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第五章
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勝負まで、三日。
工房に籠もった私は、かつてないほど集中していた。
「リリアーナ、少しは休め」
レオンが食事を運んできた。
「大丈夫です。あと少しで......」
「無理をするな」
彼は私の手から調香瓶を取り上げた。
「お前が倒れたら、元も子もない」
「でも、グレゴールは母の魂を使うんです。私には――」
「お前には、お前にしかないものがある」
レオンは私の肩に手を置いた。
「生きている魂。そして、大切な人を想う心」
その言葉に、胸が熱くなった。
「レオン......」
「俺は、お前を信じている」
彼の深紅の瞳が、優しく微笑んだ。
「だから、無理をしないでくれ」
胸がぽうっとランプが灯ったように温かい気持ちで包まれた。
その夜、私は久しぶりにゆっくり眠った。
夢を見た。
母が、優しく微笑んでいる夢を。
――リリアーナ、怖がらないで。あなたは一人じゃないわ。
目が覚めた時、頬に涙の跡があった。
でも、それは悲しみの涙ではなかった。
喜びだ。
グレゴールが何をしてこようと、母の魂はいつだって私とともにある。
「母さん、見ていてね」
私は新たな決意で、調合を再開した。
* * *
二日目。
「なあ、お嬢ちゃん」
ジャックが工房に入ってきた。
「グレゴールのことだがな......実は、俺も昔、奴に会ったことがある」
「本当ですか?」
「ああ。まだ俺が若い頃、奴は普通の調香師だった」
ジャックは遠い目をした。
「才能はあったが、それ以上に努力家だった。誰よりも香りを愛していた」
「それが、なぜ......」
「奴には、幼い娘がいてな」
ジャックは重い口調で続けた。
「不治の病にかかった。医者は匙を投げた。だが、グレゴールは諦めなかった」
「まさか......」
「ああ。娘を救うために、禁断の調香術に手を出した。他人の生命力を香料にして、娘に与えようとした」
ジャックは首を振った。
「だが、失敗した。娘は死に、グレゴールは正気を失った。それ以来、奴は無数の人間を香料にし続けているというわけさ」
私は言葉を失った。
グレゴールは、最初から悪魔ではなかった。
ただ、愛する者を救おうとして、道を踏み外した哀れな父親だったのだ。
「まあ、だからといって、お嬢ちゃんの母さんの魂を使うなんて、許されることじゃない。あんなもんは邪道だ」
ジャックは厳しい表情で言ったあと、私の顔を見た。
「必ず勝てよ」
「ええ」
* * *
勝負前日の夜。
レオンが私を屋上に呼んだ。
王都の夜景が、眼下に広がっていた。
「綺麗ですね」
「ああ」
レオンは欄干にもたれた。
「リリアーナ、俺の呪いについて話していなかったことがある」
「呪い?」
「感情を失っていく、と言ったが......正確には違う」
彼は空を見上げた。
「失うんじゃない。感じられなくなるんだ。幸せも、悲しみも、怒りも。全てが、灰色に見える」
レオンの声は、どこか虚ろだった。
「五年前、母が亡くなった時も、俺は涙一つ流せなかった。愛していたはずなのに」
「レオン......」
「だから、お前に会えて良かった」
彼は私を見た。
「お前といると、色が戻ってくる。世界が、また美しく見えるんだ」
月明かりの中、レオンの顔が近づいてきた。
心臓が激しく鳴る。
でも――。
「待って」
私は顔を背けた。
「私は、あなたの『薬』じゃありません」
レオンは驚いた表情を浮かべた。
「私は、呪いを解くための道具になりたくない」
私は真っ直ぐにレオンを見つめた。
「でももし、あなたが本当に私を――」
言葉が続かなかった。
長い沈黙の後、レオンが微笑んだ。
「分かった」
彼は私の頭を優しく撫でた。
「勝負が終わったら、改めて答えを聞かせてくれ」
そう言って、レオンは去って行った。
その背中に何か声をかけてあげたいのに、こういう時だけ私の口は役立たずだった。
* * *
勝負の場は、王宮の大広間で執り行われることとなった。
観客席には、王族、貴族、そして調香師たちが詰めかけていた。
中央に二つの調香台が設置され、左にグレゴール、右に私。
「ルールを説明します」
モーリス卿が審判として前に出た。
「テーマは『生命』。制限時間は三時間。完成した香水を、審査員に提出していただきます」
審査員は、王、王妃、そしてアルベルト王太子。
「では、始めてください」
鐘が鳴った。
グレゴールは即座に調合を始めた。
彼の手際は見事だった。無駄な動きが一切ない。
そして、彼が使う香料は――黒い小瓶。
母の魂が入った瓶。
怒りが込み上げてくる。
けれど、私は深呼吸をして落ち着いた。
「――感情に呑まれるな」
レオンの声が、脳裏に蘇る。
私は自分の調合に集中した。
『生命』とは何か?
しっかりと考えてきたでしょう。
私は香料を選び始めた。
まず、春の花々。新しい命の象徴。
次に、夏の果実。成長の喜び。
やがて秋の木の実。成熟の深み。
そして最後に――私自身の魂の欠片を、一滴。
左胸に指をあてれば白銀に輝く真珠のような雫が取り出される。
辺りから、歓声とざわめきが聞こえた。
これは賭けだった。
【魂香創成】で自分の魂を香料にすることは、大きな代償を伴う。
最悪、永遠に意識を失うかもしれない。
でも、これしかない。
死者の魂に対抗するには、いま生きている者の、私自身の命で戦いぬくしかない。
調合を進めるうちに、あたりの景色が歪み始めた。
「リリアーナ!」
レオンの声が遠くに聞こえる。
でも、まだ完成していない。
あと少し、あと少しだけ......。
ゆっくりと小瓶に香水が垂らされ、そして封を閉じる。
完成の瞬間、私の意識は途切れた。
工房に籠もった私は、かつてないほど集中していた。
「リリアーナ、少しは休め」
レオンが食事を運んできた。
「大丈夫です。あと少しで......」
「無理をするな」
彼は私の手から調香瓶を取り上げた。
「お前が倒れたら、元も子もない」
「でも、グレゴールは母の魂を使うんです。私には――」
「お前には、お前にしかないものがある」
レオンは私の肩に手を置いた。
「生きている魂。そして、大切な人を想う心」
その言葉に、胸が熱くなった。
「レオン......」
「俺は、お前を信じている」
彼の深紅の瞳が、優しく微笑んだ。
「だから、無理をしないでくれ」
胸がぽうっとランプが灯ったように温かい気持ちで包まれた。
その夜、私は久しぶりにゆっくり眠った。
夢を見た。
母が、優しく微笑んでいる夢を。
――リリアーナ、怖がらないで。あなたは一人じゃないわ。
目が覚めた時、頬に涙の跡があった。
でも、それは悲しみの涙ではなかった。
喜びだ。
グレゴールが何をしてこようと、母の魂はいつだって私とともにある。
「母さん、見ていてね」
私は新たな決意で、調合を再開した。
* * *
二日目。
「なあ、お嬢ちゃん」
ジャックが工房に入ってきた。
「グレゴールのことだがな......実は、俺も昔、奴に会ったことがある」
「本当ですか?」
「ああ。まだ俺が若い頃、奴は普通の調香師だった」
ジャックは遠い目をした。
「才能はあったが、それ以上に努力家だった。誰よりも香りを愛していた」
「それが、なぜ......」
「奴には、幼い娘がいてな」
ジャックは重い口調で続けた。
「不治の病にかかった。医者は匙を投げた。だが、グレゴールは諦めなかった」
「まさか......」
「ああ。娘を救うために、禁断の調香術に手を出した。他人の生命力を香料にして、娘に与えようとした」
ジャックは首を振った。
「だが、失敗した。娘は死に、グレゴールは正気を失った。それ以来、奴は無数の人間を香料にし続けているというわけさ」
私は言葉を失った。
グレゴールは、最初から悪魔ではなかった。
ただ、愛する者を救おうとして、道を踏み外した哀れな父親だったのだ。
「まあ、だからといって、お嬢ちゃんの母さんの魂を使うなんて、許されることじゃない。あんなもんは邪道だ」
ジャックは厳しい表情で言ったあと、私の顔を見た。
「必ず勝てよ」
「ええ」
* * *
勝負前日の夜。
レオンが私を屋上に呼んだ。
王都の夜景が、眼下に広がっていた。
「綺麗ですね」
「ああ」
レオンは欄干にもたれた。
「リリアーナ、俺の呪いについて話していなかったことがある」
「呪い?」
「感情を失っていく、と言ったが......正確には違う」
彼は空を見上げた。
「失うんじゃない。感じられなくなるんだ。幸せも、悲しみも、怒りも。全てが、灰色に見える」
レオンの声は、どこか虚ろだった。
「五年前、母が亡くなった時も、俺は涙一つ流せなかった。愛していたはずなのに」
「レオン......」
「だから、お前に会えて良かった」
彼は私を見た。
「お前といると、色が戻ってくる。世界が、また美しく見えるんだ」
月明かりの中、レオンの顔が近づいてきた。
心臓が激しく鳴る。
でも――。
「待って」
私は顔を背けた。
「私は、あなたの『薬』じゃありません」
レオンは驚いた表情を浮かべた。
「私は、呪いを解くための道具になりたくない」
私は真っ直ぐにレオンを見つめた。
「でももし、あなたが本当に私を――」
言葉が続かなかった。
長い沈黙の後、レオンが微笑んだ。
「分かった」
彼は私の頭を優しく撫でた。
「勝負が終わったら、改めて答えを聞かせてくれ」
そう言って、レオンは去って行った。
その背中に何か声をかけてあげたいのに、こういう時だけ私の口は役立たずだった。
* * *
勝負の場は、王宮の大広間で執り行われることとなった。
観客席には、王族、貴族、そして調香師たちが詰めかけていた。
中央に二つの調香台が設置され、左にグレゴール、右に私。
「ルールを説明します」
モーリス卿が審判として前に出た。
「テーマは『生命』。制限時間は三時間。完成した香水を、審査員に提出していただきます」
審査員は、王、王妃、そしてアルベルト王太子。
「では、始めてください」
鐘が鳴った。
グレゴールは即座に調合を始めた。
彼の手際は見事だった。無駄な動きが一切ない。
そして、彼が使う香料は――黒い小瓶。
母の魂が入った瓶。
怒りが込み上げてくる。
けれど、私は深呼吸をして落ち着いた。
「――感情に呑まれるな」
レオンの声が、脳裏に蘇る。
私は自分の調合に集中した。
『生命』とは何か?
しっかりと考えてきたでしょう。
私は香料を選び始めた。
まず、春の花々。新しい命の象徴。
次に、夏の果実。成長の喜び。
やがて秋の木の実。成熟の深み。
そして最後に――私自身の魂の欠片を、一滴。
左胸に指をあてれば白銀に輝く真珠のような雫が取り出される。
辺りから、歓声とざわめきが聞こえた。
これは賭けだった。
【魂香創成】で自分の魂を香料にすることは、大きな代償を伴う。
最悪、永遠に意識を失うかもしれない。
でも、これしかない。
死者の魂に対抗するには、いま生きている者の、私自身の命で戦いぬくしかない。
調合を進めるうちに、あたりの景色が歪み始めた。
「リリアーナ!」
レオンの声が遠くに聞こえる。
でも、まだ完成していない。
あと少し、あと少しだけ......。
ゆっくりと小瓶に香水が垂らされ、そして封を閉じる。
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