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第8章「約束のカップ」
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書庫の前から離れたシャルロットは、
心に残るざらつきを抱えたまま、
長い回廊を歩いていた。
胸の奥がまだ熱い。
さっきのカルロスの強い声が、頭から離れない。
(……巻き込みたくない?
わたくしを守るため……?
それとも……見られたくない“前妻の影”があるから?)
答えは何も分からない。
ただ、胸が痛くてたまらなかった。
ふと、広間の隅にある小さなサロンに目が止まった。
ご婦人たちとお茶を飲むための部屋だ。
その中央のテーブルの上に、
ひときわ美しいカップが置かれていた。
薄い白磁に、
青い蔦の模様が繊細に描かれている。
(……綺麗)
まるで誰かの想いが宿っているような、
静かな気品を漂わせるカップ。
シャルロットはそっと手に取った。
「それは──」
低く落ち着いた声が背後から響いた。
振り返ると、カルロスが立っていた。
光の角度のせいだろうか。
彼の瞳の色が、どこか複雑に揺らいで見えた。
「……それは触れないほうがいい」
「……ごめんなさい。
とても綺麗だったので……つい」
謝ると、カルロスは近づいてきた。
だがその顔には、
悲しみとも怒りともつかない陰が浮かんでいた。
「そのカップは……
“特別なもの”なんだ」
シャルロットは一瞬で胸が冷える。
特別。
夫が“特別”と言うもの。
(……前妻エリザベラ様と
使っていたもの、なの……?)
喉がきゅっと締まる。
「申し訳……ありませんわ。
大切なものだったのですね」
そっとテーブルに戻して、一歩下がる。
カルロスはその仕草を見て、
気づかれないほど小さく息を飲んだ。
「……違う。そういう意味ではない」
「でも……“特別”と……」
「……あれは」
カルロスは一瞬だけ言葉を探し、
喉の奥で何かを押し殺した。
「……今は話せない」
また、沈黙。
また、“言えない理由”。
また、遠い背中。
シャルロットは微笑みを作り、
静かに頭を下げた。
「そう……ですわね。
わたくしには……知る必要のないことなのでしょう」
「違う。君が知らなくていいとは言っていない」
カルロスが近づく。
その距離は手を伸ばせば触れられるほど近いのに、
やはり彼は触れようとしない。
指先が宙で震える。
「……シャルロット。
誤解しているのなら……すまない」
「誤解……?」
「君を遠ざけたいわけじゃない。
ただ……“君を傷つけたくない”だけだ」
シャルロットの胸が一瞬だけ温かく揺れた。
でも。
(……その言葉が、
どうしてこんなにも苦しいの?)
「……でも、傷ついてしまいます」
小さく、抑えた声で言った。
カルロスがはっとして表情を上げる。
シャルロットは俯き、
震える声を絞り出した。
「理由が分からないから……
触れない理由も、言えない理由も……
全部、わたくしが“影”だから……なのかと」
カルロスの瞳が大きく揺れた。
「違う……シャルロット、君は──」
その時。
廊下からメイドの声が聞こえた。
「奥さま、午後のお茶のご用意が……」
カルロスは、言いかけた言葉を呑み込む。
シャルロットの目には
“また逃げられた”ように映ってしまった。
(……また。
また、言わずに終わってしまうのね……)
カルロスは言葉を失い、
シャルロットの横を通り過ぎながら、
小さく呟いた。
「……あのカップは、
君に……いつか渡すつもりだった」
シャルロットは息を飲んだ。
「……わたくしに?」
カルロスは振り返らず、
ただ静かに言った。
「君が……受け取れる日が来たら、だ」
その背中は遠く、
しかしどこか切なく滲んでいた。
(わたくしに渡す……?
でも、どうして今は……触れさせてくれないの……?)
答えはまた沈黙。
白いカップは静かにそこに佇み、
二人の距離を映すように、
淡い青の蔦が影を落としていた。
そしてシャルロットはまだ知らない。
そのカップには
“カルロスがシャルロットを初めて好きになった日の記憶”
が隠されていることを。
心に残るざらつきを抱えたまま、
長い回廊を歩いていた。
胸の奥がまだ熱い。
さっきのカルロスの強い声が、頭から離れない。
(……巻き込みたくない?
わたくしを守るため……?
それとも……見られたくない“前妻の影”があるから?)
答えは何も分からない。
ただ、胸が痛くてたまらなかった。
ふと、広間の隅にある小さなサロンに目が止まった。
ご婦人たちとお茶を飲むための部屋だ。
その中央のテーブルの上に、
ひときわ美しいカップが置かれていた。
薄い白磁に、
青い蔦の模様が繊細に描かれている。
(……綺麗)
まるで誰かの想いが宿っているような、
静かな気品を漂わせるカップ。
シャルロットはそっと手に取った。
「それは──」
低く落ち着いた声が背後から響いた。
振り返ると、カルロスが立っていた。
光の角度のせいだろうか。
彼の瞳の色が、どこか複雑に揺らいで見えた。
「……それは触れないほうがいい」
「……ごめんなさい。
とても綺麗だったので……つい」
謝ると、カルロスは近づいてきた。
だがその顔には、
悲しみとも怒りともつかない陰が浮かんでいた。
「そのカップは……
“特別なもの”なんだ」
シャルロットは一瞬で胸が冷える。
特別。
夫が“特別”と言うもの。
(……前妻エリザベラ様と
使っていたもの、なの……?)
喉がきゅっと締まる。
「申し訳……ありませんわ。
大切なものだったのですね」
そっとテーブルに戻して、一歩下がる。
カルロスはその仕草を見て、
気づかれないほど小さく息を飲んだ。
「……違う。そういう意味ではない」
「でも……“特別”と……」
「……あれは」
カルロスは一瞬だけ言葉を探し、
喉の奥で何かを押し殺した。
「……今は話せない」
また、沈黙。
また、“言えない理由”。
また、遠い背中。
シャルロットは微笑みを作り、
静かに頭を下げた。
「そう……ですわね。
わたくしには……知る必要のないことなのでしょう」
「違う。君が知らなくていいとは言っていない」
カルロスが近づく。
その距離は手を伸ばせば触れられるほど近いのに、
やはり彼は触れようとしない。
指先が宙で震える。
「……シャルロット。
誤解しているのなら……すまない」
「誤解……?」
「君を遠ざけたいわけじゃない。
ただ……“君を傷つけたくない”だけだ」
シャルロットの胸が一瞬だけ温かく揺れた。
でも。
(……その言葉が、
どうしてこんなにも苦しいの?)
「……でも、傷ついてしまいます」
小さく、抑えた声で言った。
カルロスがはっとして表情を上げる。
シャルロットは俯き、
震える声を絞り出した。
「理由が分からないから……
触れない理由も、言えない理由も……
全部、わたくしが“影”だから……なのかと」
カルロスの瞳が大きく揺れた。
「違う……シャルロット、君は──」
その時。
廊下からメイドの声が聞こえた。
「奥さま、午後のお茶のご用意が……」
カルロスは、言いかけた言葉を呑み込む。
シャルロットの目には
“また逃げられた”ように映ってしまった。
(……また。
また、言わずに終わってしまうのね……)
カルロスは言葉を失い、
シャルロットの横を通り過ぎながら、
小さく呟いた。
「……あのカップは、
君に……いつか渡すつもりだった」
シャルロットは息を飲んだ。
「……わたくしに?」
カルロスは振り返らず、
ただ静かに言った。
「君が……受け取れる日が来たら、だ」
その背中は遠く、
しかしどこか切なく滲んでいた。
(わたくしに渡す……?
でも、どうして今は……触れさせてくれないの……?)
答えはまた沈黙。
白いカップは静かにそこに佇み、
二人の距離を映すように、
淡い青の蔦が影を落としていた。
そしてシャルロットはまだ知らない。
そのカップには
“カルロスがシャルロットを初めて好きになった日の記憶”
が隠されていることを。
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