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契約の年月
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***
クラウスから、
「明日からしばらく城を開ける」
と告げられたのは、エミールが娼館から戻ったその日の夜だった。
日付ももう変わるかという深夜に、突然クラウスの来訪を告げられ、エミールは慌ててガウンを羽織って寝室を出た。契約の始めに、夕食は可能な限り一緒に摂るという取り決めをしていたが、今日はひとりで食べた。きっと忙しいのだろうと思っていたから、こんな夜更けに来るとは予想もできず驚いた。
談話室のドアの前に立つ男は、騎士団の制服姿のままだ。
早朝の出立になるとのことで、
「迷惑かと思ったが、いまを逃すとしばらくきみに会えない」
エミールの姿を焼き付けたいとばかりに、クラウスは強い視線をこちらに注いできた。
それを浴びながらエミールは、しばらく、という言葉に引っかかった。
「どこに行くんですか」
「それは言えない」
「いつまでかかるんです」
「わからない」
「じゃあ、なにをしに、」
「エミール」
エミールの問いを遮った男の手が、腰に回った。そのまま引き寄せられ、エミールは抗わずにクラウスの腕に収まった。
「任務について教えられることはない」
抱きしめてくる手はやさしいのに、クラウスの声はエミールを突き放した。
ともに闘ってくれと言ったのは自分のくせに。
エミールはなにも教えてくれない男の胸を、ゆるく握ったこぶしでドンと叩いた。
「オレが信用できないんですか」
「そういう意味じゃない」
「そういう意味に聞こえる」
背の高い男を睨み上げると、クラウスの眉が困ったように上下した。
この三年で、クラウスが騎士団の任務で帰って来ない日もあった。しかしこんなふうに改まって、出立を告げられたことはない。
不在の期間は、どれぐらいなのだろう。
騎士団が動く以上、危険はきっとあるのだろう。安全な場所に武力は必要ないのだから。
エミールは男の胸に置いたこぶしを開き、黒衣の肩口に頬を擦り付け、そっともたれかかった。首筋から、アルファの匂いが漂ってくる。まだ入浴もできていないのか、誘発香はとろりと濃く、エミールの鼻腔に入り込んできた。
「エミール、キスをしてもいいか」
実直な声で尋ねられ、思わず笑ってしまう。
クラウスの唇の感触に慣れたのは、いつ頃からだろう。頬に、ひたいに、こめかみに、そして、唇に。幾度もキスをされた。抱きしめられることもキスされることも、思えば最初からあまり抵抗はなかった。嫌だと思ったことはなかった。
おかしな話だ。
見ず知らずの男の腕の中で、安堵を覚えたなんて。
クラウスがアルファで、エミールがオメガだからだろうか。
本能なんて知らない。運命のつがいなんてわからない。
でも、クラウスを求める気持ちがエミールの中に根付いている。
どうぞ、と答える変わりにエミールは、顎を上げて目を閉じた。
クラウスの指先が、頬骨から顎先にかけて滑った。くすぐったくて吐息で笑うと、ちゅっと唇を啄まれた。
触れて、離れる。それを三度繰り返し、また唇が重なった。
触れ合ったそこから、クラウスの舌が潜り込んで来ようとしている。
エミールは瞼を持ち上げ、男の胸をゆるく押し返した。抵抗とも言えないほどの力だ。それでもクラウスは素直に身を引いた。
「嫌か」
短く問われて、「いやです」と掠れた声で答える。
クラウスが凛々しい狼から捨てられた犬のような顔になった。いつもながら、自分のひと言で一喜一憂する様が可笑しかった。
「まだ、契約期間が残ってますから」
三年が経つまで、あとひと月。きちんとした答えを出す前に、流されてしまうのは嫌だった。
そうだったな、とクラウスが頷いた。
「きみに良い返事がもらえるよう、残りの期間も精進しよう」
第二王子で、容姿にも恵まれ、つがう相手などおのれが選ぶ立場のはずなのに、クラウスはエミールに選んでもらおうとする態度を崩さない。
たぶん、自分たちは色々と逆なのだ。
ふつうはエミールの方が、クラウスに気に入ってもらえるよう尽くさなければならないし、ご機嫌伺いをしなければならないはずだ。
オレなんかのなにがそんなにいいんだろう。その疑問は依然としてエミールの中にあったが、毎日のように告げられる愛の言葉を疑う気持ちは、いまはほとんどなくなっていた。
「ひと月で、帰ってこられるんですか?」
エミールは精悍なラインを描くクラウスの頬を両手で包み、視線を合わせて問いかけた。
蒼い双眸が、わずかに細くなる。
任務について話せることはない。だから期間も答えられない。そう言わんばかりの彼の瞳を覗き込み、エミールは口を開いた。
「期間内に戻って来なければ、契約は自動的に一年延長となりますからね」
「……なんだと?」
「お試し期間が延びます。オレの返事も延長です」
クラウスのぎょっとした表情に笑いをこらえながら、エミールは淡々とそう言った。
クラウスがガシっと両肩を掴んできた。
さすがに無礼がすぎたかな、と思ったエミールだったが、クラウスは真顔で大きく頷いた。
「必ずひと月以内に戻ってくる」
「…………」
「きみのところへ帰ってくる」
「……ふっ、」
我慢できずにエミールは吹き出した。
「必死すぎる」
「私はいつもきみのつがいに選んでほしくて必死だ」
「任務の期間は答えられないんでしょう?」
「きみとの約束が優先だ。任務はひと月以内に終わらせる」
頑と言い切ったその顔は大真面目で、瞳は決意に燃えていた。
エミールは軽く背伸びをして、クラウスの唇にキスをした。
「待ってますよ、オレのアルファ」
クラウスから、
「明日からしばらく城を開ける」
と告げられたのは、エミールが娼館から戻ったその日の夜だった。
日付ももう変わるかという深夜に、突然クラウスの来訪を告げられ、エミールは慌ててガウンを羽織って寝室を出た。契約の始めに、夕食は可能な限り一緒に摂るという取り決めをしていたが、今日はひとりで食べた。きっと忙しいのだろうと思っていたから、こんな夜更けに来るとは予想もできず驚いた。
談話室のドアの前に立つ男は、騎士団の制服姿のままだ。
早朝の出立になるとのことで、
「迷惑かと思ったが、いまを逃すとしばらくきみに会えない」
エミールの姿を焼き付けたいとばかりに、クラウスは強い視線をこちらに注いできた。
それを浴びながらエミールは、しばらく、という言葉に引っかかった。
「どこに行くんですか」
「それは言えない」
「いつまでかかるんです」
「わからない」
「じゃあ、なにをしに、」
「エミール」
エミールの問いを遮った男の手が、腰に回った。そのまま引き寄せられ、エミールは抗わずにクラウスの腕に収まった。
「任務について教えられることはない」
抱きしめてくる手はやさしいのに、クラウスの声はエミールを突き放した。
ともに闘ってくれと言ったのは自分のくせに。
エミールはなにも教えてくれない男の胸を、ゆるく握ったこぶしでドンと叩いた。
「オレが信用できないんですか」
「そういう意味じゃない」
「そういう意味に聞こえる」
背の高い男を睨み上げると、クラウスの眉が困ったように上下した。
この三年で、クラウスが騎士団の任務で帰って来ない日もあった。しかしこんなふうに改まって、出立を告げられたことはない。
不在の期間は、どれぐらいなのだろう。
騎士団が動く以上、危険はきっとあるのだろう。安全な場所に武力は必要ないのだから。
エミールは男の胸に置いたこぶしを開き、黒衣の肩口に頬を擦り付け、そっともたれかかった。首筋から、アルファの匂いが漂ってくる。まだ入浴もできていないのか、誘発香はとろりと濃く、エミールの鼻腔に入り込んできた。
「エミール、キスをしてもいいか」
実直な声で尋ねられ、思わず笑ってしまう。
クラウスの唇の感触に慣れたのは、いつ頃からだろう。頬に、ひたいに、こめかみに、そして、唇に。幾度もキスをされた。抱きしめられることもキスされることも、思えば最初からあまり抵抗はなかった。嫌だと思ったことはなかった。
おかしな話だ。
見ず知らずの男の腕の中で、安堵を覚えたなんて。
クラウスがアルファで、エミールがオメガだからだろうか。
本能なんて知らない。運命のつがいなんてわからない。
でも、クラウスを求める気持ちがエミールの中に根付いている。
どうぞ、と答える変わりにエミールは、顎を上げて目を閉じた。
クラウスの指先が、頬骨から顎先にかけて滑った。くすぐったくて吐息で笑うと、ちゅっと唇を啄まれた。
触れて、離れる。それを三度繰り返し、また唇が重なった。
触れ合ったそこから、クラウスの舌が潜り込んで来ようとしている。
エミールは瞼を持ち上げ、男の胸をゆるく押し返した。抵抗とも言えないほどの力だ。それでもクラウスは素直に身を引いた。
「嫌か」
短く問われて、「いやです」と掠れた声で答える。
クラウスが凛々しい狼から捨てられた犬のような顔になった。いつもながら、自分のひと言で一喜一憂する様が可笑しかった。
「まだ、契約期間が残ってますから」
三年が経つまで、あとひと月。きちんとした答えを出す前に、流されてしまうのは嫌だった。
そうだったな、とクラウスが頷いた。
「きみに良い返事がもらえるよう、残りの期間も精進しよう」
第二王子で、容姿にも恵まれ、つがう相手などおのれが選ぶ立場のはずなのに、クラウスはエミールに選んでもらおうとする態度を崩さない。
たぶん、自分たちは色々と逆なのだ。
ふつうはエミールの方が、クラウスに気に入ってもらえるよう尽くさなければならないし、ご機嫌伺いをしなければならないはずだ。
オレなんかのなにがそんなにいいんだろう。その疑問は依然としてエミールの中にあったが、毎日のように告げられる愛の言葉を疑う気持ちは、いまはほとんどなくなっていた。
「ひと月で、帰ってこられるんですか?」
エミールは精悍なラインを描くクラウスの頬を両手で包み、視線を合わせて問いかけた。
蒼い双眸が、わずかに細くなる。
任務について話せることはない。だから期間も答えられない。そう言わんばかりの彼の瞳を覗き込み、エミールは口を開いた。
「期間内に戻って来なければ、契約は自動的に一年延長となりますからね」
「……なんだと?」
「お試し期間が延びます。オレの返事も延長です」
クラウスのぎょっとした表情に笑いをこらえながら、エミールは淡々とそう言った。
クラウスがガシっと両肩を掴んできた。
さすがに無礼がすぎたかな、と思ったエミールだったが、クラウスは真顔で大きく頷いた。
「必ずひと月以内に戻ってくる」
「…………」
「きみのところへ帰ってくる」
「……ふっ、」
我慢できずにエミールは吹き出した。
「必死すぎる」
「私はいつもきみのつがいに選んでほしくて必死だ」
「任務の期間は答えられないんでしょう?」
「きみとの約束が優先だ。任務はひと月以内に終わらせる」
頑と言い切ったその顔は大真面目で、瞳は決意に燃えていた。
エミールは軽く背伸びをして、クラウスの唇にキスをした。
「待ってますよ、オレのアルファ」
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