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第9章「影の夫人」
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午後の光が静かに傾き、
公爵邸のサロンは、柔らかな影を落としていた。
シャルロットは、
淹れたばかりの紅茶の香りの向こうで、
うすく震える自分の指を見つめていた。
(……わたくし、本当に“夫人”なのよね……?
後妻じゃなくて……公爵夫人、なのよね……?)
そう言い聞かせないと、
心が崩れてしまいそうだった。
その時、ドアの隙間から
ひそひそ声が聞こえてきた。
「ねえ聞いた? 新しい公爵夫人」
「まあ……影の夫人のこと?」
「そうそう。エリザベラ様のあとに嫁いだ可哀想な人よ」
「だって、公爵さまは今もエリザベラ様を忘れられず……」
「肖像画も書庫も、全部そのままなんですって」
胸が刺されるように痛んだ。
(影の……夫人……)
自分のことを指す言葉だと、
すぐに分かった。
シャルロットは慌てて席を立ち、
廊下に出る。
噂をしていた令嬢たちが驚いたように振り返った。
「あら……奥さま」
「まあ、ごめんなさい、聞こえてしまったかしら?」
「でも……本当のことでしょう?」
軽い笑みを浮かべながら、
残酷な言葉を落とす。
「公爵さまのお気持ちは、
まだ亡くなった夫人にあるのだとか」
シャルロットの表情がわずかに揺れた。
(……わたくしが影で、
前妻様が“本当の夫人”だというの?)
令嬢たちは楽しげに続けた。
「後妻なんて所詮……
前妻の影を埋めるためのものよ」
「エリザベラ様の美しさは伝説だもの」
「比べるなんて可哀想だわ」
シャルロットの心臓がひどく締めつけられた。
震えそうな声を抑えて、
シャルロットは会釈した。
「……先に失礼いたします」
その場を去るとき、
令嬢の声が背中に突き刺さった。
「影の夫人は、大変ね」
足が止まりそうになった。
でも止まれば、
涙が零れる気がして、
必死に歩き続けた。
廊下の奥へ逃げ込んだ瞬間、
大きな影が彼女の前に立った。
「……シャルロット?」
カルロスだった。
驚きに目を見張るシャルロットを見て、
彼は静かに息を呑む。
「顔色が悪い……何があった?」
シャルロットは首を振る。
「……なにも。
ただ……今日は、少し疲れただけです」
微笑もうとしたが、
震えてしまう。
カルロスはその震えに気づき、
そっと近づいてくる。
そして──
触れそうなくらい近い距離で手を伸ばし、
だが、やはり寸前で止めてしまった。
「……君を苦しめていたなら……
それは……俺の責任だ」
「そんな……わたくしは……」
「“影の夫人”だと、
そう思っているのか?」
シャルロットは息を呑んだ。
令嬢たちの噂を聞いていたのだろうか。
「そんな言葉……
誰が君に言った」
低く落ちたその声には、
怒りとも、悲しみともつかない強い感情があった。
シャルロットは視線を落とし、
小さくつぶやく。
「わたくしが……勝手に思っただけです」
カルロスは眉を寄せた。
今にも触れそうな距離で佇む。
「君は影なんかじゃない。
……だが、今は言えないことがある」
その“言えない”が、
シャルロットの胸をまた締めつける。
彼は言葉を続ける。
「君を蔑む者がいるなら……
俺が必ず止める」
「いえ……本当に……大丈夫で──」
シャルロットが言い切る前に、
カルロスの声が静かに重なる。
「……君を影だなんて呼ばせない」
その言葉は、
静かで強くて、
そして切ないほど優しかった。
シャルロットは息を飲み、
けれど微笑もうとしても、
胸の奥にある痛みは消えなかった。
(でも……わたくしは……
あなたの隣に立てている自信がないの)
カルロスはそっと言った。
「……信じてほしい。
俺が沈黙している理由を」
シャルロットは黙って頷いた。
頷くしかできなかった。
(信じたい……信じたいのに。
どうして、こんなにも苦しいの……?)
その夜、
シャルロットは初めて
「自分は本当に影なのかもしれない」と
胸の奥で呟いてしまった。
そして彼女は知らない。
カルロスが“影”と呼ばれるその言葉を
どれほど憎み、
どれほど苦しんでいるのか──。
公爵邸のサロンは、柔らかな影を落としていた。
シャルロットは、
淹れたばかりの紅茶の香りの向こうで、
うすく震える自分の指を見つめていた。
(……わたくし、本当に“夫人”なのよね……?
後妻じゃなくて……公爵夫人、なのよね……?)
そう言い聞かせないと、
心が崩れてしまいそうだった。
その時、ドアの隙間から
ひそひそ声が聞こえてきた。
「ねえ聞いた? 新しい公爵夫人」
「まあ……影の夫人のこと?」
「そうそう。エリザベラ様のあとに嫁いだ可哀想な人よ」
「だって、公爵さまは今もエリザベラ様を忘れられず……」
「肖像画も書庫も、全部そのままなんですって」
胸が刺されるように痛んだ。
(影の……夫人……)
自分のことを指す言葉だと、
すぐに分かった。
シャルロットは慌てて席を立ち、
廊下に出る。
噂をしていた令嬢たちが驚いたように振り返った。
「あら……奥さま」
「まあ、ごめんなさい、聞こえてしまったかしら?」
「でも……本当のことでしょう?」
軽い笑みを浮かべながら、
残酷な言葉を落とす。
「公爵さまのお気持ちは、
まだ亡くなった夫人にあるのだとか」
シャルロットの表情がわずかに揺れた。
(……わたくしが影で、
前妻様が“本当の夫人”だというの?)
令嬢たちは楽しげに続けた。
「後妻なんて所詮……
前妻の影を埋めるためのものよ」
「エリザベラ様の美しさは伝説だもの」
「比べるなんて可哀想だわ」
シャルロットの心臓がひどく締めつけられた。
震えそうな声を抑えて、
シャルロットは会釈した。
「……先に失礼いたします」
その場を去るとき、
令嬢の声が背中に突き刺さった。
「影の夫人は、大変ね」
足が止まりそうになった。
でも止まれば、
涙が零れる気がして、
必死に歩き続けた。
廊下の奥へ逃げ込んだ瞬間、
大きな影が彼女の前に立った。
「……シャルロット?」
カルロスだった。
驚きに目を見張るシャルロットを見て、
彼は静かに息を呑む。
「顔色が悪い……何があった?」
シャルロットは首を振る。
「……なにも。
ただ……今日は、少し疲れただけです」
微笑もうとしたが、
震えてしまう。
カルロスはその震えに気づき、
そっと近づいてくる。
そして──
触れそうなくらい近い距離で手を伸ばし、
だが、やはり寸前で止めてしまった。
「……君を苦しめていたなら……
それは……俺の責任だ」
「そんな……わたくしは……」
「“影の夫人”だと、
そう思っているのか?」
シャルロットは息を呑んだ。
令嬢たちの噂を聞いていたのだろうか。
「そんな言葉……
誰が君に言った」
低く落ちたその声には、
怒りとも、悲しみともつかない強い感情があった。
シャルロットは視線を落とし、
小さくつぶやく。
「わたくしが……勝手に思っただけです」
カルロスは眉を寄せた。
今にも触れそうな距離で佇む。
「君は影なんかじゃない。
……だが、今は言えないことがある」
その“言えない”が、
シャルロットの胸をまた締めつける。
彼は言葉を続ける。
「君を蔑む者がいるなら……
俺が必ず止める」
「いえ……本当に……大丈夫で──」
シャルロットが言い切る前に、
カルロスの声が静かに重なる。
「……君を影だなんて呼ばせない」
その言葉は、
静かで強くて、
そして切ないほど優しかった。
シャルロットは息を飲み、
けれど微笑もうとしても、
胸の奥にある痛みは消えなかった。
(でも……わたくしは……
あなたの隣に立てている自信がないの)
カルロスはそっと言った。
「……信じてほしい。
俺が沈黙している理由を」
シャルロットは黙って頷いた。
頷くしかできなかった。
(信じたい……信じたいのに。
どうして、こんなにも苦しいの……?)
その夜、
シャルロットは初めて
「自分は本当に影なのかもしれない」と
胸の奥で呟いてしまった。
そして彼女は知らない。
カルロスが“影”と呼ばれるその言葉を
どれほど憎み、
どれほど苦しんでいるのか──。
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