『影の夫人とガラスの花嫁』

柴田はつみ

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第3章「前妻の肖像画」

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回廊を抜け、カルロスに案内されて向かった先は、
屋敷の西側にある“小さな応接間”だった。

壁は淡いクリーム色。
窓は東と違い、昼でも薄暗い。
その柔らかな陰影が、部屋全体を静寂の色で包んでいた。

「……ここは、静かで落ち着く。
 君がひとりで過ごしたい時に使うといい」

カルロスがそう言い、扉を開ける。

シャルロットはそっと足を踏み入れた。
ふと、視界の奥で何かが光を反射した。

それは──

壁に掛けられた、一枚の大きな肖像画。

白百合の花束を抱き、黒髪を流した美しい女性が、
まるで今にも微笑みかけてくるような優雅さで描かれていた。

見るだけで息が止まりそうなほど美しい。

シャルロットはゆっくりとつぶやいた。

「……こちらの方が、前妻エリザベラ様……?」

カルロスの足が、ぴたりと止まった。

その表情が、空気の温度を変えるほどの緊張を帯びる。

「……ああ。エリザベラだ」

声は穏やかなのに、どこか固い。
シャルロットの胸がひやりと冷えた。

(やっぱり……美しい人だったのね)

肖像画の彼女は、
華やかで、強くて、堂々としていて、
“後妻の自分”とはまるで違う世界の人だった。

シャルロットは絵から目が離せないまま、
ほんの少しだけ問いを口にした。

「……お優しい方だったのですか?」

カルロスは一瞬だけ目を閉じた。
痛むような、迷うような沈黙。

そして、短く答える。

「……優しい女性だった。
 だが……」

『だが』の先を言いかけて、
カルロスは急に言葉を飲み込んだ。

そのまま、背を向けるように歩み寄り、
肖像画の正面に立った。

そして、気づかれたくないような小さな動きで、
額縁の下に触れた。

シャルロットは見逃さなかった。

(隠した……?)

カルロスはその手をすぐ下ろし、
再びシャルロットへ向き合った。

「……ここは、もう使わない。
 別の部屋を整えさせる」

「え……でも、とても素敵な部屋ですわ」

「……ここは、君には……相応しくない」

静かな声だったが、その言葉に胸がひどく痛む。

(私が……前妻様の影だから?)

言葉にはしない。
してしまえば、自分が壊れてしまう気がした。

カルロスは少し言葉を探し、そして続けた。

「……エリザベラの物は、徐々に別の場所へ移す。
 君が気に病む必要はない」

「……気に病んでなど……」

そう言いかけたが、声が震えた。
嘘だとすぐに分かる震えだった。

カルロスはシャルロットの表情を見つめた。
その眼差しは優しい。
けれど近づこうとしない優しさだった。

(優しいのに、どうして……触れられないの?)

そのとき──
廊下の奥から、噂好きの令嬢たちの声が聞こえてきた。

「エリザベラ様の肖像画、まだ残っているそうよ」
「後妻なんて……影の夫人よ」
「公爵さまは、今もあの方を──」

途端に、胸の奥が細かくひび割れるような痛みに満たされた。

カルロスは静かに眉を寄せ、
その声を遮るように扉を閉めた。

「……すまない。こんな思いをさせて」

シャルロットは首を振る。
涙は見せたくなかった。

「大丈夫……ですわ」

たったそれだけの声が
自分でも驚くほど弱く聞こえた。

カルロスはその震えに気づき、
一歩だけ、シャルロットに近づいた。

けれど──
触れようと伸びた手は、寸前で止まり、静かに落ちる。

(どうして……触れてくれないの?)

沈黙の距離が、二人の間に広がる。

カルロスは小さく息を吸い、
胸の奥で揺れる何かを押し殺すように言った。

「……君には、明るい場所が似合う。
 ここではない」

それだけ言うと、
彼は肖像画に背を向け、
静かに部屋を後にした。

残されたシャルロットは、
その遠い背中を見つめながら思った。

(私は……あなたの隣には立てないの?)

その胸の痛みは、まるで硝子細工の裂け目のように
静かに広がっていった。

そして彼女はまだ知らない。

カルロスが 肖像画の裏に隠された“前妻の真実” を
必死に守ろうとしていることを──。
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