ。
それに、あの蛇の紋章と王家の紋章。
二つの繋がりの見せ方が、あまりにわざとらしい。
まるで、私たちにそう思わせようとしているようだった。
アシュトン様は、怒りに震える部下たちとは違い、冷静に考え込んでいた。
彼は、私の視線に気づくと、問いかけるように私を見る。
「リリアーナ、君はどう思う」
「はい。王家が関わっている可能性は、否定できません」
「ですが、少しだけ、納得できない点があります」
「というと、どういうことだ」
「これは、あまりにも分かりやすすぎる証拠です」
「まるで、犯人は王家ですよと、わざわざ教えてくれているかのようです」
「もし本当に王家が黒幕なら、こんな証拠を残すでしょうか。もっとうまく、自分たちの関与を隠すはずです」
私の言葉に、ギデオンさんたちがはっとしたように顔を見合わせた。
「つまり、これは罠だと。我々と王都を、対立させるための」
「はい。その可能性も、考えられるのではないでしょうか」
「あの蛇の紋章を持つ本当の黒幕が、王家を利用しているのかもしれません」
「あるいは、王家の中の誰かが、個人的に彼らと手を組んでいるか」
どちらにしても、事態はより複雑で、厄介なものになった。
敵は、ただの魔物の群れでもなければ、王家そのものでもない。
もっと底の知れない、悪意を持った何者かなのだ。
アシュトン様は、深くうなずいた。
「リリアーナの言う通りだ。怒りに任せて王都へ兵を向けるのは、敵の思うつぼかもしれん」
「今は、落ち着いて状況を分析し、足元を固める時だ」
「ギデオン、森の警戒をさらに強めろ。敵は、まだ近くに隠れている可能性が高い」
「はっ、承知いたしました」
「ダリウスとレオは、騎士団の訓練を続けろ」
「いつ、どんな事態になっても対応できるように、連携をさらに磨き上げるんだ」
「お任せください」
「いつでも、出られます」
アシュトン様が、迷いなく指示を飛ばしていく。
その姿には、もう以前のような不安は見られなかった。
頼もしい、真の領主の姿がそこにあった。
指示を受けた騎士たちが、次々と部屋を出ていく。
執務室には、私とアシュトン様の二人だけが残された。
彼は、疲れたように椅子の背もたれに体を預ける。
「すまない。また、君にまで重い荷物を背負わせてしまった」
「いいえ。私は、あなたのパートナーですから当然です」
私は彼の隣に立ち、その肩にそっと手を置いた。
「それよりも、アシュトン様。私からも、一つ提案があります」
「なんだ」
「敵の狙いが私たちの心を乱すことなら、私たちはこれまで以上に心の守りを固める必要があります」
「騎士団だけでなく、領民全体の心を、です」
「領民の、心か」
「はい。戦いの恐怖は、兵士だけでなく、子供や女性たちの心にも深い影を落としています」
「その不安や恐怖をそのままにすれば、そこが敵の新たな標的になりかねません」
「まずは、最も心が傷つきやすい、子供たちの手当てを優先させてください」
私の提案に、アシュトン様は迷いなく頷いた。
「分かった。それも、君に全て任せる」
「必要なものは、何でも言ってくれ」
「ありがとうございます」
その日から、私は寺子屋での活動を、さらに本格的にした。
読み書きを教えるだけでなく、子供たち一人ひとりと向き合う時間を大切にする。
特に、前の戦いで親を亡くした孤児たちの心の傷は、とても深いものだった。
私は、一つの試みを始めた。
言葉でうまく気持ちを表現できない子供たちのために、砂の入った箱と小さなおもちゃを用意したのだ。
これは、前の世界で箱庭療法と呼ばれていた、心の治療法の一つだった。
子供たちは、砂の上に、自分の心の中にある世界を自由に表現する。
その箱庭を見ることで、私は、彼らの心の奥にある言葉にならない叫びを読み解こうとした。
ほとんどの子供たちは、最初は戸惑いながらも、次第にその作業に夢中になっていく。
家や木、動物の人形を並べ、自分だけの物語を作り上げていった。
その箱庭は、彼らの心の状態を、驚くほど正直に映し出していた。
しかし、一人だけ、どうしても心を開かない少年がいた。
彼の名前は、トム。十歳になる、口数の少ない少年だ。
彼は、数年前の戦いで、両親を目の前でオークに殺されたという。
それ以来、彼は、一切の感情を表に出さなくなった。
笑うことも、泣くことも、怒ることさえもなかった。
彼は、箱庭療法にも、全く興味を示さなかった。
ただ、部屋の隅で、膝を抱えて座っているだけ。
他の子供たちが、楽しそうに遊んでいるのを、ぼんやりした目で見つめている。
彼の心は、厚い氷の壁で、固く閉ざされてしまっていた。
無理に何かをさせることは、できない。
私は、ただ彼のそばに座り、静かに語りかけるだけの日々を続けた。
「トム。今日は、良いお天気ね」
「お外で、ひなたぼっこでもしたら、気持ちが良いかもしれないわ」
彼は、答えなかった。
それでも、私は毎日、彼の元へ通い続けた。
あなたを、見捨ててはいない。
いつでも、あなたの話を聞く準備ができている。
その気持ちを、送り続けることだけが、私にできる全てだった。
そんなある日、私がいつものように寺子屋へ向かうと、珍しくトムが机で何かを描いていた。
木炭で、羊皮紙に、夢中になって何かを描きつけている。
私がそっと近づいても、彼は全く気づかないようだった。
私は彼の邪魔をしないように、少し離れた場所からその様子を見守る。
彼が描いていたのは、森の絵だった。
黒く、不気味な木々が、天に向かって伸びている。
そして、その森の中心には、奇妙な祭壇のようなものが描かれていた。
祭壇の上には、あの蛇の紋章。
その周りには、黒い服を着た人影が、何人も立っていた。
その光景は、先日、偵察兵が報告したものと驚くほどよく似ている。
まさか、彼は。
私は、思わず息を呑んだ。
トムは、両親が殺された日、森の中で何かを見てしまったのかもしれない。
その恐怖の記憶が、彼の心を閉ざし、言葉を奪ってしまったのだ。
私は、ゆっくりと彼の隣に膝をついた。
「トム。この絵は、何を描いたの」
できるだけ、優しい声で尋ねる。
私の声に、トムははっと我に返ったように、びくりと肩を震わせた。
そして、自分が描いた絵を見ると、恐怖に顔をゆがませる。
彼は、羊皮紙をぐしゃぐしゃに丸めてしまった。
「違う、違うんだ」
「見てない、僕は何も見てない」
彼は、そうつぶやくと、再び部屋の隅へ駆け寄った。
そして、頭を抱えてうずくまってしまう。
体が、小さく震えていた。
記憶のふたが少しだけ開いて、彼は、再び恐怖の渦に飲み込まれてしまったようだ。
これ以上、彼を追いつめるのは危険だ。
私は、その日は何も聞かなかった。
ただ、彼の背中を優しくなで続けることしかできなかった。
一方、城の外では、ハンスさんの指導による農業改革が、順調に進んでいた。
騎士団と領民たちの協力のおかげで、温室の骨組みが、早くも完成したのだ。
ガラスの代わりに、特殊な油を染み込ませた、光を通す丈夫な紙が張られている。
中には、地面の熱を利用した温水パイプが通され、冬でも作物を育てられるようになっていた。
スノー・ウィートの畑も、見渡す限り広がっている。
まだ小さな芽が出たばかりだが、その光景は領民たちに確かな希望を与えていた。
ハンスさんも、最初は愛想が悪かった。
でも、兵士たちの真面目な働きぶりに、次第に心を開いていった。
今では、訓練の合間に農作業を手伝うダリウスさんたちに、農業の基礎を熱心に教えている。
「いいか、土の声を聞くんだ」
「作物はな、愛情をかけた分だけ、正直にこたえてくれるもんだ」
その口調はぶっきらぼうだが、そこには確かな愛情がこもっていた。
彼は、この土地と、ここに生きる人々を、心の底から愛しているのだ。
その日の夕方、私は執務室で、アシュトン様にトムのことを報告した。
「そうか。あの子は、何かを知っているのか」
アシュトン様は、厳しい顔で腕を組む。
「はい。ですが、無理に聞き出すことはできません」
「彼の心が、壊れてしまう可能性があります」
「ああ、分かっている。君のやり方で、あの子の心を癒やしてやってくれ」
「時間は、かかるかもしれんがな」
「はい」
アシュトン様は立ち上がると、窓の外に広がる領地の景色を眺めた。
夕日に照らされた畑が、黄金色に輝いている。
「畑も、人の心も、同じなのかもしれんな」
「根気強く、愛情をかけて育てなければ、豊かな実りは得られない」
彼はそう言うと、こちらに振り返り、穏やかに微笑んだ。
「君という、最高の育て手がいてくれて、俺は本当に幸運だ」
その優しい言葉に、私の胸は温かいもので満たされた。
謎の敵、王家の思惑、そして閉ざされた少年の心。
問題は、まだ山積みだ。
でも、この人と一緒なら、きっと乗り越えていける。
トムが丸めて捨てた羊皮紙を、私はそっと拾い上げた。
しわくちゃの紙を丁寧に広げると、そこには不気味な祭壇の絵が再び現れる。
その絵の隅に、何か小さなものが描かれていることに、私は気づいた。
それは月のようでもあり、太陽のようにも見える。
黒く塗りつぶされた不吉な円から、私は目が離せなかった。
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