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『鷹ノ巣城』を後にした私たちは、再び馬車に乗って王都アウレリアへの帰路についていた。
城門まで見送りに来たフランツ皇子とクーノ卿の、あの真剣な眼差しがまだ瞼に残っている。
彼らは、私というたった四歳の少女に帝国の未来を託したのだ。
その重い期待を、私は心地よく感じていた。
「いやあ、たまげたぜ、ボス」
馬車の中で、元傭兵のバルガスが大きな体を揺らしながら感心したように言った。
彼の声は、隠しきれない興奮で弾んでいる。
「まさか、あのカチコチの城に閉じこもってた皇子様を、あんな短時間で手なずけちまうとはな。一体、どんな魔法を使ったんだい。」
「魔法なんかじゃありません、バルガス。ただ、お互いの利益が一致しただけのことです。」
私は、落ち着いて答えた。
フェンは私の膝の上で丸くなり、ノクスは窓辺で静かに外の景色を眺めている。
「利益が一致、ねえ。」
盗賊のピップが、天井近くの荷物棚からぶら下がりながら口を挟んだ。
「俺に言わせりゃ、ボスが一方的に丸め込んだようにしか見えなかったがな。あっちの皇子様、最後はすっかりボスの言いなりだったぜ。」
「ピップ、口が悪いわよ。」
変装の達人であるリラが、ピップを軽く睨みつけた。
「でも、本当に見事な交渉術だったわ、リリアちゃん。あの状況で、エルドラシア王国の名前を出さずに自分たちの力として見せかけた。そして、貿易協定という最大の利益を引き出すなんて。私でも、あんなお芝居はできないわ。」
仲間たちの称賛の言葉に、私は静かに首を振った。
「いいえ、まだ始まったばかりです。本当の戦いは、これからなのですから。」
私の言葉に、馬車の中の空気が少しだけ引き締まる。
その通りだ、フランツ皇子と契約を結んだことは大きな一歩だ。
しかし、彼を皇帝にするという目標はまだ遥か先にあった。
「ゼロ兄様。」
私は、御者台の隣に座っている兄に声をかけた。
ゼロ兄様は、外の景色から視線を動かさずに短く答える。
「なんだ。」
「王都に戻ったら、すぐに例の計画を始めます。兄様の、裏の力が必要になります。」
「フン、人使いが荒い。分かっている。」
ゼロ兄様は、ぶっきらぼうにそう言った。
その横顔が、ほんの少しだけ楽しそうに見えたのは私の気のせいだろうか。
私たちの最初の計画は、ガルディナ帝国内での情報操作だった。
フランツ皇子を『民衆の救世主』として仕立て上げ、二人の兄君の評判を徹底的に落とす。
力と金で支配する者たちに、民衆の支持という目に見えない力で対抗するのだ。
そのために、ゼロ兄様の裏社会のネットワークが絶対に必要だった。
帝国内に、たくさんの噂の種をまかなければならない。
例えば、「ゲオルグ皇子の軍隊が村を襲い、食料だけでなく子供まで連れ去った」とか。
「ルドヴィーク皇子が、重い税を払えない商人を広場で見せしめに処刑した」とか。
もちろん、その多くは私たちが作り上げた嘘の情報だ。
しかし、内乱で混乱している帝国では嘘か本当かなんて誰も確かめようがない。
人々は、自分たちが信じたい情報を信じるものだ。
私たちは、その人間の弱い心を利用する。
そして、その情報操作と同時に、私たちは本当の救いの手も差し伸べる。
バルガスには、王国の資金を使って大量の食料を買い付けてもらう。
それを、ピップが切り開く秘密のルートで帝国内の貧しい村々へ運ぶのだ。
もちろん、その食料は全て『慈悲深きフランツ皇子からの贈り物』として配られることになる。
リラには、彼女の変装術を活かしてもらう。
帝国のあちこちの街で、様々な人間に化けて噂を広めてもらうのだ。
行商人、酒場の女、物乞いの老婆。
彼女なら、どんな役でも完璧に演じきってくれるだろう。
「面白くなってきたじゃないか。」
ピップが、荷物棚の上で楽しそうに笑った。
「国一つを相手に、詐欺を仕掛けるようなもんだ。こんなでかい仕事、盗賊稼業でも味わえねえぜ。」
「成功すれば、報酬もでかいわよ。私たちは、歴史を作るのかもしれないんだから。」
リラも、その美しい瞳を輝かせた。
バルガスは、ごくりと唾を飲んだ。
「お、俺にそんな大役が務まるだろうか。食料の買い付けと、輸送か。失敗は、許されねえな。」
「大丈夫よ、バルガス。あなたなら、できるわ。」
私は、不安そうな彼を励ました。
「あなたは、元傭兵で戦場の物流も経験しているのでしょう。あなたほど、この仕事に向いている人はいません。」
「ぼ、ボスがそう言うなら。ようし、いっちょやってやるぜ!」
バルガスは、単純なのですぐにやる気を取り戻してくれた。
頼もしい仲間たちだ。
彼らがいれば、この難しい計画もきっと成功するだろう。
私たちは、再び『竜の背骨』山脈を越えた。
行きとは違い、帰り道は少しだけ心に余裕がある。
無事に帝国領を脱出し、エルドラシア王国の土を踏んだ時。
仲間たちからは、思わず安堵のため息が漏れた。
王都への帰還は、迅速だった。
私たちは、誰にも気づかれることなく王都アウレリアの宿舎へと戻った。
旅の疲れを癒す間もなく、私はすぐに次の行動に移る。
「兄様、バルガスたちは宿舎で待機させてください。私は、殿下への報告に行ってまいります。」
「分かった。俺は、影からお前を見守っている。」
ゼロ兄様は、そう言うと音もなく闇夜へと消えていった。
私は、旅の汚れを落とすために簡単な湯浴みを済ませる。
そして、ポルトゥスでの戦勝報告の時とはまた別の、落ち着いた青色のドレスに着替えた。
ガルディナ帝国という、大きな仕事を任された者としての威厳。
それを示すための、小さな演出だった。
王宮へ向かうと、すぐに白薔薇の間へと通された。
アーノルド殿下は、あの時と同じように窓の外を眺めて待っていた。
私が部屋に入ると、彼はゆっくりとこちらを振り返る。
その青い瞳には、何の感情も浮かんでいない。
彼が、私の帰還をどれほど待ちわびていたのか。
そして、どんな結果を期待しているのか。
その本心は、完璧な仮面の下に隠されていて全く読み取れなかった。
「戻ったか、リリア。無事だったようで何よりだ。」
その声も、前回と同じく平坦で感情がこもっていない。
「はい、殿下。ただいま戻りました。そして、殿下との約束を果たしてまいりました。」
私は、貴族としての完璧なお辞儀をした。
私の落ち着いた態度と、「約束を果たした」という言葉。
それに、さすがのアーノルド殿下も少しだけ驚いたようだった。
彼の眉が、かすかに動く。
「ほう、詳しく聞かせてもらおうか。」
彼は、そう言ってテーブルの椅子を勧めてくれた。
私は、彼の向かい側に静かに腰を下ろす。
「まず、ご報告いたします。私は、ガルディナ帝国の三男、フランツ皇子と接触することに成功いたしました。」
「なに、本当に会ったのか。あの『鷹ノ巣城』にいるという、フランツ皇子にか。」
殿下の声に、初めて抑えきれない驚きの色が混じった。
「はい。そして、彼こそが殿下の計画に最もふさわしい人物であると、この目で確認してまいりました。」
私は、フランツ皇子との会話をありのままに報告した。
彼が、噂とはまったく違う「賢い狼」であったこと。
彼の二人の兄、ゲオルグとルドヴィークが、それぞれ力と金で民衆の心を失っていること。
そして、フランツ皇子だけが『民衆の希望』という、最強の武器を秘めていること。
その全てを、冷静に分析して伝えた。
アーノルド殿下は、私の報告を黙って聞いていた。
彼は、一言も口を挟まない。
ただ、その青い瞳だけが知的な光を宿して鋭く私を見つめている。
彼もまた、私の言葉の裏にある情報を頭の中で高速で処理しているのだろう。
「そして、私は殿下のお名前を出すことなくフランツ皇子と一つの契約を結んでまいりました。」
私は、懐からクーノ卿に渡された鷹の紋章の指輪を取り出した。
テーブルの上に、それを静かに置く。
「これは、フランツ皇子の信頼の証です。」
「私は、彼に『虹色の涙』のポーションと、莫大な資金、そして食料の提供を約束しました。その見返りとして彼が皇帝の座についた暁には、我がエルドラシア王国と永遠の友好条約、並びに自由貿易協定を結ぶことを確約させたのです。」
私の報告を聞き終えたアーノルド殿下は、しばらくの間何も言わなかった。
部屋の中には、時計の針が刻む音だけが響いている。
彼の完璧な仮面が、わずかに揺らいでいるのが分かった。
その青い瞳には、驚きと興奮、そして私という存在に対する純粋な畏れのようなものさえ浮かんでいる。
やがて、彼は長い息を吐いた。
そして、心の底から楽しそうに笑い出したのだ。
「は、ははは……。あはははは!」
「まさか、そこまでやってのけるとはな。リリア・アークライト、君は本当に私の想像を常に超えてくる。」
それは、私が初めて聞くアーノルド殿下の心からの笑い声だった。
彼は、王子の仮面をかなぐり捨てて一人の人間として私を称賛してくれていた。
「君は、たった一人で帝国に乗り込み、未来の皇帝候補を手なずけて帰ってきた。それも、我が国の名前を一切出すことなく、王国に最大の利益をもたらす約束まで取り付けてきたのだ。」
「完璧だ。完璧すぎる仕事ぶりだ、リリア。君は、私が望んだ以上の成果を上げてくれた。」
殿下は、椅子から立ち上がると私の前に歩み寄ってきた。
そして、ポルトゥスの時と同じように私の前に片膝をつく。
「リリア、君こそがこの国の宝だ。改めて、私に力を貸してほしい。いや、私と共にこの国を導いてほしい。」
「もったいないお言葉です、殿下。私は、殿下という最高のパートナーがいてこそ、その力を発揮できるのです。」
私も、彼の手を取って立ち上がった。
「では、殿下。さっそく、フランツ皇子を皇帝にするための『お芝居』を始めてもよろしいですよね。」
「もちろんだ。君の計画を、詳しく聞かせてもらおう。資金も、物資も、人も、君が望むままに動かすがいい。」
殿下は、私に全面的な協力を約束してくれた。
私は、待ってましたとばかりに準備していた情報操作の計画を彼に説明し始める。
「まず、ゼロ兄様のネットワークを使って帝国内に噂を流します。二人の兄君の悪評と、フランツ皇子の慈悲深い噂を。」
「それと同時に、バルガスが準備する食料を秘密裏に帝国へ運び込み、フランツ皇子の名前で貧しい村々に配ります。」
「素晴らしい手だ。民衆の心は、それだけでフランツ皇子に傾くだろう。」
殿下も、私の計画の有効性をすぐに理解してくれた。
「ですが殿下、それだけでは足りませんの。私たちには、この計画を実行するための、安全な活動拠点が必要です。」
私は、ここぞとばかりに次の要求を切り出した。
「今の宿舎では、手狭ですし人目にもつきすぎます。それに、アークライト領から『虹色の涙』のポーションを運び込むための、秘密の研究室も必要になります。」
「なるほど、拠点か。確かに、その通りだ。」
アーノルド殿下は、少しの間考え込んだ。
そして、すぐに決断を下す。
「分かった。君に、王都の屋敷を一軒与えよう。貴族街の一等地にある、古い伯爵家の屋敷だ。そこなら、広さも十分だろうし人目も気にならんだろう。そこを、君たちアークライト家の王都別邸として、自由に使うがいい。」
「まあ、よろしいのですか。」
「もちろんだ。君の功績を考えれば、それくらい当然の報酬だ。そこを、君の城として思う存分、腕を振るってもらおう。」
こうして私は、王都の一等地に自分だけの活動拠点を手に入れることになった。
ポルトゥスでの貿易権、そして王都の屋敷。
私の資産は、恐ろしいほどの速さで膨れ上がっていく。
これも全て、私の知識と計画の賜物だった。
私は、アーノルド殿下に深々と礼を述べた。
そして、白薔薇の間を後にする。
宿舎に戻る馬車の中で、私の心は新たな計画でいっぱいだった。
王都の屋敷を、どう改造しようか。
『虹色の涙』のポーションを、どうやって量産しようか。
そして、セシリア姉様の化粧品を、どうやって王都の貴族社会で流行らせようか。
やるべきことは、無限に広がっていた。
宿舎に戻ると、仲間たちが私を待っていた。
私が、王都に屋敷を与えられたことを告げると彼らは、まるで自分のことのように大喜びしてくれた。
「やったぜ、ボス。俺たち、ついに王都に城持ちか。」
ピップが、興奮して叫んだ。
「リリアちゃん、すごすぎるわ。私たち、本当に歴史上の人物になっちゃうんじゃないの。」
リラも、目を輝かせている。
「さあ、皆さん。喜ぶのは、まだ早いですよ。」
私は、そんな仲間たちに笑顔で言った。
「明日からは、新しいお城で、もっと面白い仕事を始めていただきますからね。」
私の言葉に、全員が楽しそうに笑い合った。
城門まで見送りに来たフランツ皇子とクーノ卿の、あの真剣な眼差しがまだ瞼に残っている。
彼らは、私というたった四歳の少女に帝国の未来を託したのだ。
その重い期待を、私は心地よく感じていた。
「いやあ、たまげたぜ、ボス」
馬車の中で、元傭兵のバルガスが大きな体を揺らしながら感心したように言った。
彼の声は、隠しきれない興奮で弾んでいる。
「まさか、あのカチコチの城に閉じこもってた皇子様を、あんな短時間で手なずけちまうとはな。一体、どんな魔法を使ったんだい。」
「魔法なんかじゃありません、バルガス。ただ、お互いの利益が一致しただけのことです。」
私は、落ち着いて答えた。
フェンは私の膝の上で丸くなり、ノクスは窓辺で静かに外の景色を眺めている。
「利益が一致、ねえ。」
盗賊のピップが、天井近くの荷物棚からぶら下がりながら口を挟んだ。
「俺に言わせりゃ、ボスが一方的に丸め込んだようにしか見えなかったがな。あっちの皇子様、最後はすっかりボスの言いなりだったぜ。」
「ピップ、口が悪いわよ。」
変装の達人であるリラが、ピップを軽く睨みつけた。
「でも、本当に見事な交渉術だったわ、リリアちゃん。あの状況で、エルドラシア王国の名前を出さずに自分たちの力として見せかけた。そして、貿易協定という最大の利益を引き出すなんて。私でも、あんなお芝居はできないわ。」
仲間たちの称賛の言葉に、私は静かに首を振った。
「いいえ、まだ始まったばかりです。本当の戦いは、これからなのですから。」
私の言葉に、馬車の中の空気が少しだけ引き締まる。
その通りだ、フランツ皇子と契約を結んだことは大きな一歩だ。
しかし、彼を皇帝にするという目標はまだ遥か先にあった。
「ゼロ兄様。」
私は、御者台の隣に座っている兄に声をかけた。
ゼロ兄様は、外の景色から視線を動かさずに短く答える。
「なんだ。」
「王都に戻ったら、すぐに例の計画を始めます。兄様の、裏の力が必要になります。」
「フン、人使いが荒い。分かっている。」
ゼロ兄様は、ぶっきらぼうにそう言った。
その横顔が、ほんの少しだけ楽しそうに見えたのは私の気のせいだろうか。
私たちの最初の計画は、ガルディナ帝国内での情報操作だった。
フランツ皇子を『民衆の救世主』として仕立て上げ、二人の兄君の評判を徹底的に落とす。
力と金で支配する者たちに、民衆の支持という目に見えない力で対抗するのだ。
そのために、ゼロ兄様の裏社会のネットワークが絶対に必要だった。
帝国内に、たくさんの噂の種をまかなければならない。
例えば、「ゲオルグ皇子の軍隊が村を襲い、食料だけでなく子供まで連れ去った」とか。
「ルドヴィーク皇子が、重い税を払えない商人を広場で見せしめに処刑した」とか。
もちろん、その多くは私たちが作り上げた嘘の情報だ。
しかし、内乱で混乱している帝国では嘘か本当かなんて誰も確かめようがない。
人々は、自分たちが信じたい情報を信じるものだ。
私たちは、その人間の弱い心を利用する。
そして、その情報操作と同時に、私たちは本当の救いの手も差し伸べる。
バルガスには、王国の資金を使って大量の食料を買い付けてもらう。
それを、ピップが切り開く秘密のルートで帝国内の貧しい村々へ運ぶのだ。
もちろん、その食料は全て『慈悲深きフランツ皇子からの贈り物』として配られることになる。
リラには、彼女の変装術を活かしてもらう。
帝国のあちこちの街で、様々な人間に化けて噂を広めてもらうのだ。
行商人、酒場の女、物乞いの老婆。
彼女なら、どんな役でも完璧に演じきってくれるだろう。
「面白くなってきたじゃないか。」
ピップが、荷物棚の上で楽しそうに笑った。
「国一つを相手に、詐欺を仕掛けるようなもんだ。こんなでかい仕事、盗賊稼業でも味わえねえぜ。」
「成功すれば、報酬もでかいわよ。私たちは、歴史を作るのかもしれないんだから。」
リラも、その美しい瞳を輝かせた。
バルガスは、ごくりと唾を飲んだ。
「お、俺にそんな大役が務まるだろうか。食料の買い付けと、輸送か。失敗は、許されねえな。」
「大丈夫よ、バルガス。あなたなら、できるわ。」
私は、不安そうな彼を励ました。
「あなたは、元傭兵で戦場の物流も経験しているのでしょう。あなたほど、この仕事に向いている人はいません。」
「ぼ、ボスがそう言うなら。ようし、いっちょやってやるぜ!」
バルガスは、単純なのですぐにやる気を取り戻してくれた。
頼もしい仲間たちだ。
彼らがいれば、この難しい計画もきっと成功するだろう。
私たちは、再び『竜の背骨』山脈を越えた。
行きとは違い、帰り道は少しだけ心に余裕がある。
無事に帝国領を脱出し、エルドラシア王国の土を踏んだ時。
仲間たちからは、思わず安堵のため息が漏れた。
王都への帰還は、迅速だった。
私たちは、誰にも気づかれることなく王都アウレリアの宿舎へと戻った。
旅の疲れを癒す間もなく、私はすぐに次の行動に移る。
「兄様、バルガスたちは宿舎で待機させてください。私は、殿下への報告に行ってまいります。」
「分かった。俺は、影からお前を見守っている。」
ゼロ兄様は、そう言うと音もなく闇夜へと消えていった。
私は、旅の汚れを落とすために簡単な湯浴みを済ませる。
そして、ポルトゥスでの戦勝報告の時とはまた別の、落ち着いた青色のドレスに着替えた。
ガルディナ帝国という、大きな仕事を任された者としての威厳。
それを示すための、小さな演出だった。
王宮へ向かうと、すぐに白薔薇の間へと通された。
アーノルド殿下は、あの時と同じように窓の外を眺めて待っていた。
私が部屋に入ると、彼はゆっくりとこちらを振り返る。
その青い瞳には、何の感情も浮かんでいない。
彼が、私の帰還をどれほど待ちわびていたのか。
そして、どんな結果を期待しているのか。
その本心は、完璧な仮面の下に隠されていて全く読み取れなかった。
「戻ったか、リリア。無事だったようで何よりだ。」
その声も、前回と同じく平坦で感情がこもっていない。
「はい、殿下。ただいま戻りました。そして、殿下との約束を果たしてまいりました。」
私は、貴族としての完璧なお辞儀をした。
私の落ち着いた態度と、「約束を果たした」という言葉。
それに、さすがのアーノルド殿下も少しだけ驚いたようだった。
彼の眉が、かすかに動く。
「ほう、詳しく聞かせてもらおうか。」
彼は、そう言ってテーブルの椅子を勧めてくれた。
私は、彼の向かい側に静かに腰を下ろす。
「まず、ご報告いたします。私は、ガルディナ帝国の三男、フランツ皇子と接触することに成功いたしました。」
「なに、本当に会ったのか。あの『鷹ノ巣城』にいるという、フランツ皇子にか。」
殿下の声に、初めて抑えきれない驚きの色が混じった。
「はい。そして、彼こそが殿下の計画に最もふさわしい人物であると、この目で確認してまいりました。」
私は、フランツ皇子との会話をありのままに報告した。
彼が、噂とはまったく違う「賢い狼」であったこと。
彼の二人の兄、ゲオルグとルドヴィークが、それぞれ力と金で民衆の心を失っていること。
そして、フランツ皇子だけが『民衆の希望』という、最強の武器を秘めていること。
その全てを、冷静に分析して伝えた。
アーノルド殿下は、私の報告を黙って聞いていた。
彼は、一言も口を挟まない。
ただ、その青い瞳だけが知的な光を宿して鋭く私を見つめている。
彼もまた、私の言葉の裏にある情報を頭の中で高速で処理しているのだろう。
「そして、私は殿下のお名前を出すことなくフランツ皇子と一つの契約を結んでまいりました。」
私は、懐からクーノ卿に渡された鷹の紋章の指輪を取り出した。
テーブルの上に、それを静かに置く。
「これは、フランツ皇子の信頼の証です。」
「私は、彼に『虹色の涙』のポーションと、莫大な資金、そして食料の提供を約束しました。その見返りとして彼が皇帝の座についた暁には、我がエルドラシア王国と永遠の友好条約、並びに自由貿易協定を結ぶことを確約させたのです。」
私の報告を聞き終えたアーノルド殿下は、しばらくの間何も言わなかった。
部屋の中には、時計の針が刻む音だけが響いている。
彼の完璧な仮面が、わずかに揺らいでいるのが分かった。
その青い瞳には、驚きと興奮、そして私という存在に対する純粋な畏れのようなものさえ浮かんでいる。
やがて、彼は長い息を吐いた。
そして、心の底から楽しそうに笑い出したのだ。
「は、ははは……。あはははは!」
「まさか、そこまでやってのけるとはな。リリア・アークライト、君は本当に私の想像を常に超えてくる。」
それは、私が初めて聞くアーノルド殿下の心からの笑い声だった。
彼は、王子の仮面をかなぐり捨てて一人の人間として私を称賛してくれていた。
「君は、たった一人で帝国に乗り込み、未来の皇帝候補を手なずけて帰ってきた。それも、我が国の名前を一切出すことなく、王国に最大の利益をもたらす約束まで取り付けてきたのだ。」
「完璧だ。完璧すぎる仕事ぶりだ、リリア。君は、私が望んだ以上の成果を上げてくれた。」
殿下は、椅子から立ち上がると私の前に歩み寄ってきた。
そして、ポルトゥスの時と同じように私の前に片膝をつく。
「リリア、君こそがこの国の宝だ。改めて、私に力を貸してほしい。いや、私と共にこの国を導いてほしい。」
「もったいないお言葉です、殿下。私は、殿下という最高のパートナーがいてこそ、その力を発揮できるのです。」
私も、彼の手を取って立ち上がった。
「では、殿下。さっそく、フランツ皇子を皇帝にするための『お芝居』を始めてもよろしいですよね。」
「もちろんだ。君の計画を、詳しく聞かせてもらおう。資金も、物資も、人も、君が望むままに動かすがいい。」
殿下は、私に全面的な協力を約束してくれた。
私は、待ってましたとばかりに準備していた情報操作の計画を彼に説明し始める。
「まず、ゼロ兄様のネットワークを使って帝国内に噂を流します。二人の兄君の悪評と、フランツ皇子の慈悲深い噂を。」
「それと同時に、バルガスが準備する食料を秘密裏に帝国へ運び込み、フランツ皇子の名前で貧しい村々に配ります。」
「素晴らしい手だ。民衆の心は、それだけでフランツ皇子に傾くだろう。」
殿下も、私の計画の有効性をすぐに理解してくれた。
「ですが殿下、それだけでは足りませんの。私たちには、この計画を実行するための、安全な活動拠点が必要です。」
私は、ここぞとばかりに次の要求を切り出した。
「今の宿舎では、手狭ですし人目にもつきすぎます。それに、アークライト領から『虹色の涙』のポーションを運び込むための、秘密の研究室も必要になります。」
「なるほど、拠点か。確かに、その通りだ。」
アーノルド殿下は、少しの間考え込んだ。
そして、すぐに決断を下す。
「分かった。君に、王都の屋敷を一軒与えよう。貴族街の一等地にある、古い伯爵家の屋敷だ。そこなら、広さも十分だろうし人目も気にならんだろう。そこを、君たちアークライト家の王都別邸として、自由に使うがいい。」
「まあ、よろしいのですか。」
「もちろんだ。君の功績を考えれば、それくらい当然の報酬だ。そこを、君の城として思う存分、腕を振るってもらおう。」
こうして私は、王都の一等地に自分だけの活動拠点を手に入れることになった。
ポルトゥスでの貿易権、そして王都の屋敷。
私の資産は、恐ろしいほどの速さで膨れ上がっていく。
これも全て、私の知識と計画の賜物だった。
私は、アーノルド殿下に深々と礼を述べた。
そして、白薔薇の間を後にする。
宿舎に戻る馬車の中で、私の心は新たな計画でいっぱいだった。
王都の屋敷を、どう改造しようか。
『虹色の涙』のポーションを、どうやって量産しようか。
そして、セシリア姉様の化粧品を、どうやって王都の貴族社会で流行らせようか。
やるべきことは、無限に広がっていた。
宿舎に戻ると、仲間たちが私を待っていた。
私が、王都に屋敷を与えられたことを告げると彼らは、まるで自分のことのように大喜びしてくれた。
「やったぜ、ボス。俺たち、ついに王都に城持ちか。」
ピップが、興奮して叫んだ。
「リリアちゃん、すごすぎるわ。私たち、本当に歴史上の人物になっちゃうんじゃないの。」
リラも、目を輝かせている。
「さあ、皆さん。喜ぶのは、まだ早いですよ。」
私は、そんな仲間たちに笑顔で言った。
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私の言葉に、全員が楽しそうに笑い合った。
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初めての田舎暮らしは……楽しいのですが?!
夫や、かの女性は王城でお元気かしら?
わたくしは元気にしておりますので、ご心配御無用です!
〔『仮面の王と風吹く国の姫君』の続編となります。できるだけこちらだけでわかるようにしています。が、気になったら前作にも立ち寄っていただけると嬉しいです〕〔ただ、ネタバレ的要素がありますのでご了承ください〕
追放された私の代わりに入った女、三日で国を滅ぼしたらしいですよ?
タマ マコト
ファンタジー
王国直属の宮廷魔導師・セレス・アルトレイン。
白銀の髪に琥珀の瞳を持つ、稀代の天才。
しかし、その才能はあまりに“美しすぎた”。
王妃リディアの嫉妬。
王太子レオンの盲信。
そして、セレスを庇うはずだった上官の沈黙。
「あなたの魔法は冷たい。心がこもっていないわ」
そう言われ、セレスは**『無能』の烙印**を押され、王国から追放される。
彼女はただ一言だけ残した。
「――この国の炎は、三日で尽きるでしょう。」
誰もそれを脅しとは受け取らなかった。
だがそれは、彼女が未来を見通す“預言魔法”の言葉だったのだ。
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