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第七章
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その言葉が広間に落ちた瞬間、まるで魔法がかけられたように、広間全体が、しんと静まり返った。
誰も息をしていないかのような、完全な静寂。シャンデリアの蝋燭の炎が揺れる音さえ聞こえそうなほどの静けさだった。
王室が後見を引き受ける――その意味を、私は噛みしめた。
それは、私が完全に保護されることを意味する。王室の庇護下に置かれるということは、もう誰も私に手出しできないということだ。叔父は、二度と私を支配できない。物置部屋に閉じ込めることも、食事を与えないことも、使用人のように働かせることも。
全てが、終わったのだ。
私の胸に、熱いものが込み上げてきた。涙が溢れそうになるのを、必死にこらえる。今は、今だけは、泣いてはいけない。
「そんな......馬鹿な......」
叔父の声が、震えていた。その声は掠れ、力がない。彼の顔は蒼白を通り越して、灰色に近い色になっている。
「私の......私の計画が......全てが......」
叔父の膝が、がくりと折れた。
そして次の瞬間、彼は糸が切れた人形のように、大理石の床に崩れ落ちた。その音が、静寂の中で鈍く響いた。かつて威圧的に私を見下ろしていた男が、今は床に這いつくばっている。
周囲の貴族たちが、ざわめき始めた。しかし今度は、同情の声は一つもない。全てが、非難と軽蔑の色を帯びている。
私は、崩れ落ちた叔父を見下ろした。
十年間。この男に支配され、苦しめられた十年間。
しかし今、その全てが終わりを告げた。
その夜、私は王宮が用意してくれた馬車で、一時的な滞在先へと向かった。
馬車の窓から見える夜の王都は、いつもと違って見えた。街灯の光が石畳を照らし、遅くまで営業している店の明かりが温かく灯っている。この同じ景色を、私は何度も物置部屋の小さな窓から眺めていた。けれど今夜は、牢獄の中からではなく、自由な身として見ている。
叔父の屋敷にはもう戻らない――その事実が、ようやく実感として胸に染み込んできた。
エマだけは、私の侍女として共に来てくれることになった。彼女は馬車の向かい側に座り、ハンカチで目元を押さえている。その肩が小刻みに震えていた。
「セレスティーナ様、本当に良かった......本当に」
エマが涙を拭いながら、何度も何度も繰り返した。その声は喜びと安堵で震えている。四十年も屋敷に仕えてきた彼女にとって、この十年間、私の苦しみを見ているのがどれほど辛かっただろう。
「エマ、貴女のおかげよ」
私はエマの手を取った。その手は、長年の労働で硬く、それでいて温かかった。
「招待状を見つけてくれなかったら、今も――」
「いいえ」
エマは首を横に振った。涙で濡れた顔に、柔らかな笑みが浮かんでいる。
「これは運命だったのです。亡くなられた奥様が、天からきっと導いてくださったのでしょう」
母の顔が、脳裏に浮かんだ。優しく微笑む母の姿。もし母が生きていたら、今夜のことをどう思っただろう。きっと、喜んでくれたに違いない。
馬車が王宮近くの邸宅の前で止まった。王室が用意してくれた、私の新しい住まいだ。石造りの三階建ての瀟洒な建物で、窓からは温かな光が漏れている。
翌朝、まだ朝靄が残る早い時間に、王宮からの使者が訪れた。
彼らは、私の荷物を叔父の屋敷から運んできた。思ったよりも多くの箱が、次々と邸宅の中へと運び込まれていく。その中には、母の遺品も含まれていた。十年間、叔父が意図的に隠していたものだ。
居間に並べられた箱を前に、私は深呼吸をした。手が少し震えている。
一つ目の箱を開けると、母が愛用していた香水の瓶が目に入った。もう香りは薄れているが、わずかに残る花の香りが、記憶を呼び覚ます。次の箱には、母の日記が何冊も入っていた。繊細な文字で綴られたページを捲ると、幼い私のことが書かれている。
父の手紙も見つかった。戦地から母に宛てて書かれた、愛に満ちた言葉の数々。読んでいると、涙が止まらなくなった。
そして最後の箱――その底に、古い布が大切に包まれていた。
取り出すと、それは時代を感じさせる、褪せた絹の布だった。しかし表面には、今も美しい刺繍が施されている。月と星の模様が、繊細な糸で描かれていた。
私は無意識に、その布に手を触れた。
瞬間、『星霜の記憶』が、かつてないほど強く発動した。
視界が真っ白に染まり、そして――
――百年前の宮廷が見えた。
優雅な礼服を纏った女性が、静かに針を動かしている。
彼女こそが、王家に仕えた伝説の仕立て職人、エリアノーラ・ディ・ルーナ。
彼女の手から生まれる刺繍は、まるで魔法のように美しく、王侯貴族たちを魅了した。
記憶は次々と流れ込んでくる。
彼女が編み出した特別な刺繍技法――『星降りの縫い』。針を刺す角度、糸を引く力加減、全てに意味がある。そして、失われたはずの『月光糸』の製法。特別な繭から取れる糸を、月の光を浴びせながら紡ぐ。その糸は、光を受けると虹色に輝く――
記憶の波が引いていき、私は現実に戻った。
「これは......」
誰も息をしていないかのような、完全な静寂。シャンデリアの蝋燭の炎が揺れる音さえ聞こえそうなほどの静けさだった。
王室が後見を引き受ける――その意味を、私は噛みしめた。
それは、私が完全に保護されることを意味する。王室の庇護下に置かれるということは、もう誰も私に手出しできないということだ。叔父は、二度と私を支配できない。物置部屋に閉じ込めることも、食事を与えないことも、使用人のように働かせることも。
全てが、終わったのだ。
私の胸に、熱いものが込み上げてきた。涙が溢れそうになるのを、必死にこらえる。今は、今だけは、泣いてはいけない。
「そんな......馬鹿な......」
叔父の声が、震えていた。その声は掠れ、力がない。彼の顔は蒼白を通り越して、灰色に近い色になっている。
「私の......私の計画が......全てが......」
叔父の膝が、がくりと折れた。
そして次の瞬間、彼は糸が切れた人形のように、大理石の床に崩れ落ちた。その音が、静寂の中で鈍く響いた。かつて威圧的に私を見下ろしていた男が、今は床に這いつくばっている。
周囲の貴族たちが、ざわめき始めた。しかし今度は、同情の声は一つもない。全てが、非難と軽蔑の色を帯びている。
私は、崩れ落ちた叔父を見下ろした。
十年間。この男に支配され、苦しめられた十年間。
しかし今、その全てが終わりを告げた。
その夜、私は王宮が用意してくれた馬車で、一時的な滞在先へと向かった。
馬車の窓から見える夜の王都は、いつもと違って見えた。街灯の光が石畳を照らし、遅くまで営業している店の明かりが温かく灯っている。この同じ景色を、私は何度も物置部屋の小さな窓から眺めていた。けれど今夜は、牢獄の中からではなく、自由な身として見ている。
叔父の屋敷にはもう戻らない――その事実が、ようやく実感として胸に染み込んできた。
エマだけは、私の侍女として共に来てくれることになった。彼女は馬車の向かい側に座り、ハンカチで目元を押さえている。その肩が小刻みに震えていた。
「セレスティーナ様、本当に良かった......本当に」
エマが涙を拭いながら、何度も何度も繰り返した。その声は喜びと安堵で震えている。四十年も屋敷に仕えてきた彼女にとって、この十年間、私の苦しみを見ているのがどれほど辛かっただろう。
「エマ、貴女のおかげよ」
私はエマの手を取った。その手は、長年の労働で硬く、それでいて温かかった。
「招待状を見つけてくれなかったら、今も――」
「いいえ」
エマは首を横に振った。涙で濡れた顔に、柔らかな笑みが浮かんでいる。
「これは運命だったのです。亡くなられた奥様が、天からきっと導いてくださったのでしょう」
母の顔が、脳裏に浮かんだ。優しく微笑む母の姿。もし母が生きていたら、今夜のことをどう思っただろう。きっと、喜んでくれたに違いない。
馬車が王宮近くの邸宅の前で止まった。王室が用意してくれた、私の新しい住まいだ。石造りの三階建ての瀟洒な建物で、窓からは温かな光が漏れている。
翌朝、まだ朝靄が残る早い時間に、王宮からの使者が訪れた。
彼らは、私の荷物を叔父の屋敷から運んできた。思ったよりも多くの箱が、次々と邸宅の中へと運び込まれていく。その中には、母の遺品も含まれていた。十年間、叔父が意図的に隠していたものだ。
居間に並べられた箱を前に、私は深呼吸をした。手が少し震えている。
一つ目の箱を開けると、母が愛用していた香水の瓶が目に入った。もう香りは薄れているが、わずかに残る花の香りが、記憶を呼び覚ます。次の箱には、母の日記が何冊も入っていた。繊細な文字で綴られたページを捲ると、幼い私のことが書かれている。
父の手紙も見つかった。戦地から母に宛てて書かれた、愛に満ちた言葉の数々。読んでいると、涙が止まらなくなった。
そして最後の箱――その底に、古い布が大切に包まれていた。
取り出すと、それは時代を感じさせる、褪せた絹の布だった。しかし表面には、今も美しい刺繍が施されている。月と星の模様が、繊細な糸で描かれていた。
私は無意識に、その布に手を触れた。
瞬間、『星霜の記憶』が、かつてないほど強く発動した。
視界が真っ白に染まり、そして――
――百年前の宮廷が見えた。
優雅な礼服を纏った女性が、静かに針を動かしている。
彼女こそが、王家に仕えた伝説の仕立て職人、エリアノーラ・ディ・ルーナ。
彼女の手から生まれる刺繍は、まるで魔法のように美しく、王侯貴族たちを魅了した。
記憶は次々と流れ込んでくる。
彼女が編み出した特別な刺繍技法――『星降りの縫い』。針を刺す角度、糸を引く力加減、全てに意味がある。そして、失われたはずの『月光糸』の製法。特別な繭から取れる糸を、月の光を浴びせながら紡ぐ。その糸は、光を受けると虹色に輝く――
記憶の波が引いていき、私は現実に戻った。
「これは......」
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