『影の夫人とガラスの花嫁』

柴田はつみ

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第7章「前妻の書庫」

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翌日の午前、屋敷には柔らかな陽光が差し込み、
白い回廊が硝子のように静かに光っていた。

シャルロットは、昨日カルロスが
「今日はゆっくり休め」と言った言葉を胸に、
屋敷の中をひとり歩いていた。

しかし心は休まらなかった。

(……あの距離のままじゃ、
 わたくし……どうしたらいいの?)

胸の奥は、まだ「冷たい寝室」の痛みを抱えたまま。

そんなとき、
廊下の奥の扉がふいに揺れた。

見覚えのある、
**あの“鍵の掛かった部屋”**だった。

──前妻の書庫。

昨日カルロスが、
「今は……見せられない」と鍵を掛けた部屋。

だが今日は、少しだけ扉が開いていた。

(誰か……いる?)

近づくと、
中からかすかな“紙の擦れる音”がした。

シャルロットは迷った。
入るべきではない。
でも──

(この部屋に、
 公爵さまが触れたくない理由があるなら……
 知りたい……)

震える心を押さえ、
静かに扉を押した。

軋む音とともに、
薄暗い部屋の空気が流れ出す。

そこは、
まるで時間が止まったような空間だった。

机の上には古い羊皮紙の山、
棚にはぎっしりと並べられた本。
淡い光の中に、埃がきらきら舞っている。

そして奥の壁には──

前妻エリザベラの小さな肖像画が、
大切に飾られていた。

胸がきゅっと縮む。

(……触れない理由は……これ?
 やっぱり……まだ、忘れられないのね)

シャルロットはゆっくりと近づき、
額縁に手を伸ばしかけた。

その瞬間。

強い腕が後ろから彼女の手首を掴んだ。

「シャルロット──!」

低く鋭い声。
シャルロットは驚いて振り返った。

カルロスだった。

黒い瞳は普段の静けさとは違い、
明らかな焦りと……怒りを宿していた。

「ここは……入るなと言ったはずだ」

その声に、
シャルロットの胸が小さく震える。

「ご、ごめんなさい……でも……
 扉が開いていたから……誰かいるのかと」

カルロスは息を吸い、
震えるように手を離した。

しかしすぐに視線を逸らし、
深く険しい声で言う。

「ここは……危険なんだ」

「……危険?」

シャルロットは思わず聞き返した。

カルロスの眉がわずかに歪む。

「君に……知られたくないものが、ここにはある」

「それは……エリザベラ様の、もの……だから?」

カルロスの肩がびくりと揺れた。

強い否定が、喉まで出かかったようだった。
けれど──彼は何も言わない。

その沈黙が、
シャルロットの胸を切り裂く。

(言ってくれない……
 わたくしにだけ、秘密があるの?)

シャルロットはかすかに微笑もうとした。
しかし声が震えてしまう。

「……わたくしが後妻だから……
 触れてほしくないのですか?」

カルロスの表情が、一瞬だけ揺れた。

深い影が、その瞳に宿る。

「違う……違うんだ、シャルロット」

「では、なぜ……ここに入ってはいけないのですか?」

カルロスは苦しそうに目を伏せた。

握った拳が震えている。

「……言えない。
 今は……君を巻き込みたくない」

巻き込みたくない?
それはどういう意味?

シャルロットは踏み込む勇気を握りしめた。

「わたくしは……
 あなたの奥様です。
 なのに……どうして何も話してくださらないの?」

カルロスは顔を上げた。

その表情は、
これまで見たことがないほど痛みを宿していた。

「……いつかすべて話す。
 だが今は……お願いだ、シャルロット」

“お願い”。

その言葉に込められた深い必死さに、
シャルロットの胸はさらに締めつけられた。

カルロスはゆっくりと近づき、
シャルロットの手を取ろうとする。

しかし──

触れる寸前で、
また手が止まった。

そして彼は、自分の手を静かに引っ込めた。

「……ここは、君には触れさせたくない」

その声は怒りではなく、
苦しみそのものだった。

シャルロットは何も言えなかった。
声にした瞬間、自分が壊れそうだった。

カルロスは鍵を手にし、
書庫の扉を閉めながら言った。

「シャルロット……
 どうか……俺を、信じてくれ」

その声は、
まるで涙を飲み込む直前のように震えていた。

しかしシャルロットの胸は、
別の感情で締めつけられる。

(信じたいのに……
 信じるための“理由”が、何ひとつ分からない……)

扉が静かに閉まり、
カチリと鍵の音が響いた。

その音は
“真実から閉め出す音” にしか聞こえなかった。

シャルロットは静かな廊下に立ち尽くし、
胸元を押さえた。

硝子細工のような心が、
またひとつひび割れた気がした。

そして彼女はまだ知らない。

カルロスが守ろうとした“危険”が、
前妻エリザベラの狂気に触れる
最初の警告であることを──。
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